「いやあ、困ちゃったなあ。ぼく、なにもわからないんですよ。いま、その新聞を買いにやらせたところなんですけどね」
と、漫画家の手塚治虫さんはいう。手塚さんが社長をしている虫プロ商事が、4千万円の不渡り手形を出したことが報じられた9日夜。
「1年ぐらい前から、苦しい、苦しいという報告は受けてましたけれど..........。ぼくが社長というのは名前だけで、経営はまかせっきりなんですよ。虫プロ商亊で出している「COM」の復刊2号に載せる「火の鳥」の原稿も、つい、おとといまで描いていたんです。あれ、出る見通しつかないのかな」
(略)
昭和41年7月に、虫プロの版権部門が分離して出来た会社、鉄腕アトムなどの版権販売などが仕事の中心だった。アトムブームが去ってから、安易に手を出した出版事業で失敗してしまったわけだ。印刷、製本、紙屋などの債権者と、近く会議を開いて、今後どうするかを相談するというが、原稿料をもらっていない当の手塚さんと手塚プロも大口の債権者である。
1973年8月24日 週刊朝日
「鉄腕アトムの救援きかぬ手塚治虫氏の悩みー虫プロ商亊ピンチー」 より
と、漫画家の手塚治虫さんはいう。手塚さんが社長をしている虫プロ商事が、4千万円の不渡り手形を出したことが報じられた9日夜。
「1年ぐらい前から、苦しい、苦しいという報告は受けてましたけれど..........。ぼくが社長というのは名前だけで、経営はまかせっきりなんですよ。虫プロ商亊で出している「COM」の復刊2号に載せる「火の鳥」の原稿も、つい、おとといまで描いていたんです。あれ、出る見通しつかないのかな」
(略)
昭和41年7月に、虫プロの版権部門が分離して出来た会社、鉄腕アトムなどの版権販売などが仕事の中心だった。アトムブームが去ってから、安易に手を出した出版事業で失敗してしまったわけだ。印刷、製本、紙屋などの債権者と、近く会議を開いて、今後どうするかを相談するというが、原稿料をもらっていない当の手塚さんと手塚プロも大口の債権者である。
1973年8月24日 週刊朝日
「鉄腕アトムの救援きかぬ手塚治虫氏の悩みー虫プロ商亊ピンチー」 より