「鉄腕アトム」などで有名な漫画家の手塚治虫さん(47)の作品を一手に映画制作してきた「株式会社虫プロダクション」=東京都練馬区富士見台2の30の5、川畑栄一社長(38)=が、このほど多額の不渡り手形を出し、事実上の倒産をした。
1973年11月6日 読売新聞 「鉄腕アトム、劇画に敗れる」
-よりー
虫プロダクションという会社にたいして、世間では「手塚治虫の作品を作っていた会社」と、勘違いされていたことがわかります。
実際には、手塚作品でないものも制作していたし、原作であっても、手塚先生が、関わっていない作品も多くありました。
手塚先生は、虫プロイコール手塚治虫、と社会では思われる、ということを、いつも心配しており、そのため、自分が、関わらない手塚原作作品には、「自分の名前を入れないで」とまで言わせてしまったのでした。
それに天下の読売新聞でさえ当時の手塚治虫の年齢の確認をせず、一般的に言われていた年齢を鵜呑みにして、全く調べをせず書いていることに驚かされます。
11月1日倒産なら44歳、誕生日が、3日なので記事の日時なら45歳と書くべきですよね。
(私たちの年代のものは、新聞など活字は絶対で、「間違いは無いもの」と信じていたものです。ですから、人の言うことより、活字になったものを読むことで、信じていたのですよ)このころからマスコミのいい加減さが、暴露されておりますね。
つづきます
手塚作品の出版部門である「虫プロ商亊」も、去る8月初め に約四千万円の不渡り手形を出してひと足早く倒産しており、帝国興信所では「虫プロダクション」の負債総額は約四億円にのぼるものと推定している。一時は“戦後っ子”の少年の胸をときめかさせた手塚ブームは、最近の劇画ブームに王座を奪われ、こんどの相次ぐ倒産劇で手塚時代に終止符を打ったと言えそうだ。
単に劇画ブームで乗り遅れた虫プロが、倒産に追い込まれたと分析しているのが悲しい、もっと、内部事情を調べれば、いろいろと面白かったのにと思うし、今伝わっている虫プロの歴史が、違って語られたのではないかと残念に思う。
つづき
手塚さん所在不明
二年前に社長を交代したとはいえ、虫プロの事実上の主宰者である手塚さんは五日朝、手塚邸となりの同プロ事務所にちょっと顔を見せただけで、その後は所在不明になっている。
この記事になると、当時手塚治虫の行動の予定は、手塚プロが管理していた。いかに記者が手抜きの取材をしているかがわかって面白かった。
のちに手塚先生も、「週刊読売」11月24日「鉄腕アトム奮戦むなしの記」のなかで。
その留守中に記者たちが、虫プロの臨終の記事の取材に飛び回っているのを知らなかった。翌日朝刊を見て、自分がビックリした。手塚治虫が行方不明だという。こいつはまんがになるわいと思った。
と書いております。
ではその留守中とはなにをしていたのか。
週刊大衆 11月22日 「負債四億円“鉄腕虫プロ”劇画ジャングルに沈没」 の中の記事から
この日、「漫画集団」四十周年の記念サイン会があって、手塚氏や馬場氏が顔を出していたとき、“虫プロが不渡りを出した”というニュースが流れ、某新聞社が虫プロに電話した。
もちろん手塚氏は不在だったが、それを“行方不明”に仕立てあげられてしまったわけだ。
思わぬ記事で、取材した記者は電話だけの取材、自分の思惑と、売れる記事にするため、行方不明でもない手塚治虫を行方不明にして、面白くかこうとしていたのであった。
そんな暇があったのなら、Nさんの事でも調べておいてくれれば、社員の不払い分を含め、もっと被害が少なくなったはず、とは、私のつぶやき。