貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

千住宿に「奥の細道」プチテラス

2022-04-23 11:30:57 | 日記
令和4年4月23日(土)
千住宿:奥の細道プチテラス

 足立市場の正面ゲートのすぐ横にある
「奥の細道プチテラス」は、
鰻の寝床公園?
 国道4号線沿いで、
ちょっと「えっ!」という感じも
否めない。
 その一画に、
等身大に近い芭蕉の白色の石像
がある。
 これが一番に飛び込んで来る。

 石像も珍しい。
 等身大なのか、ちょっと小さめか?
 このプチテラスに用いられている敷石は、
昔の「やっちゃ場」の「せり場」に
敷かれていた御影石。
 他、「日光道中 千住宿道標」、

「奥の細道入口、やっちゃ場看板」

などが設置されている。
奥の細道出立の地碑


千住:矢立はじめの地碑

2022-04-22 14:39:39 | 日記
令和4年4月22日(金)
大橋公園:奥の細道矢立初めの地碑
 
 「奥の細道」三千里の旅の始まり
の句を詠んだ場所
<矢立初めの地>
に建てられた記念碑が、
真正面に見える。

 千住大橋公園である。
 元禄2(1689)年3月、
芭蕉は、弟子の曾良を伴って深
川(江東区)から船で遡上して
千住(足立区)に降り立ち、
陸奥へと旅立つ。
 
「・・・むつましきかぎりは
宵よりつどひて、舟に乗て送る。
 千じゆと云所にて舟をあがれば、
前途三千里のおもひ旨にふさがりて、
幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。」 
                         
「行春や 
  鳥啼き魚の 
     目は泪」
と、旅立ちの地である
千住の情景が記されている。

 碑の背面には、
芭蕉のことと当時の千住のことが
説明されている。
 また、公園には、「
おくのほそ道行程図」や、
紀行文と芭蕉らの出立の様子が
描かれた屏風絵が掲示されている。


 大橋芭蕉公園とでも
名称替えしても良い程?!


千住大橋の下は、歴史の宝庫!

2022-04-21 13:43:11 | 日記
令和4年4月21日(木)
 水管橋を降りるとすぐ釣り船が一艘。
 壁に、
「おくのほそみち 旅立ちの地」
と太字で、その紀文がかかれ、
蕪村筆による芭蕉と曾良が描かれている。
  
 隣には、
「千住大橋と荒川の言い伝え」とか、
「河川の移り変わり」
「潮待ち茶屋」のこと等、

板碑に河川の歴史が
分かるように記されている。 

 千住大橋の全景が撮ろうと、
釣りを楽しむ人の方へ足をのばす。             
「この時期、何が釣れるんです?」
と挨拶。
80代の男性と暫く歓談。

 4本の釣り竿を活かし、
「今のところハゼ二尾。」
と見せてくださる。                             天ぷらにするそうだ。 
 鰻やエイなども釣り上げるという。
 話し好きな方で、
仕事の関係で両足ががに股になったことや
釣った鰻は鮨屋に持って行くと、
歓んでくれること等ほんに気さくに・・・。
 生粋の北千住っ子! 
区切りのよいところでお暇乞い・・・。


旅立ちの地 千住大橋

2022-04-20 14:33:10 | 日記
令和4年4月20日(水)
足立区: 千住(せんじゅ)大橋
 8時前に、出発。お茶の水で乗り換え、
北千住駅で降車。
 隅田川を目指して歩くこと20分。
国道4号線の日光街道に出ると、
大橋が見えてくる。

 千住大橋は、隅田川にかかる橋で、
北岸は足立区千住橋戸町、
南岸は荒川区南千住六丁目。
 旧橋(下り方向)・新橋(上り方向)
の二橋で構成されており、
旧橋の上流側に東京都水道局の工業用
水道専用橋である千住水管橋が
ほぼ並行している。
 修理中で、手前が水道管橋。

 最初に千住大橋が架橋されたのは、
徳川家康が江戸に入府して間もない
文禄3年(1594年)11月のこと。
 隅田川最初の橋である。
 当初の橋は現在より上流200m
ほどの処にあり。
 当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」
と呼ばれる渡船場があり、
古い街道筋にあった場所と推測。
 水管橋を降りるとすぐ釣り船が一艘。
 壁に、
「おくのほそみち 旅立ちの地」
と太字で、
その紀文がかかれ、
蕪村筆による芭蕉と曾良が描かれている。
 
~つづく。

江戸に造った芭蕉墓句碑

2022-04-19 15:13:57 | 日記
令和4年4月19日(火)
  元禄7年(1694)に芭蕉が
難波で亡くなったのを聞き、
江戸の門人杉風・其角等が
翁を江戸で弔うため、
この寺に落歯・発句を埋め、
時雨塚を造る。

 後に、其角や嵐雪等の碑を建立。                    
 芭蕉の碑を含めて、宝晋斎其角墓・
玄峰嵐雪居士・松籟庵太無居士・
二世松籟庵霜後居士・麦林舎乙由居士・
守黒庵眠柳居士の石碑があったという
   (「東都古墳志」)。
 この時雨塚、もしくは短冊塚は
戦災で損傷し、現存するのは
台石のみであるという。
 芭蕉・桃青の墓句碑


 このお寺は、
深川小学校誕生の地であもある。