前半と後半でイメージがえらく違う人形劇でした。
きっと、人形が間に合わなかったのかな。
前半を人形抜きで作っていって
後半は人形が主役になっていきます。
でも、命のない人形の走る姿のいとおしいこと
ラストシーンは涙ぐんでしまいました。
ただ、ここまで銀河鉄道を分解すると
理解できない人が続出でしょう。
あと、りんごがりんごに見えなかったのが
残念です。
最初のは照明の関係で柿に見えました。
次のは、馬車です。
2番目のりんごは「オホーツク挽歌」のオマージュだったのかな。
月夜の電信柱やバナナン大将のオマージュも。
黒谷さんはこれからさらに有名になっていくんだろうな。
台本は1982年版。
1987年版は出演者が多く、話も複雑なのでなかなか上演できない。
今回の会場はデパートが撤退したあとの空き地。
困ったことに、杭も打てない。
それでも、何とかテントは建った。
6時40分、10分押しで芝居が始まる。狭い会場は50人ほどの観客で満席だ。
ぶらっと通りかかっただけの客もいて、帰ってしまわないか気にかかる。
演出はのっけから、あまりよくない。暗闇の中で音楽だけが流れる。なんてこった。これでは先日の国民文化祭の舞台ではないか。おまけに、次に登場してきた主人公は、台詞を忘れて、ただ立っている。おいおい、これも、先日観たぞ。おまけに照明はなんだか、ふらふらしているし。
しかし、昔のメンバーが出てきたら、芝居がぐっとしまってきた。本当に、最初の三分間は目をつぶっていたくらいだったが、だんだんテンポが出てくる。
台本は自分で書いたはずなのにすっかり忘れているので、結構新鮮な気分で楽しめた。
無料公演だったし、はらはらしながらも、帰る客がいなくてよかった。
そのあとの飲み会が盛り上がったのは言うまでもない。
で、次の朝テントの中で目が覚めて、帰るときに寝袋を忘れてきた。8時間のスクーター移動は結構こたえたのだ。
初演は1982年11月水戸市南消防署前空き地特設テント出演は飯島悟(後に劇団第七病棟)、久保庭尚子(後に劇団SPAC)など、茨城大学に在学中の学生が主体だった。もちろん社会人も混じっていたが。公演は台風の直撃を受け、2日目が中止。50人程度が観劇した幻の舞台となった。
再演は1987年11月?これは改訂版。水戸市の駅南にある公園特設テント雨が降るとプールのようになる公園で公演の前の日の夜にテントに泊まったら水面が目の高さよりも高かった。敷いていたブルーシートが防水してくれてブルーシートだけが水面の高さまで浮いていたのだ。主演は市毛恵美子だったはず。
次の再演は1991年8月水戸ACM劇場。柴沼均演出。岩橋伸子が姉を好演。役者がそろっていた時期だ。
そして、今回。
では、「江川坦庵公「世は明け、我は今翔ぶ」」のどこがめちゃくちゃだったのか、というと、47分の1幕で数え切れない舞台転換があったことがまず上げられます。
実際の演技を見ている時間は、30分もなかったかもしれません。
大量の黒子が巨大な舞台装置を、あっちへころころこっちへころころ、演技を見ているのか、舞台装置の移動を見ているのか分からなくなります。1場面の台詞が15行ぐらいずつしかなくて、それが終わると装置が大移動するのです。
それから音楽です。転換のたびに生演奏が入りますが、せっかくリバウンディングマイク(足音を消して声だけを拾えるマイク)を使っているのですから、演奏なんかやめてその間も演技を続ければいいのです。
演奏の使い方も問題ありでした。
特に最初の演奏者の登場の仕方は、最悪でした。
なぜ、脇の扉からなのでしょう。
なぜ、スポットで追ってしまうのでしょう。
なぜ、マイクを使うのでしょう。
特にマイクを使ったことで、鼻息しか記憶に残っていませんし、最初は録音に形だけ合わせているのかと思いました。
生音で、黒子にちょうちんでも持たせて、登場すればまだ見場がよかったのに。
だいいち、なぜ、あの笛の独奏が最初に必要だったのでしょう。
まったく理解不能です。
脚本はこういう混乱を作った元凶です。
とくに、江川を褒め称えるだけの狂言回しの二人組みがいけません。
特に息子の扱いにひねりが足りません。
「父はすばらしいひとでした」ではなく
「私は父を憎んでいました」だったら
「私は父に殺されるところだったのです。でも、私も妹も拒むことは出来なかった」と台詞が変わってきます。
「領民のため。父はいつも正しい。でも、子供に必要なのは、自分を一番に考えてくれる親ではないのでしょうか。だから、あの、天城の百姓女が大寒屋敷に駆け込んできたとき、私はびっくりしたのです」
と、私なら書くかもしれません。
称えるだけでは芝居にはならないのです。
書き出すと全部注文が着いてしまいます。
エネルギーをこんな形で使いたくないので、この作品についてはこれ以上書くのをやめようと思います。
国民文化祭の「江川坦庵公「世は明け、我は今翔ぶ」」、あまりに酷くて一幕が終わったところで、会場をあとにしました。
脚本がめちゃくちゃ、演出がめちゃくちゃでした。
まず、脚本ですが説明に終始した一幕でした。台詞らしい台詞はドモ安が出てくるコントのシーンだけしかありませんでした。
一幕が終わったのが47分後。一時間半ぐらいたっているかと思いました。
それほど長く感じたのです
こんな、拷問のような芝居に付き合うのは耐えがたかったので出てきました。
先日の「いず夢」の舞台も役者はよかったものの、脚本と演出がだめで、こっちの舞台に力を注いでいるせいかと思ったのですが、さらにだめなものを見させられるとは。
結局、藤田弓子さんは演技指導はできるけれど、演出はできない人なんですね。
脚本家さんはコントはかけても、芝居はかけないみたいです。
で、こんな舞台になった原因は「入場料が無料」だからだと私は思います。
これで、入場料が5000円だったら大ブーイングだったと思います。
入場料を無料にしたことで、誰にも責任が発生しなくなった。
これほど、酷い例に出会うとは。
静岡県民として情けない思いで一杯です。
役者さんはいい着物を着て、がんばっていました。
まあ、のっけから台詞を忘れるというご愛嬌はありましたけど。
ただ、集中力を養う練習と活舌を重視した練習をしていれば、もうすこし台詞が感情に沿った形で、観客に届いたでしょう。
午前中、重松清の「舞姫通信」読了。
午後から高校生のお芝居を一本だけ観てきました。
阿部順という作家の脚本が気になったからです。
昨日一部分だけ見たのが、阿部順作品でしたので。
さて、批評するときには
「脚本も演出も役者もすべて面白い」
「このうち一つか二つは面白い」
「全部面白くない」
の3パターンがあって、これに「かなり」とか「まあまあ」とか「そこそこ」という修飾が着きますが、基本はこの3パターンです。
静岡東高の「桜井家の掟」は「脚本はまあまあ面白く、演出はかなり面白くなく、演技はそこそこ面白かったものの不満が残りました」というものでした。
演出については、説明が面倒なので省略しますが、演技は一度ちゃんと指導を受ければ、簡単に手直しが出来そうです。それが、たぶんそのまま演出にもつながるはずなんで、ちゃんとした指導を受けるのがよさそうです。一回の指導で直ります。
具体的に言うと、同じ役者がしゃべっていても、音が台詞として聞こえるときと聞こえないときがあって、その原因が動きながら台詞をしゃべることにあるのです。
なぜか、舞台の上では動かないといけないような錯覚にとらわれている生徒が多いのですが、首を振りながらしゃべると台詞が台詞として聞こえません。音が安定しないのです。同じように下半身が安定していないと、台詞が台詞として聞こえません。音が聞こえるだけなんです。
そこで、動いてからしゃべるのか、しゃべってから動くのかを区分することからはじめるといいと思います。
さらに具体的な話は、酔っ払っていないいずれかのときに。
6月20日の土曜日に静岡市市民文化会館で開催されている静岡県中部演劇公演を観て来ました。
昨年まで演劇部の指導をしていた学園の公演があるかと思って行ったのですが、今年は参加していませんでした。昨年の秋のトラブルが尾を引いているのかもしれません。一人がわがままだと、みんなの心が離れて行くのです。気がついてくれるといいのだが。
というわけで、自転車のポタリングをかねてふらっと行ったので、着いたのが14時20分で、静岡市立商業高校の「LeavinngSchool 振り返ることなく、胸をはって」(作 阿部順)が始まっていました。入ろうとしたら「終演15分前の入場はできません」の張り紙が、「あれ、もうそんな時間なの?」と一瞬思いましたが、みなさんロビーで待っているようです。では、いったん外へ出て自転車でそのあたりをぶらぶらして、会館に戻ったのが5分前。
なぜか会場の入り口のひとつにかなりの人が並んでいます。
劇場のモニターを見てもまだお芝居が続いているようです。
結局、ぞろぞろと会場内に入って行くので、私もついて行くことにしました。思いがけず、会場の中はかなりの人です。舞台では、熱演が続いて、結局終わったのは15時15分ごろでしたでしょうか。
あとで、批評担当の小原さんの「入場トラブルがあったんだって」という声が聞こえましたから、総務が張り紙を出しっぱなしにしたのが原因だったようです。
で、舞台ですが最後の10分ぐらいを観ただけなんで、細かい話はできません。ただ、細かいところまで演出の手が入っていることはよく分かりました。集団での動きのとめ方、とかラスト近くの間の取り方が工夫されています。
指導の先生か演出担当の鈴木綾乃さんの力量がなかなか高いことが伺えます。ただ、脚本のほうは「感動ってなると何でこうなってしまうのかな?」というのが素直な感想です。不良の岡本というのと、この生徒を思う石田先生というのが出てきますが、石田先生が生徒により過ぎなんでステロタイプに見えるのです。ない物ねダリですがこれに、もうひとつ超えた存在がいると、面白くなると思うのです。お客さんがたくさん入っていることからも、この演劇部がきちんとやっていることがうかがえました。
そのあと、双葉高等学校の「想稿・銀河鉄道の夜」(作 北村想)を観劇。
発声というよりも、発音とか呼吸ができていないので、ちょっと台詞が聞きにくい舞台でした。演出も転換をきちんとやろうとしすぎて、もたつきます。この作品の演出のやりかただと舞台監督がしっかりしていないと、面白くなりません。進行と転換を仕切る役が演出のほかにも必要なのです。それが、できると大事な場面で役者と役者が重なって、一人が観客からは見えない、というようなことがなくなるはずです。一人二役もあまり意識しすぎて声を変えたりすると、逆にわざと二役にしている意味が薄れてしまいます。
でも、北村想さんの脚本は未読ですが、面白かったです。ただ、それがお芝居の脚本として面白かったのかというとそうではなくて、思想として面白かったのはちょっと脚本としては問題かなとも思いましたが、よく考えてみるとそういうのもありかなという気もします。特に尼さんが「私たちの宗教でなくても天国にはいける」「天国は安らぎで、地獄は冒険です」というところは、面白かった。前半は宮沢賢治、後半は北村想の思想だろうか?あれだけ、いろいろな宗教書を読み漁った賢治が美しいキリスト教でなく、神道との融合が見られる日本の仏教の日蓮宗をえらんだ理由が「自分たちの神様を信じていなくてもいいのだ」という意味の台詞に示されているような気がする。
このあたりから後半の台詞は、もともとの銀河鉄道の夜にはない台詞ばかりで、賢治のいろいろの文章から引用したものだろうが美しい台詞でした。
カムパネルラ役の女の子は足の動きが気になりました。足がふらふらすると舞台が安定しないんです。
あと2本残っていましたが昨日の観劇はここまで。
まだ、心が回復しないようです。
昨年と比べるとちょっと地味な構成でした。
安田さんがメインを取らないのも、はじめてかも。
完成度は高かったと思うけど
素人受けはしていませんでした。
こっちが尻ばっかり見ている
ポジションだったのもよくなかったかな。
演奏は今迄で一番よかったです。
しかし、うんけんが参加していたとは。
顔が違って見えたけど。
ただ、MCはにーなちゃんがよかったな。
羽原大介の作品で初めて泣かされました。
芝居のテンポもいいし、いろいろな意味でごまかさないし
よかったですね。
汐崎アイル君も屈折した役どころで
娘に見せたかったですね。
で、お目当ての藤田美歌子さんですが
今まで観た中で一番出番が多かったです。
新宿芸能者旗揚げのときに
アンケート用紙の裏表に駄目だししたのは
彼女の中でも印象に強いらしく
「今日は、よかったよ」と言ったら
「うれしいな」と言ってくれました。
まあ、そのあと
「もう少し色気があるともっといいんだけど」
と付け加えておきましたけど。
(相変わらず、口の悪い私です)
今回も雨にもかかわらずほぼ満席。
9月公演は売り切れ続出かな。
ちょっとしつこいですが、「ジュウシチネンゼミ」です。
3.人物が書き分けられていない
顕著なのは、4人組の女子中学生とか、5人組の子供たちです。
女子中学生はそれぞれの台詞が多い割には、区分ができません。なぜかというと、感情を表現する台詞が少ないからです。
特に衣装が体操着で、髪型と体型しか区分するところがないので区分しにくいのです。
子供たちも同じです。まだ、私服なんで違うことは分かります。
でも、役割が見えてきません。芝居の同じ時間の中に生きているという感じがあまりしないのです。
・解決策
癖とか弱みを作ってあげると、個性が出てくると思います。
必ずお菓子を持っているとか、本の引用をするとかです。
都会の子だったら、こんな台詞しかいわない子も面白いかも。
「ママがいけないって言ったもの」
「ママに会いたい」
「ママは、私のことが一番好きだって」
「お巡りさん、先生はきれいかもしれないけど、私のママほどじゃないわよ」
4.感情が説明的だ、あるいはよく理解できない
たとえば、付き合っていたはずの堂本先生と珠代先生が別れるってことは、結構重要なはずなのですが、後半になるまでそれについて二人が話すことはありません。
別れて離れてしまうという説明が延々と続く印象を受けます。
さらに、いざその話をすることになっても、珠代の口から出てくるのは「行くのをやめるわけにはいかないの」という台詞です。
わくわくしませんよね。
堪えているのに、堪えきれない女性の気持ちを伝える台詞としては。
まあ、ミュージカルなんでかなり説明が多くなるのは仕方がないのかもしれませんが、演劇というのは感情を味わう部分が大きいので、そこら辺をスマートに見せてもらうと、かっこよくなります。
・解決策
上の例だったら、こんな台詞かな。メロドラマぽくしか思い浮かばないですが。
珠代「私は待っていなくちゃならないの?海だけはきれいなこの島で。それとも、待つのもだめなの」
あまりいい例ではありませんでした。
5.笑いがスマートでない
無理やり笑いを作っているので、笑いがスマートでないのです。せっかくスマートな劇場でやるのですから、スマートな笑いを見せてほしいものです。
では、脚本はこれくらいにして演出はどうでしょう
1.アイディアにこだわらないほうがいい
たとえば、盆を回すというのは普通の劇場ではできません。でも、頻繁に使ってしまうと見せ場での効果が半減します。
2.細かい演技を使わない
台詞が終わったあとも、会話の振りだけが続いて暗転していくシーンが何回か続きましたが、こういうシーンが続くと区切りがはっきりしなくなります。つまり、こういうシーンは盆が回るから作りたくなるシーンなのです。
ところが、何度も続くと見飽きます。
3.照明もきめ技は少なく
最初、照明が雑なのかなと思いましたが、山口さんなので、演出家さんのご要望にお答えしているのではないかと想定されます。きれいと思える照明も、何度も繰り返すと飽きてしまいます。
さて、全体の印象等です。
台詞はリバウンディングマイクのせいか、あるいはバトンから下がっている2本のマイク(最初星球かと思いました)のせいで、かなり明瞭に聞こえましたが、始まりの部分などは滑舌のせいか、あまり意味が伝わってきませんでした。
踊りは、どうなんだろう?
あまり、難しい振り付けはないようでした。
で、何が一番よかったかというと
アキコをやった九里つばさくんがよかったです。
一人だけメークがナチュラルでないという、謎は残りましたが、面構えはいちばん素敵でした。
ひざがすぐ曲がるという、問題点を克服すれば、いい役者さんになりそうです。