世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

錫鉛釉緑彩陶窯址発見で思うこと・その3

2016-06-21 07:40:21 | ミャンマー陶磁
<続き>

この時期(15-16世紀)の隣国はどうであったろうか。ランナーは9代・ティローカラート王(在位・1441-1487年)、10代・ヨートチェンラーイ王(在位・1487-1495年)、11代・ケーオ王(1495-1525年)の時代であった。
ティローカラート王の時、大越の黎太宗(レ・タイントン)はランサーン王国侵攻後ランナーへも侵入するが、逆にこれを追いベトナムまで撃退している。王は仏教保護に力を入れ、ワット・ジェットヨートで第8回世界結集を行い、仏教文化を花咲かせた名君で、その治政下はランナー朝で最も繁栄した。
次の10代王は可もなく不可もなしで、8年ほどの短命であったと云う。11代・ケーオ王は、カムペーンペットやチャリエン(シーサッチャナーライ)まで版図に加え、仏教保護に力を入れた名君で、仏教繁栄についての名声はペグーまで聞こえたという。
何やら時代は同期するのであろうか?ペグーが繁栄していた時、時を同じくしてランナーも最盛期を迎えていた。このような時であるからこそ、交易は活発になり、文化の交流も盛んであったろうと想定される。ランナーやチャリエン(シーサッチャナーライ)の陶磁技術とペグー王朝下の陶磁技術に、何らかの交流関係があったであろうと云えば、飛躍し過ぎであろうか? チャリエンの窯形状とパヤジーの窯形状の類似性をどのように考えればよいのであろうか?
ここでMon族とはどのような民族であるのか? 俄然興味が湧いてくるが、それと反比例して情報は少ない。Hmong族については、チェンマイに友人がいる。彼の顔つき肌の色は、日本人と差異はなく、Hmong族が倭族と類縁関係にあると云われても、違和感を覚えないが、Mon族はどうであろうか?
インターネットで種々検索するが、ヒットしない。唯一ウィキペディアに少女の写真が掲載されているので、それを借用して掲げておく。
Monと云えばドバラバティー。そのドバラバティーの仏像、Mon国家であったハリプンチャイ王国の仏像やテラコッタ像は太めで、左右が繋がる眉が印象的である。
        (ランプーン国博展示のMon様式のテラコッタ仏頭)
シンソープ女王は、若かりし頃、シャン族国家のアバに連れ去られたという。それなりの美形であったであろうが、まさか眉が繋がっていたとも思えず、空想の像が結べない。少女の写真を見ると、確かに眉は濃ゆくて幅広に見えなくもない。しかしMon様式の仏像ほどではない。よってシンソープ女王の容姿のイメージが、なかなか結べないでいる。
過去、冬季の6カ月間ハノイに滞在していた。同じサービスアパートに奥さんが日本人で、旦那がキンさんというビルマ族の人がいた。日本語堪能であった。そのキンさんが、ヤンゴンに民族村があり、Mon族住居や生活スタイルが見られるという。いつでも案内しますとのことであったが、本当のMon族に会いたければ、モウラミャイン(Mon州)に行く必要があろう・・・等々想いは巡るが、実現するかどうか靄っている。







                                 <続く>



錫鉛釉緑彩陶窯址発見で思うこと・その2

2016-06-20 07:44:48 | ミャンマー陶磁
<続き>

字面ばかりで恐縮である。
話しがやや飛んだので引き戻す。当該ブロガーがこの錫鉛釉緑彩陶で思い出すのは、関千里氏の著書「東南アジアの古美術」である。関氏の著述の中で次の2項目について、読後注目し今日に至っている。それは・・・、
1.錫鉛釉緑彩陶の幾何学文様には、イスラム時代の11世紀から15世紀にペルシャで作られた軟陶の焼物に装飾されているアラベスクの趣がある。さらにペルシャは白釉彩画や白釉藍彩の技法を持ち合わせていて、白釉緑彩陶に与えた影響は大きいように思われる。
2.白釉緑彩陶の緑彩を施した陶器は前期、中期、後期の三種類に分けられる。そして製作期間は僅かで50年、長くて100年かもしれない。
・・・と記されている。
Sumitr Pitiphat 教授は先日紹介した書籍で、これを15-16世紀としている。では錫鉛釉緑彩陶が焼成された時代は、どのような時代であったろうか。それは当該ブロガーが思うに、関千里氏が言い当てているように思われる。再び「東南アジアの古美術」P340から引用して書き進めたいが、一部他の資料も援用して記す。
"タイ族の一派であるシャン族が台頭しアバ王国を建国した。そのアバが下ビルマに食指を伸ばして、ペグー王国との戦乱が続くことになった。中でも14世紀末の覇権争いは40年余り続く。長年の抗争で両国は疲弊したが、ペグー朝の王位継承にまつわる紛糾で好機をつかんだアバの騎馬軍団がペグーになだれ込み、若くして寡婦となっていたペグー朝第8代ラーザーディリ王の娘・シンソープ王女を連れ去ってアバ王国のティハトゥ王の正室とした。
しかしこのことがアバ王室の一人の王妃を嫉妬へと駆り立て、ティハトゥ王は殺害された。以降、王室内の混乱に乗じて1430年、シンソープ王妃は二人のモン族僧侶の助けを受けアバ王国を脱出し、ペグーに帰還した。
1453年、ペグー王国では王位継承問題が発生したが、臣下はシンソープを擁立してビンニャチャンドーの即位名で王位に就けた。”女王の在位期間を関千里氏は1453-1459年と記すが、1453-1472年の19年間であったとも云われている。
“シンソープ女王の治世下、ペグーが国家の中心になり、インド洋を通した海上交易により繁栄する。東のマラッカ王国と西のインドとの交易である。当然のことながら、タイ諸国の交易も、タノントンチャイ山脈を横断して存在していた。ペグー王国はダゴンを外港として交易を行っていたが、ダゴンを交易港にする前はマルタバンが交易の中心であった。“
(中世ランナー王国と周辺国の交易図を掲げておく、チェンマイからはタークを経由してタノントンチャイ山脈を横断してマルタバンへ至るルートと、ファーンからムアンパンを経由してマルタバンへ至るルートが記載されている:チェンマイ民族博物館掲示)
交易品については・・“ペグー王国はマラッカ王国から、赤塗りの粗製陶器、水銀、銅、辰砂、緞子、通貨となるガンサを輸入していた。インドのグラジャードからは銅、水銀、辰砂、アヘン、織物が輸入されていたと云われている。”
話しを歴史に戻す。“シンソープ女王はアバ王国の逃避行を助けてくれた二人の僧侶のうち、ダンマゼーディーを還俗させ、娘婿に迎え国家の大事を任せて、高齢を理由に退位した。ダンマゼーディーはペグー朝14代王(在位1459-1492年)となった”・・・と関氏は記すが、別の書には15代王で在位1472-1492年と記している。
“ダンマゼーディー王は、多くの宗派対立を鎮め、宗教界を浄化し、長老をスリランカに派遣し、ヤルヤー二川の上流で具足戒受けさせた。このように宗教改革に努めた王であった。
しかし1492年、ダンマゼーディー王は王子ビンニャー・ランによって殺害され、16代ビンニャー・ラン2世王(在位・1492-1526年)として即位した。歴代の中で傑出した大王であったと云われている。
その後落日が訪れる。タウングー朝のダビンシュエティー王(在位・1531-1550年)がペグー王国を攻略し、占領したのは16代ビンニャー・ラン2世王が没後の1539年であった。更に1545年マルタバンを包囲して6か月後に陥落させた。しかしタウングー朝のダビンシュエティー王は、1550年モン族太守に謀殺された。ダビンシュエティー王のあとを継いだ名君・バイナウン王(在位・1551-1581年)は、1551年にペグー王国の反乱は鎮圧され、ここにペグー王国は滅亡した。“
関氏はこれらの認識の上にたち、以下のように纏められている(P342)。“想像の域を出ないが、シンソープ王妃の時代から、あるいはそれ以前から下ビルマにおいて白釉陶から緑釉陶製作の序曲が始まっていたのであろう。そしておそらく女王在位中に白釉に緑彩を施した陶器の誕生をみたものと思われる。
この時期ことに繁栄した下ビルマのモン文化は、ダンマゼーディー王の時代更に華やかさを増していたと想像される。従って官窯的性格を秘め、優れた輝きを放っている白釉緑彩陶の緑彩を施した初期作品群は、15世紀中頃に製作され、中期は15世紀後半、後期は16世紀タウングー朝のバイナウン王時代に入って終焉を迎えたものと思われる“・・・と締めくくられている。
ここで当該ブロガーの見解である。ペグー朝ではシンソープ女王までが、建国以降13代・166年で、一代当たり12.8年となる。最も繁栄した14代・シンソープ女王、15代ダンマゼーディー王、16代ビンニャー・ラン2世王までの3代の治世期間は73年で、一代当たり24.3年となる。一代当たりの治世期間をみても、この3代の王の時代に反映した様子が脳裏に浮かぶ。そしてインド、マラッカ王国の交易品に辰砂が含まれていたという。緑彩の顔料に使われていたと思われる。
シンソープ女王の在位期間は1453-1472年である。これを錫鉛釉緑彩陶の初期と考えたい。ダンマゼーディー王の在位期間は1472-1492年で、これを中期と考えたい。さらに後期にあたるのが、ビンニャー・ラン2世王の在位期間である1492-1526年にあてたいと考えている。そのように考えれば、Sumitr Pitiphat 教授が指摘する15-16世紀との見解と同じとなる。




                        <続く>








錫鉛釉緑彩陶窯址発見で思うこと・その1

2016-06-19 14:48:14 | ミャンマー陶磁
先日「遂に錫鉛釉緑彩陶の窯跡発見か!」とのテーマで、バンコク大学発刊「Southeast Asian Ceramics Museum News Letter Feb-May 2016」の記事を紹介した。概要はアンダマン海に面したモウラミャインに近い、Kaw Bein(カウ・バイン)と云う田舎町の郊外3kmに在るKaw Don(カウ・ドン)村で、錫鉛釉緑彩陶の窯跡が発見されたというものである。
とうとう発見されたかという感慨もある。そこは一時ペグー王国の都であったマルタバンとは、一衣帯水の地でモン(Mon:別にモン(Hmong・苗)と呼ぶ民族がいるが、これとは異なる)族の本拠地である。


(上2点はバンコク大学付属東南アジア陶磁博物館の展示。下の1点はランプーン国博の展示である。)
この錫鉛釉緑彩陶が出現したのは、タノントンチャイ山中の墳墓跡からであった。墳墓跡の発掘騒ぎの後半段階で、タマサート大学のSumitr Pitiphat 教授が緊急の調査を行い、その結果を「Ceramics from the Thai-Burma Border」との書名にて出版されている。
それによると、それらの墳墓群から出土する遺物は、13-16世紀の年代を示すが、どのような民族の墳墓であるのか、盗掘で失われたものが多く、特定できなかったと云う。そこにはランナー、スコータイ、シーサッチャナーライ、中国陶磁とともに、件の錫鉛釉緑彩陶が含まれていたのである。その墳墓跡からは、それらの陶磁器と共に、青銅器や鉄剣、更には金の装身具、ランナーで用いられたサドル状の銀貨も出土した。埋葬された民族も中国と同じように、あの世でも金に困らぬよう銀貨を副葬したのであろうか。
写真は、その副葬品ではないものの、サドル状の銀貨で、当該ブロガーのコレクションの一つ(二つ)である。これと同じものが副葬されていたと、上掲書籍に掲載されている。
この発掘現場を見たいと思い、タイ人の友人に頼みオムコイ山中の発掘現場に向かうことにした、時は2010年である。チェンマイから200km。オムコイの家並から更に南下し深南部のバン・メーテン村に到着した。チェンマイから4時間の行程である。
そこにはメーテン川が流れている。その対岸を見ると1000mを遥かに越える峰々が屹立している。これらの峰は隣のターク(Tak)県との県境をなしている。先ずバン・メーテンの元締め宅に寄る。聞くと現在の発掘現場は、ミャンマーとの国境付近で、往復するのに2日間を要すと云う。近いところを尋ねると、数年前の発掘現場なら行けそうである。それはバン・メーテン村の裏に聳える山中で15km先であるとのこと。
                 (元締め氏)
5分も走ったであろうか、写真のゲートをくぐる、これはモン族(苗・Hmong)の村と外部を区別する結界である。そこから先が最大の難所で雨季にできた車の轍が深く、その轍からはずれると崖下へ転落である。おまけに山の稜線を走るものだから、両側は崖である。ようやく到着した。現地は尾根なのだが、比較的広い場所で、写真の左手のように、道からは1m程高くなっている。ここに数カ所の埋め戻された盗掘穴があった。
          (Hmong族集落の結界を通過して現場へ行く)
      (左手の一段高い場所が発掘現場で数カ所の盗掘穴があった)
幸いと云うか、当時の写真が残されていた。その写真のように発掘したのである。

下の写真は、別の墳墓跡から出土した陶磁で、ひとつはサンカンペーンの小壺と件の錫鉛釉緑彩盤である。もうひとつ食い足りなく購入を控えたが、発掘現場の経歴がはっきりしていることから購入しておけば良かった後悔している。

マルタバン近郊の窯場からコーカレイ、ミャワディーを経由し、よくもバン・メーテンの1400mもの山中に運びあげたものと感心する。現代の人間には考えられない行である。


                             <続く>



遂に錫鉛釉緑彩陶の窯跡発見か!

2016-06-16 10:15:41 | ミャンマー陶磁
過日、バンコク大学発刊「Southeast Asian Ceramics Museum News Letter Feb-May 2016」を見ていると、重要な記事が掲載されていた。関心事が高いと思われるので紹介したい。
紹介したい記事は2点で、1点目は日本の研究機関に関する記事で、2016.5.4の朝日新聞デジタルニュースを引用したものである。
それは”ミャンマーの古代サイトは中東貿易の手掛かりを提供している”・・・と題し、以下のような記事であった。
国立奈良文化財研究所(奈文研)、京都大学の研究者は最近、発掘調査のためヤンゴン大学考古学部門の専門家と政府文化省考古局と一緒に調査チームを結成した。京都大学チームは、京都大学教授で京大アセアンセンター所長である柴山守氏が団長である。2016年2月3-6日にアンダマン海に面すモン州のモーラミャインで窯跡を発掘した。それは15-16世紀の青磁の大規模な生産センターであったと考えられる・・・としている。以下、奈文研提供とする写真が3点掲げられている。
                (出土した青磁片)
              (高台底に窯印を持つ青磁片)
              (多くの粘土塊が出土した)
以上が1点目の記事であるが、中東貿易との関連には何ら言及していない。中東の遺跡からミャンマー陶磁が出土するが、そんなことまで言及する必要がないと・・・レポーター氏は感じたのであろうか?
このPJTを通じて、ミャンマーと日本人の若手を育成するという。大変結構なことである。ミャンマーと云えば、欧米人特に次に紹介するオーストラリアの独壇場であったが、これからは日本人の若手に活躍して欲しい。

2点目の記事は”モン及びカイン州の陶磁器生産サイトのサーマリーレポート”と題する記事で、Smithonian's Freer and Sackler Galleries April 9.2016から引用している。
錫鉛釉緑彩盤の焼成地であるカイン(別名:カレン)州のKaw Don村と他に11カ所の焼成地を最初に調査したのは、ミャンマー文化省のSan Win氏とスミソニアン協会のDr.Don.Heinである。
1980年代初期、タイとミャンマー国境そいのターク・オムコイと呼ばれる埋葬地で
錫鉛釉緑彩盤が発見された。Dr.Don.Heinのサーマリーレポートによると、それらはおそらくKaw Don村で生産されたであろうとしている。
それはKaw Bein(カウ・バイン)と云う田舎町の郊外3kmに在るKaw Don村で焼成された。そこには2mから4mの高さで10の窯跡の塚があった。当時の調査チームはKaw Don村を訪問した時に、そこは青磁と錫鉛釉緑彩陶の生産拠点であると認識した。
彼の2度目の訪問では、錫鉛釉緑彩陶に加えて、緑の単色釉と外側面が緑釉で内面が白(錫鉛釉)、更には焼成具が出土した。
Dr.Heinは、彼の地に於ける生産複合体が、彼が最初に考えていたより、広範に生産活動を行っていたであろうと考えている。それは、マルタバン壺や緑釉屋根瓦や他の製品を焼成する特殊な窯が含まれていたからである。
このトピックに関する彼の記事は進行中であり、今年にはオンラインで公開予定である・・・と記している。

これは衝撃の記事である。先の奈文研と京大のチームに発掘して欲しかったという思いもある。
従来、ペグー(バゴー)の寺院のパゴダ(チェディー)の基壇に緑釉の塼が多数認められること。更には1989年サイアム・ソサエティ・ニュースレターに、同じDr.Don.Heinによるペグーの発掘調査報告があり、そこにはペグーの東部キャイカロンポン・パゴダの近くで青磁片、緑釉や褐釉片、白い釉薬片(錫鉛釉)が出土したことから、ペグーないしはペグー近辺に錫鉛釉緑彩陶の窯があったであろうと考えられていた。今回の報告は、それを覆すものであり、マルタバン壺と同じような場所で焼成されていたとの報告である。
以下は、そのペグーとKaw Bein及びKaw Don村との位置関係を示すものである。

従来上述のようにペグー産と云われていたが、随分離れた場所である。しかしペグーに比べて製品の搬出は極めて都合のよい場所である。船便の良いところで、マルタバン壺同様マルタバンから輸出されていたことが、想定される。
窯形状はどうであろうか?続報が期待される。