<続き>
奴国の丘歴史資料館展示品のうち、今回は奴国前期の春日市周辺から出土した品々である。展示数は少ないものの区切りが良いので、旧石器時代と縄文時代の展示品である。
次回から奴国に関する出土品を紹介する。
<続く>
<続き>
奴国の丘歴史資料館展示品のうち、今回は奴国前期の春日市周辺から出土した品々である。展示数は少ないものの区切りが良いので、旧石器時代と縄文時代の展示品である。
次回から奴国に関する出土品を紹介する。
<続く>
今回から、奴国の丘歴史資料の展示物と須玖岡本遺跡で眼にしたものを紹介する。
概要は、上掲のパンフレットに記されている。奴国王墓と云われる甕棺墓には、大きな上石が据えられていた。出土した青銅鏡は、中国の古様式を示す。それは前漢鏡と呼ばれるもので、多数副葬された甕棺墓の存在は、中国と北部九州の交流を示すものである。
『楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国、歳時を以て来たり、献見すと云う』これは「漢書地理志」に登場する一文である。更に「後漢書東夷伝」は、『建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす』。
建武中元二年は西暦57年。この年、倭の奴国が朝貢してきたので、時の光武帝は印綬を下賜したという。この倭の奴国の王都が、当該須玖岡本遺跡の地であった。
今回は遺跡公園として整備されている、甕棺墓群と王墓の上石などを紹介し、出土品については次回以降とする。
次回は、中国からもたらされた品、須玖岡本遺跡で鋳造された青銅器類等々の出土品を紹介する。
<続く>
前回は、大分県立埋蔵文化財センターで見た、天の鳥船の肖形物で装飾された須恵器を紹介した。このような装飾付須恵器は他にも存在する・・・と云っても、それは西日本のことであり、東国のそれについては皆目分からない。
島根県浜田市めんぐろ古墳出土 6世紀 古代出雲歴史博物館にて
先ず、我が島根県の事例である。子持ち壺と共に馬かと思われる動物が取りつけられているが、大分で見た装飾付須恵器のような明確な物語性は感じられない。
東大阪市 山畑22号墳出土 東大阪市立郷土博物館にて
装飾付須恵器の器台部分の透し穴は、長方形あり三角あり、その組み合わせもありだ。地域性なのか、何か約束事があるのかないのか、詳細を調べていないので、現時点では不詳である。子持ち壺、人物、馬、猪や犬であろうと思われる肖形が貼りついている。狩猟の場面であろうか。
兵庫県小野市勝手野6号墳出土 兵庫県立考古博物館にて
髪型からみて男女が対向している姿や、騎馬人物が鹿と猪を追いかけ、狩猟している様子。更に相撲をとる男同士が造形されている。被葬者の生前の様子を、反映しているものと思われる。
岡山県総社市法蓮出土 7世紀 倉敷考古館にて
子持ち壺のほか動物と、頭部が欠けた人物像かと思われる肖形が取り付けられている。これをもって何を物語っているのか・・・について述べる見識をもたない。
広島県北広島町石塚2号墳出土 みよし風土記の丘資料館にて
堂々とした鳥が天辺にとまる。羽が短いので水鳥には見えないが、どのような鳥を意識して造形されたであろうか。鳥は被葬者の霊魂を常世に運び、稲魂をもたらすと云う。古代からの信仰・風習を造形したものである。
大阪府太子町 一須賀古墳群出土 大阪府立近つ飛鳥博物館にて
人物、馬、鳥、他に獣が貼りついているが、狩猟の場面と被葬者の魂を運ぶ鳥を造形したものであろう。
和歌山日前宮出土 天理参考館にて
子持ち壺と騎馬人物、鳥に獣が貼りついている。被葬者の狩猟の様子を表したものと思われる。
東国の装飾付須恵器の様子をしらないが、西日本では狩猟の場面が多いようである。それは主要古墳の埴輪の様子や、装飾古墳の壁画場面と共通している。表そうとしたことは同じであった。
<了>
過日、大分県立埋蔵文化財センターを訪れた。驚いたのは珍しい装飾付須恵器を見たことである。その造形等々については、辰巳和弘氏の著作を参考に後程詳細を述べるが、古墳時代の社会情勢を表現したものに埴輪や装飾古墳壁画が存在する。装飾付須恵器もその一つである。しかし、装飾付須恵器は埴輪に比較し、出土する事例は少ないながらも、当時の風俗を表わしたものである。
前置きが長くなったが、大分県立埋蔵文化財センターで眼にしたのが、下掲写真の装飾付須恵器である。
この装飾付須恵器は、大分県国東市安岐町の一ノ瀬2号墳(6世紀末ー7世紀)から出土したものである。古墳は破壊され跡形もないとのことであるが、直径23mの円墳で、横穴式石室は破壊され、石室が開口する南側の周濠から、多くの須恵器と共に出土したとされている。
それは、直径22-23cm、高さ58cmの円筒状で上端は朝顔形に開いている。その円筒は4本の凸帯によって5段に区画され、上部4段には丸い透し穴があけられている。上端は、先に述べたように朝顔形で、そこに壺が載せられたいた器台であった可能性を連想させる。
須恵器・器台&壺 今城塚古墳 6世紀前半 今城塚古代歴史館にて
事実、他の古墳から、そのような須恵器が出土している。以下、その事例を紹介する。先ず、今城塚古墳出土の壺付器台である。
須恵器壺付器台 倉吉市野口1号墳 6世紀 倉吉市博物館にて
二例目は、鳥取県倉吉市野口1号墳出土の装飾壺付装飾器台である。器台は鳥で装飾され、壺は鳥や騎馬人物さらには子持ち壺で装飾されている。このように冒頭の一ノ瀬2号墳出土の装飾付須恵器にも、壺が載っていた可能性を否定出来ない。
そこで、当該装飾付須恵器を注視すると、上側3本の凸帯には、それぞれ数個の子持ち壺が貼りついている。子持ち壺は、下段から突起したアーム状の柱に支えられている。更に上から4段目には、最下段から伸びる数本の支柱の先に別作りの船が組み合わされ、船上には人物のほか、竿とおぼしき柱が立つ。3個体の船が見え、船底のあけられた穴に、支柱の先を差し込んで本体と結合させたらしい。その様子は本体の円筒の周囲を船が周回するかのようだ。支柱の一つには羽をひろげる鳥がとまる。ほかに付属する大小三つの鳥形パーツがあって、腹側に支柱の先端を受ける凹みをもつものもある。おそらく船上に立つ竿の先端に組み合わされたものとも考えられる。このように人を乗せた鳥船が造形されていたのである。
写真には写っていないが、朝顔形の内側口縁部付近に、10cm程の長さをもつ屈曲した粘土紐状のものが貼りついている。見ると角が、さらに短いが前足とみられる表現もみる。埋蔵文化財センターは、これを龍と表現している。
古墳時代の人々は、壺を神仙界を象徴する『かたち』と認識し、そこに前方後円墳の造形思想(ココ参照)があらわれている。当該装飾須恵器が、器台上に壺を載せていたとすれば、様々な造形物は、死者の魂を乗せた鳥船が円筒形の柱を周回しながら、壺の神仙界へ導かれるさまを造形したものと考えられる。円筒形をした須恵器本体は、崑崙山や蓬莱山などの仙山を意図したものであろう。口縁部内に貼りついた龍は、神仙界の瑞獣そのものである。・・・と云うことで、驚きをもって見た装飾須恵器は、他界観を表わしたものと思われる。
<参考文献> 辰巳和弘著 他界へ翔る船 新泉社
<了>
吉武高木遺跡は、”やよい風の公園”として整備されている。そこは、早良平野を貫流する室見川中流左岸扇状地(吉武遺跡群)に立地する。西を向けば飯盛山が眼前にせまる。その山塊を西に越えれば、魏志倭人に云う処の伊都国で、南の奴国との中間点で交通の要所でもあったかと思われる。
西を向けば飯盛山を望む、早良平野の一画に吉武高木遺跡は存在する
松本清張氏は、『清張古代游記』の中で、玄界灘沿岸地方は古代中国王朝の間接統治下にあったと説く。
1984年度調査で弥生時代前期末~中期初頭の金海式甕棺墓・木棺墓等11基より銅剣、銅戈、銅矛の武器(11口)、多鈕細文鏡(1面)、玉類多数(464点)が出土した(吉武高木遺跡)。
吉武高木遺跡出土品・まさに三種の神器である
遺跡群内には同様に多数の副葬品を有する前期末~中期後半の甕棺を主体とした墓地(吉武大石遺跡)、中期後半~後期の墳丘墓(吉武樋渡遺跡)がある。またこれらの墓地の周辺には同時期の集落が広がり、吉武高木遺跡の東50mからは12×9.6mの身舎に回廊をめぐらした掘立柱建物も発見され、「高殿」の可能性が指摘されている。
福岡市HPより
画面奥のマウンドから高殿址の柱穴が出土した
当該高殿は弥生前期後半ないし前期末に建てられたと想定されている。この高殿や出土遺物より、吉武高木遺跡は卑弥呼前期の早良王国の存在が指摘されているのは、松本清張氏が指摘する通りである。
早良王が埋葬された甕棺であろうか、銅剣や銅矛が埋葬されていた
辺りは公園となっており、甕棺埋葬地の所々が写真のようにモニュメント状に展示されている。
紹介した早良王国が弥生時代中期初頭に滅んだ。王墓群や戦士墓が弥生時代中期初頭をもって断絶していることによる。その滅んだ理由は、判断できないが、奴国の中心となった須玖岡本遺跡の首長に繋がる氏族との戦いに敗れたと想定される。まさに卑弥呼前夜に滅亡したものであろう。
<了>