午前中、重松清の「舞姫通信」読了。
午後から高校生のお芝居を一本だけ観てきました。
阿部順という作家の脚本が気になったからです。
昨日一部分だけ見たのが、阿部順作品でしたので。
さて、批評するときには
「脚本も演出も役者もすべて面白い」
「このうち一つか二つは面白い」
「全部面白くない」
の3パターンがあって、これに「かなり」とか「まあまあ」とか「そこそこ」という修飾が着きますが、基本はこの3パターンです。
静岡東高の「桜井家の掟」は「脚本はまあまあ面白く、演出はかなり面白くなく、演技はそこそこ面白かったものの不満が残りました」というものでした。
演出については、説明が面倒なので省略しますが、演技は一度ちゃんと指導を受ければ、簡単に手直しが出来そうです。それが、たぶんそのまま演出にもつながるはずなんで、ちゃんとした指導を受けるのがよさそうです。一回の指導で直ります。
具体的に言うと、同じ役者がしゃべっていても、音が台詞として聞こえるときと聞こえないときがあって、その原因が動きながら台詞をしゃべることにあるのです。
なぜか、舞台の上では動かないといけないような錯覚にとらわれている生徒が多いのですが、首を振りながらしゃべると台詞が台詞として聞こえません。音が安定しないのです。同じように下半身が安定していないと、台詞が台詞として聞こえません。音が聞こえるだけなんです。
そこで、動いてからしゃべるのか、しゃべってから動くのかを区分することからはじめるといいと思います。
さらに具体的な話は、酔っ払っていないいずれかのときに。
6月20日の土曜日に静岡市市民文化会館で開催されている静岡県中部演劇公演を観て来ました。
昨年まで演劇部の指導をしていた学園の公演があるかと思って行ったのですが、今年は参加していませんでした。昨年の秋のトラブルが尾を引いているのかもしれません。一人がわがままだと、みんなの心が離れて行くのです。気がついてくれるといいのだが。
というわけで、自転車のポタリングをかねてふらっと行ったので、着いたのが14時20分で、静岡市立商業高校の「LeavinngSchool 振り返ることなく、胸をはって」(作 阿部順)が始まっていました。入ろうとしたら「終演15分前の入場はできません」の張り紙が、「あれ、もうそんな時間なの?」と一瞬思いましたが、みなさんロビーで待っているようです。では、いったん外へ出て自転車でそのあたりをぶらぶらして、会館に戻ったのが5分前。
なぜか会場の入り口のひとつにかなりの人が並んでいます。
劇場のモニターを見てもまだお芝居が続いているようです。
結局、ぞろぞろと会場内に入って行くので、私もついて行くことにしました。思いがけず、会場の中はかなりの人です。舞台では、熱演が続いて、結局終わったのは15時15分ごろでしたでしょうか。
あとで、批評担当の小原さんの「入場トラブルがあったんだって」という声が聞こえましたから、総務が張り紙を出しっぱなしにしたのが原因だったようです。
で、舞台ですが最後の10分ぐらいを観ただけなんで、細かい話はできません。ただ、細かいところまで演出の手が入っていることはよく分かりました。集団での動きのとめ方、とかラスト近くの間の取り方が工夫されています。
指導の先生か演出担当の鈴木綾乃さんの力量がなかなか高いことが伺えます。ただ、脚本のほうは「感動ってなると何でこうなってしまうのかな?」というのが素直な感想です。不良の岡本というのと、この生徒を思う石田先生というのが出てきますが、石田先生が生徒により過ぎなんでステロタイプに見えるのです。ない物ねダリですがこれに、もうひとつ超えた存在がいると、面白くなると思うのです。お客さんがたくさん入っていることからも、この演劇部がきちんとやっていることがうかがえました。
そのあと、双葉高等学校の「想稿・銀河鉄道の夜」(作 北村想)を観劇。
発声というよりも、発音とか呼吸ができていないので、ちょっと台詞が聞きにくい舞台でした。演出も転換をきちんとやろうとしすぎて、もたつきます。この作品の演出のやりかただと舞台監督がしっかりしていないと、面白くなりません。進行と転換を仕切る役が演出のほかにも必要なのです。それが、できると大事な場面で役者と役者が重なって、一人が観客からは見えない、というようなことがなくなるはずです。一人二役もあまり意識しすぎて声を変えたりすると、逆にわざと二役にしている意味が薄れてしまいます。
でも、北村想さんの脚本は未読ですが、面白かったです。ただ、それがお芝居の脚本として面白かったのかというとそうではなくて、思想として面白かったのはちょっと脚本としては問題かなとも思いましたが、よく考えてみるとそういうのもありかなという気もします。特に尼さんが「私たちの宗教でなくても天国にはいける」「天国は安らぎで、地獄は冒険です」というところは、面白かった。前半は宮沢賢治、後半は北村想の思想だろうか?あれだけ、いろいろな宗教書を読み漁った賢治が美しいキリスト教でなく、神道との融合が見られる日本の仏教の日蓮宗をえらんだ理由が「自分たちの神様を信じていなくてもいいのだ」という意味の台詞に示されているような気がする。
このあたりから後半の台詞は、もともとの銀河鉄道の夜にはない台詞ばかりで、賢治のいろいろの文章から引用したものだろうが美しい台詞でした。
カムパネルラ役の女の子は足の動きが気になりました。足がふらふらすると舞台が安定しないんです。
あと2本残っていましたが昨日の観劇はここまで。
まだ、心が回復しないようです。