虫プロ商亊は版権管理や出版をおこなっていた。
出版で「COM」の運営は苦しくなって休刊してしまったりしたが、版権というロイヤリティは、作品が出来上がり、キャラクター商品が売れれば、黙っていても入ってくるので楽な運営であるはずであった。
しかし、美味しいところには多くの心無い人たちが群がった。
昭和46年9月虫プロ商亊から、組合争議の火の手が上がった。結果手塚治虫が虫プロ商亊の責任を引き継ぎ、社長となった。
手塚先生は当然多忙、実務は社長代行が牛耳った。その彼が企画した幼児向け新雑誌「れお」が惨憺たる赤字を生んでいった。
経営状態は急激に悪化していった。人員整理など梃入れしたが,窮状を打開できず、昭和48年には虫プロ商亊の運営は、債権者委員会によって行なわれていた。
手塚社長とは名ばかりになってしまっていた。委員会でも内紛が起こり、経営状態は上昇してきたにもかかわらず、8月22日不渡りを出し、倒産したのであった。
累積赤字1億2千万円弱といわれている。
虫プロ商亊の倒産は、虫プロダクションとは全く関係ないのであったが、マスコミが虫プロ商亊と、虫プロが、影響あるような、過大に報道したり、そのため一般の人たちも虫プロ商亊と虫プロを、混同し、虫プロダクションのイメージが、落日のように落ちていった。
出版で「COM」の運営は苦しくなって休刊してしまったりしたが、版権というロイヤリティは、作品が出来上がり、キャラクター商品が売れれば、黙っていても入ってくるので楽な運営であるはずであった。
しかし、美味しいところには多くの心無い人たちが群がった。
昭和46年9月虫プロ商亊から、組合争議の火の手が上がった。結果手塚治虫が虫プロ商亊の責任を引き継ぎ、社長となった。
手塚先生は当然多忙、実務は社長代行が牛耳った。その彼が企画した幼児向け新雑誌「れお」が惨憺たる赤字を生んでいった。
経営状態は急激に悪化していった。人員整理など梃入れしたが,窮状を打開できず、昭和48年には虫プロ商亊の運営は、債権者委員会によって行なわれていた。
手塚社長とは名ばかりになってしまっていた。委員会でも内紛が起こり、経営状態は上昇してきたにもかかわらず、8月22日不渡りを出し、倒産したのであった。
累積赤字1億2千万円弱といわれている。
虫プロ商亊の倒産は、虫プロダクションとは全く関係ないのであったが、マスコミが虫プロ商亊と、虫プロが、影響あるような、過大に報道したり、そのため一般の人たちも虫プロ商亊と虫プロを、混同し、虫プロダクションのイメージが、落日のように落ちていった。