今回は7月15日から8月5日までに見た水盤アートを紹介する。
<了>
過日、CHAOにロバート・H・スガ氏の赤ソンテゥに関する記事が掲載されていた。1乗車20Bから30Bに一挙に1.5倍に値上げしたのは今年3月だったとのこと。これは明らかにボッタクリとの記事であった。
最近運行を開始したRTC市内循環バスは、冷房完備で距離に関係なく1乗車20Bである。これと比較すると、冷房なしで荷台の長椅子で30Bはやはり高い。過日、チャンプアック・バスターミナルからランプーンへ行くのに箱バンのロットゥーに乗車した。下のチケットにあるように、片道25Bで冷房完備である。
チャンパックからランプーンへは30kmはあるだろう。赤ソンテゥは最大距離でも4kmには届かない。4kmで30B、かたや30kmで25B。やはりボッタクリと云われても、当然のような気がする。
古い話で恐縮である。25年前から20年前まで当地に仕事で赴任していた。当時のタイ北部の1日当たり最低賃金は、1995年で110B、1999年で130B前後だったと記憶している。政府が定めた2018年のそれは308-330Bである。幅があるのは地域間格差による。20年前と比較すると2.4倍になっている。赤ソンテゥは上記のように、この20年で6倍。赤ソンテゥ組合は、明らかに遣りすぎである。陸運局か県庁か知らいないが、許認可権をもつ役所と馴れ合いであろうか? 世界的な観光都市としての公共交通機関はチェンマイが最低である。役所はどこまで理解しているのか?
話題は飛ぶ、最近知り合った日本人のC氏。当該ブロガーは赤ソンテゥに乗る前に、価格交渉する。これが疲れることこの上ない。時には60Bとか80Bとか宣う。当然ながらこの手のソンテゥには乗らないのだが。C氏に尋ねると豪傑ぶりを発揮しているようだ。曰く、事前の価格交渉は一切なし。降りるときに20Bを渡すと云う。運ちゃんがクレームをつけたらプラス10Bの支払い。なおかつクレームが在る場合は、ソンテゥの屋根に書かれている1乗車30Bを指さして終わり。遣ってくれるではないかC氏、今後これを見習うことにした。
<了>
執拗に掲載して恐縮である。氏は雲南省深南部で佤(わ)族、タイ北部でラワとかルワと呼ぶ山岳民族(時としてワ(ว้า)とも呼ぶ)は倭族だと云う。氏の著作は多々あり、当該ブロガーが読了していない著作も多いので、その根拠を記した著作もあるかと存ずるが、未だ目にしていない。まさか倭族=佤族の語呂合わせではないであろうが・・・。
佤族とは、インドシナ半島北部山岳地帯に居住するオーストロアジア語族のモン・クメール語派に属する民族で、紀元前後にミャンマーのマルタバン湾岸からサルウィン川を遡り、チベット系民族と混ざった・・・そうであれば、氏の倭族論である長江下流域から漢族に追われて西南に逃れた倭族の一派とは異なるであろう。
その佤族、北タイではラワ族のとおりが良いので以降、ラワ族と表記するが、そのラワ族は3世紀頃にチェンマイ盆地に進出し、マラッカ国とよぶ民族国家を築いたが、8世紀ランプーンにモン(MON)族国家・ハリプンチャイが興りその勢力は衰退した。
佤族の住居は倭族同様高床式住居に居住する。しかし、倭族の高床式住居は木造高床式であるのに対し、ラワ族のそれは竹造高床式住居である。くどいが鳥越憲三郎氏は、最も基本である事柄は不変であると説くが、この違いをどのように説明されるであろうか?
写真は吉野ヶ里の復元高床式住居である。木造で復元されている。片やラワ族の竹造高床式住居が下の写真である。
この2葉の写真はラワ族の居住地ではなく、チェンマイ山岳民族博物館の屋外展示場のものであるが、全て竹材である。
何度も些末なことを取り上げ異論を述べたが、共通する事柄も多々存在する。ラワ族は弥生人と同じように貫頭衣を着用し、魏志倭人伝記載の倭人は、身分の貴賎無く皆黥面文身するとある。さすがに黥面はないが、刺青の風俗は残存している。更にワット・ドイカムの麓で毎年行われる儀式。それはプーセー、ヤーセー(何れもラワ族)の人食い鬼夫婦に水牛の生贄を捧げる儀式、これは弥生時代の遺跡から出土する牛の頭骨と類似するであろう。これは頭骨のみが出土することから生贄であるとされている。この他にも類似する風俗は存在するが、その類似性のみを捉えて佤族が倭族とする見解には、違和感を覚えざるを得ない。むしろ非類似性を追求し考察すべきであろう。
<了>
根拠の薄い噺で恐縮である。7月25日に発刊されたCHAO367号の特集記事は『トラムで周るランプーン』であった。みるとトラムで11箇所の名所・旧跡巡りである。過去4年半もランプーンの工業団地に通っていたが、紹介されている11箇所のうち、ワット・ハリプンチャイ、ワット・チャーマティーウィ、チャーマティーウィ女王像の3箇所しか行った経験がない。そこで過日、行ってみたがグーチャーン遺跡では、以下の如く考えたものの、前述の如く根拠の薄い推論で恐縮である。
先ずグーチャンと呼ばれる遺跡の写真から紹介したい。グーとは墓、チャーンは知る人も多いと思うが象である。遺跡とはその象の墓である。
話が逸れるが、ここでも多くの人々が参拝に訪れていた。信仰心の篤いタイの人々である。写真を見て頂きたい。砲弾型の仏塔に他ならない・・・これはどこかで見たとの思いがよぎる。ミャンマーのタイエーキッタヤー(シュリークシェートラ)はピュー国時代の10世紀以前の城郭都市である。そこには砲弾型仏塔が並ぶが、それとグーチャンの墓塔は同じ形である。
但しグーチャンの塔頂には、日本の五重塔の九輪に相当するものはないが、長い年月で崩壊したとも考えられる。
832年、驃国は南詔に滅ぼされ、そこに居住していたモン(MON)族とピュー族は、南詔に連れ去られたという歴史がある。ランプーンと云えばハリプンチャイ王国の故地である。初代女王チャーマティーウィはラヴォー(現ロッブリー)から招聘されたモン族で、ハリプンチャイはモン族国家であった。ハリプンチャイのモン族と驃国のモン族、塔の姿が似ていているのも、それなりの蓋然性があるのであろう。
このグーチャンと共にグーマーの墓塔も存在する。マーとは馬である。そのグーマーの墓塔を下に掲げておく。
この塔の形式はグーチャーンとは異なるようで、この原形も根拠は何もないが、ミャンマーに存在するのではないか?
ハリプンチャイの故地は、現在のチェンマイ盆地の南に位置する。古代から中世において、そこは交易の十字路であったであろう。北はシーサンパンナを介して南詔王国、東はクメール、南はシュリービジャヤ、西は驃国との交易である。それらの国々と相互に影響を及ぼしていたであろうとの想像に難くない。
古代から中世にかけての日本。朝鮮半島や中国、一時期は渤海との往来は存在したが、日本は受け手に終始したと考えると、やはり東海の果てる国であった。それに比較すると、北タイは決して鄙びた印象を受けないのである。
<了>
30数年前、当地と関りを持つようになったが、当時”カオ二ヨ”なる”おこわ”があることを知った。籐製のような小さな円筒状の蓋物に入っていた”おこわ”である。当然糯米(もちごめ)であるが、インディカ種の長粒米である。指で摘まみながら口に入れるのだが、タイ米特有の匂いはほとんどなく美味であった。その頃口にしたのは、白米の糯米のカオ二ヨであったが、いわゆる赤米のカオ二ヨも存在するという・・・このことについては暫く忘れていた。
過日、市場に出掛けた折、バナナの葉に包まれていたものを見た。カオ二ヨかと聞くと、そうだとのこと、一つ10バーツであったので購入した。滞在先に戻り開けてみると、赤米のカオ二ヨである。
赤米といっても複数種の糯米のようである。見ようによっては”おこわ(強飯)”の小豆のように見える赤米である。
強飯と云えば”ハレの日”に食す。現代に赤米を栽培する機運は高まっているようだが、近年まで壱岐を除き赤米はないに等しく、糯米に小豆をいれて紫に発色させた強飯を、祝いの日に食したものである。いつから小豆で発色させたのか、知る由もないが、昔は赤米の糯米を使っていたのであろう。
北タイは粳米、当然ながらインディカであるが、その品種は多い。次の写真はライスミルクのパッケージである。
なんと白米、赤米含めて7種類のコメのミルクである。赤米でも薄い赤、或いは黒米とでも云う発色のコメもある。弥生かどうか別にして日本の古代、大陸や西南海からの渡来人が、その本貫の地から持ち込んだ稲種はそれぞれであったろうと想像する。そうであれば、日本の古代もまた、パッケージの写真のように、多くの稲種に覆われていたであろうとの想いを持った次第である。
<了>