世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

NHKスペシャル・御柱を見て・その1

2016-06-30 08:33:07 | 古代と中世
またまた無知を曝け出すようで、恥じ入るばかりである。過日NHKスペシャルとして古代史ミステリー・御柱なる番組が放映されていた。何年かに一度、御柱祭りが行われるのは知っていたが、その御柱が何に使われるのか?・・・全く知らなかった。
以下、放映内容の論旨と、そのまとめ(結論?)を青字で記述し、当該ブロガーの注釈や所感を黒字で、数回に分けて記す。
歴史上、鎌倉時代に御柱を建てたという記録はあるが、その先が分からないとのプロローグから始まる。御柱は樹齢200年以上の樅の木であるという。
御柱には、1万年前縄文人の森の中での祈り、狩猟の縄文のカミと農耕を司る弥生のカミ、御柱には2つのカミの争いと和解の物語が秘められていた・・・として噺は始まる。
諏訪大社や諏訪地方の小さな祠、つまりその聖域は4本の柱で囲まれている。
その柱は7年ごとに建て替えられる、それを御柱祭と呼び、巨木に宿るカミの力をよみがえらせるためと云う。

        (四角に建てられた御柱がC.Gによって表現されていた)
         (諏訪大社上社前宮一乃柱:グーグルアースより)
             (小さな祠も御柱に囲まれている)
いずれも柱の先端は鉛筆のように尖っている。これらの映像を見るに及び、まさにこれは何だとの印象である。




                              <続く>

北タイ名刹巡礼#6:ワット・ウーモン

2016-06-29 06:31:20 | 北タイの寺院
<Wat Umong:ワット・ウーモン>

旧市街の西、緑深い山中に本堂を構える。多くの寺院が街中や田園の中にポツンとあり、境内に木々が少ない寺院が多い中にあって、当該寺院は鬱蒼とした木立の中にあり、日本人が古刹を参拝するときの感性と合致する。
中央付近であったろうか、写真のアショカ王柱に似た柱が聳えており、際立つ存在であった。
ここは現在、瞑想修行を中心とした宗派の寺院で、メンライ王により13世紀末に建立され、1371年6代・クーナー王(1355-1385年)がスコータイから招いた、高僧スマナーのために改修した。寺院は山中にトンネル(ウーモン)を掘った洞窟寺院で、幾つかの通路が穿たれ、その末端や諸処に仏龕があり、そこに仏陀坐像が安置されている。2010年10月ー11月の1か月間で、北タイ各地の寺院を60ケ寺巡礼したが、その中でははじめての経験である。
その洞窟の左上には古色の仏塔が建っている。この仏塔も煉瓦製で漆喰塗りなのだが、所々剥落しているが、その程度が少ないことから、仏塔そのものはメンライ王の時代を下るものと考えられる。
この寺院は、外国人の修行も受入れており、毎週月曜日には英語の瞑想説法会が開かれている。





ガティン祭りとは収穫儀礼であった

2016-06-28 07:07:42 | タイ王国
2010年の多少古い噺で恐縮である。ローイクラトンを1週間後に控えたターペー通りを歩いていると、百足(ムカデ)の幟がたっている。何か意味がありそうなので知人に聞くと、種々教えてくれた。
曰く、ガティンと云い、それは寺で一年に一回行われる功徳を施す行事だそうで、ガティンの式には象徴であるムカデの旗が必ずある。この旗には色々な意味があって、ムカデは「怒り」ということらしい。ムカデは毒を持った生き物で、噛まれたらすごく痛い。でも薬で治る。それと同じで、「怒り」も起こるがすぐ落ち着く。
また、昔の言い伝えに以下のようなものがあると云う。ある日、お金持ちでケチなおじいさんがいた。功徳を施すのが大嫌いでお寺に行かなかった。死ぬ前には自分の宝物を地下に埋めた。そして、死んでから自分の宝物を守るためにムカデになって生まれ変わったという。その後、「ムカデになって生まれ変わりたくなければ、ガティンの儀式で功徳を施しに行くように」・・・という教えになったとのことである。
タイ人は輪廻にこだわる。タンブン(功徳)を積み、来世はよりよき人間に生まれ変わろうとする。その一端が垣間見える噺である。
その年一回のガティンの儀式が、何故ローイカトンの直前に行われるかについての説明はなかった。・・・・ということで、分かったような分からないようなことで月日が過ぎた。
先日、「岩田慶治著・日本文化のふるさと・角川選書」を数十年ぶりに読み返していると、北タイのタイ・ヤーイ(シャン)族の稲作儀礼が記述されていた。曰く、稲穂が成長すると稲田の端にケーン・ピーと称する小祠を建てるとのことである。ケーン・ピーに招かれるのは、稲の守護神であり、それは女性のピーであると云う。そのケーン・ピーの周囲には、色々なターレオを掲げて悪霊の侵入を防いでいるが、幟状のそれは百足の形、魚の形をしたものである。岩田慶治氏によれば、陸棲動物の代表ムカデと水棲動物の代表魚がともに稲のピーの守護にあたっていると云う。図が示されていて、ターレオから吹き流しのように吊るされているのが、ムカデを表しているとのことである。
つまり、ガティン祭りは稲作社会における収穫祭で、ムカデは稲のピーを守護する象徴であった。ローイクラトン月に行われるのは、この時期に収穫が終わるためであり、この時期にガティン祭りが行われるのも頷ける。・・・当時、もう少し調べておれば、分かったであろうが、今日ようやく気付いた次第である。
この時期から北タイの気候はよくなる、茹だるような暑さは遠のき、多少なりとも涼しさが感じられようになる。ローイクラトンも情緒ある祭りで、まさに観光シーズンとなる、この時期にチェンマイへ旅されることをお薦めする。



続・錫鉛釉緑彩陶窯址発見で思うこと・その2

2016-06-27 07:45:28 | ミャンマー陶磁
<続き>


下は、富山市佐藤記念美術館発刊の図録「東南アジアの古陶磁(9)」のP39、P41とP73である。P39の上段は何を表しているのか判然としないが、関千里氏が云う複合ロゼッタ文様であろうか。同じP39の下段は4弁ないしは8弁の花卉文様であろう。P41中段は八芒星の間から蕨のようなものが飛び出る文様である。

これらの錫鉛釉緑彩盤の文様に似たものが、北タイに存在する。その一つはサンカンペーンで、上の写真は八芒星の中央に、塗りつめた4弁の花文が描かれている。これは、先に紹介した錫鉛釉緑彩の二つの盤の文様を一つにした感じである。下の写真は複合ロゼッタ文であろうか、錫鉛釉緑彩盤の文様と通じるものが在る。

その二つ目は、富山市佐藤記念美術館発刊の図録「東南アジアの古陶磁(9)」のP73である。中段がパーン青磁劃花四弁花文である。先のサンカンペーンや錫鉛釉緑彩盤の四弁の花卉文に似ている。
窯タイプの類似性や装飾文様の類似性のみで、論ずることはできないが、そこは素人のきやすさである。底辺にはタイ、ミャンマーで陶磁生産に従事したモン(Mon)族の翳をみる。
従って錫鉛釉緑彩陶片が出土したKaw Don村の窯は、焼成雰囲気が制御しやすい、小型の地下・半地下式であると想定される(外れれば大恥だが)。一刻も早い続報を望んでいる。




                           <了>




続・錫鉛釉緑彩陶窯址発見で思うこと・その1

2016-06-25 07:55:07 | ミャンマー陶磁
先日、グーグルアースを借用して東南アジアの形式別窯分布図を示したが、一部不正確な内容を記述したようで、申し訳ないと考えている。舛添のおっさんと云うより爺さんのようで恐縮であるが、参考文献を“精査”した結果、以下のように修正したい。合わせて書き足りないこともあった。それらについては、追記したいと考えている。
先ず、窯のタイプであるが、津田武徳氏の分類に従って示すと、以下のような系統図になる。
ここで、クメールやチャンパの窯である長方形の窯タイプのグーグルアースへの記載は省略する。
注目すべきは、北タイに多い横焔式地下・半地下窯(平面プランは楕円形)をミャンマーでも見ることができる。
注目すべき2点目は、中部タイに多い楕円形の横焔式地上窯も、ミャンマーで見られる点である。
注目すべき3点目は、シーサッチャナーライの最下層から出土するモン(Mon)窯は北タイと同じ、横焔式地下窯である。
これらをグーグルアースへプロットすると、次図となる。
最初に、上図にある中部タイに多い、楕円形プランの横焔式地上窯をご覧頂きたい。
      (メナム・ノイ窯:グーグルアースに掲載されている写真を拝借した)
         (シーサッチャナーライ窯:タイ政府観光局HPより)
          (パーン・ポンデーン窯:当該ブロガー写す)
        (ラグーンビー窯:ミャンマー政府考古局HPより)
次に北タイに多い、楕円形の横焔式地下・半地下窯の一部を紹介する。先ず、シーサッチャナーライの最下層から出土したモン窯である。
        (シーサッチャナーライ・モン窯:タイ政府観光局HPより)
         (パヤオ・ポーウィーターエン窯:当該ブロガー写す)
      (チェンマイ県メーテン郡・インターキン窯:当該ブロガー写す)
           (残念乍らミャウンミャ窯址写真が存在しない)
このようにして見ると、続報が出ていないKaw Don村の窯は、どのようなタイプであるのか、興味深々である。
中部タイはアンコールに支配された歴史をもち、クメールやクイ族の影響を受けた文化を持つが、モン(Mon)族の故地でもある。そうであるかどうかの確証はないが、彼の地に多い楕円形横焔式地上窯は、クメール系統に多い長方形横焔式地上窯と、北タイに多い楕円形横焔式地下・半地下窯の折衷形をなしている。
しかも、シーサッチャナーライの最下層はモン窯で、これは楕円形横焔式地下窯である。モン族が長らく製陶に携わってきた証であろうか。
北タイはタイ族が南下する前はラワ族が先住し、モン族のハリプンチャイ王国も存在していた。理解できないのだが、楕円形の横焔式地上窯と同地下・半地下窯の双方にモン族が絡んでいるように思われる。ミャンマーの下ビルマもモン族の故地である。従って彼の地に存在する双方のタイプの窯も、彼らのなせる業であろうと考えられる。
そのような中で、錫鉛釉緑彩陶窯址が発見されたKaw Don村の窯は、どのようなタイプであろうか? 地上式であっても地下・半地下式であっても、驚くことにはならない。なぜなら上述のように、彼の地には双方のタイプが存在するからである。


                             <続く>