貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

紫蘭と知らじ

2019-08-21 09:01:59 | 日記

紫蘭と知らじ

令和元年8月21日

 ゲリラ雨。

雨音がこんなにするとは、

今夏のここ数日の雨音だ。

 夜半、サイレンの音がし、

近所で止まったような感じ・・・。

 夢うつつ状態の中で、そして、

また「ウーウーウー」と

平常はけたたましいサイレンも

雨音で消されたよう。

 救急車かなと脳裏を横切るが

まだ夢の中。

 携帯の防災警報のおしらせが

はいる。

 その音ですっかり目覚める。

見ると、青梅市で大雨、土砂災害

等警報3になっている。

 アメダスを見ると、洪水や氾濫が

起こりそうな低地に色違い。

 あきる野や飯能の方にも出ている。

 多摩川は、小作の堰の方から非常時の

サイレンがなる。その気配はなし。

 大丈夫と、また眠りに入る。

 朝、歩行禅に行こうとすると、

とんがりぼうしが数本並んでいる。

 覗くと、あのゲリラ雨で土砂崩れ。

 大丈夫じゃなかったのだ。

 

 不幸中の幸いという言葉しか

浮かばないが、車三台が被害にあい、

人や家には被害はなさそう。

 ちょっとだけ安堵。

 そして、朝から夕方までのその対応、

対処、後始末などを支援する。

 ほんと、防災対策の方々の素早い

動き、近隣の人たちの協力など

本当に有難い、有難し の一日となる。

 今朝は、藤枝市へ。

 個人宅に芭蕉句碑。

 石部さんのお宅の玄関前にある

という。思い切って行ってみる

ことにする。

 タイミングよく奥様がお見えに

なる。ご主人は随分前にご逝去と

のこと。

 句碑は、シランの葉に覆われて

いる。

「もう邪魔で・・・」と関心のない

方には、無用の長物。

 可愛い句碑だが、刻印は鮮明。

 句は、

「馬方は 志らじ時雨の
  

     大井川」 はせを

 

 

 

 


芭蕉とかのこ・・・二碑

2019-08-20 09:49:17 | 日記

芭蕉とかのこ・・・二碑

令和元年8月20日

 松等三樹の中に、句碑。

 芭蕉の句碑だ。

 芭蕉の句は、

「梅若葉 丸子の宿の 

      とろろ汁」 

 ほんと。美味しそうだなあ!

そして、

上の碑は、岡本かの子さんの

『東海道五十三次』の文章。 

 以前かの子夫妻が東海道を旅し、

当店に来店。

 その時の様子。

「午前の陽は流石に眩しく

美しかった。

 老婢が『とろろ汁が出来ました』と

運んできた。

 別に変った作り方でもなかったが、

炊き立ての麦飯の香ばしい湯気に

神仙の土のような匂いのする自然薯は

落ち着いたおいしさがあった。

 私は香りを消さぬように

薬味の青海苔を撤(ふ)らずに

椀を重ねた。」

が、刻印されている。

 自然薯は、幼い時から大好き!

 山の物は粘りも香りも違う。

ほんとの自然薯をつかっている

のだろう。

 「神仙の土のような匂い」という

表現の仕方には、舌を巻く。


鞠子宿の三樹

2019-08-19 09:18:52 | 日記

鞠子宿の三樹?

令和元年8月19日

 今朝からちょっとだけ涼しく

なるという予報。

 夏は大好きだが、年々適応力

も下がってきているかな?

 有難し!

 今朝は、丁字屋の傍、鞠子宿。

 これは、ブラジルの国花。

「イベー」

そして、漆の木。

こんな大木は初めて!

かぶれに注意!

 幼い時仲間にかぶれる子が

いたなあ。

 そして、

椋の木。

秋に、休憩の紫黒の果実がなるという。

食用にもなるという。

 どんな味かな?

 これら三樹もまた見落とさずに、

今回は楽しめた。


『いしぶみ』と鯉城

2019-08-18 09:19:21 | 日記

『いしぶみ』と鯉城

令和元年8月18日

 『いしぶみ』を読了!

 切なさと哀れと残酷と無残さ。

広島二中一年生 全滅の記録。

「はじめに」

「広島市には、”鯉城”と呼ばれる

お城があります。もちろん原爆で

一度吹っ飛んだものを、

戦後、復元した建物です。その

周囲に水をたたえ、鯉が泳ぎ、

蓮の花が咲く、美しい内堀が残さ

れています。将来、ここは市民の

憩いの公園となり、観光の対象と

なるはずですが、考えてみれば、

このお城といいお堀といい、

戦争のための要塞として生まれた

ものです。近々数百年前までは、

日本でも外国でも、せいぜい

この程度が戦争の規模であった

わけです。

 ところがどうでしょう。

第一次大戦では、タンクが発明され、

毒ガスが生まれ、第二次大戦では

飛行機が主要戦力となり、火器も

強力化する一方となり、挙げ句の

果ては極め手の武器として核兵器

が生まれました。戦争史上類のない

広島の悲劇は、それでも核爆弾の

うちでは極めて幼稚なもので、

その後エスカレートする一方の

核兵器開発は、人類を、地球を、

死滅するに足る保有量となって

います。・・・・。」

190頁に及ぶ広島二中一年生の

投下後の一人ひとりの様子が

端的に描かれている。

 その慰霊碑に記されているように、

「なぐさめの 言葉しらねど

 ただ泣かむ

 汝がおもかげと

 いさをしのびて」

 ただただただただ・・・

泪・泪・・泪・・・泪・・・

4人の先生と一年生321人の

6日の投下直後から数日の命

の尊い記録。

「烈し日の 真上にありて

    八月は

腹の底より 泣き叫びたき」



人数とは英雄・勇者!

2019-08-17 08:48:29 | 日記

人数とは英雄・勇者!

令和元年8月17日

 丸子川の橋のたもとにはいろいろある。

石碑と説明板。

細川幽斎の歌碑。

「人数には 

 たれをするかの 

       丸子川

 けわたす波は 

  音ばかりして」

 天正18年(1596)3月8日,

細川幽斎が豊臣秀吉の小田原

の陣の先陣として,

宇津の山路を越え,ここに差し

掛かった時,地元の人がこの川を

「まりこ川」と言うのを聞いて

詠んだ歌だとある.

「人の数」になるは、

 有名な武者になる。

 勇者といった古語が,

ここに使われた「人数」だそうだ。

 勇者には誰がなるのだろうか。

(私こそが先陣で英雄になってやる)

 聞けば丸子川(鞠子川)という。

 この川を毬を蹴るように,

馬のヒズメが波を蹴立てて勇ましく

響く。

 そんな心境かな?

 さて、細川幽斎という人?

戦国時代から江戸時代初期に

かけての武将、大名、歌人。

幽斎は雅号。法名を玄旨という。

初め室町幕府13代将軍足利義輝に仕える。

 その死後は15代将軍・足利義昭の

擁立に尽力するが、後に織田信長

に従い、長岡藤孝を名乗る。

 丹後宮津11万石の大名となる。

 本能寺の変後、主君・信長の死に

殉じて剃髪し、家督を忠興に譲るが、

その後も豊臣秀吉、徳川家康に

仕えて重用され、近世大名肥後

細川家の礎となった。

 また、二条流の歌道伝承者・

三条西実枝から古今伝授を受け、

近世歌学を大成させた当代一流

の文化人でもあったという。