貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

芭蕉を弔う時雨塚

2022-04-18 13:40:59 | 日記
令和4年4月18日(月)
江東区: 長 慶 寺 
   
 深川孫右衛門夫妻より、
越後村上の霊樹山耕雲寺
二三世一空全鎖大和尚を
開闢開山に勧請。
 当山二世大事不安大和尚布延する。
 古来、楠の老木が林立していたので
楠寺とも呼ばれる。
 また、開創より31年後、
万治3年(1660)、時の本所奉行
徳山五兵衛の差配により
寺地が除地となり、
徳山家を中興開基とする。
 この寺には亀戸天神の宮司
大鳥居家の墓がある。
 言い伝えによると、
亀戸天神の初代と長慶寺の初代が
共に同じ時期に江戸で布教、
互いに励まし合い、交流していたという。
 その縁で、この寺に亀戸天神の宮司の
墓がある。
 元禄7年(1694)に芭蕉が難波で
亡くなったのを聞き、
江戸の門人杉風・其角等が翁を江戸で弔う
ため、この寺に落歯・発句を埋め、
時雨塚を造る。
 時雨塚の説明板。
~つづく。

行く秋を追いかけたい一心!

2022-04-17 14:24:25 | 日記
令和4年4月17日(日)
境内には「女木塚」が建立され、
芭蕉翁像と
参拝で詠んだ句等整備されている。
 句は、
秋に添(そう)て 
  行はや末ハ 
     小松川
 前書きは、
「女木沢桐奚(どうけい)興行」。
 末は小松川まで、
秋を賞しつつ川沿いを
ずっと行くことにしよう、
の意。


 芭蕉は、宗匠となり、
蕉風を確立したイメージ。
 後に、近くにある愛宕山勝智院
境内の愛宕神社と、
柳川藩下屋敷の邸内社であった
太郎稲荷を合祀する。
 合祀前の愛宕神社には
享和3年(1803)から1年間、 
小林一茶が居住していたという。


女木塚の建立

2022-04-16 14:01:18 | 日記
令和4年4月16日(土)
江東区: 大島(おおじま)稲荷神社  
 
 江東区を横切る小(お)名(な)木(ぎ)川。
 この川は天正18年(1590)、
江戸に入府した徳川家康が、
千葉県行徳の塩を運ぶため、
小(お)名(な)木(ぎ)四(し)郎(ろ)兵(べ)衛(え)に
命じて水路の開削をさせる。
  それに因んで「小名木川」と命名。
 慶安年間(1648 - 1651)、
小名木川近くの海辺が度々津波に見舞われて、
耕地が荒廃、苦しむ住民。
 伏見稲荷大社の分霊を奉遷し、
産土神として奉ったのに始まる。
 元禄5年(1692)9月29日、
芭蕉が深川から小名木川を下って
門弟の桐奚宅を訪ねる途中で、
当社を参拝。
 境内には「女木塚」が建立され、

芭蕉翁像と
参拝で詠んだ句等
整備されている。

 句は、
「秋に添て 
  行はや末ハ 
      小松川」 
 ~つづく。


門人支考の師への思い!散策

2022-04-15 14:31:59 | 日記
令和4年4月15日(金)
 臨川寺には、 

「玄武仏碑」を始め、
「梅花仏碑」、 
「墨直しの碑」、
「芭蕉由緒の碑」などの石碑が

残されている。
 芭蕉ゆかりの寺。
 墨直しの碑等、印象に残る。

 墨直しの碑は、
芭蕉の門人である各務支考が
師の十七回忌に当たる宝永七年
(1710)に、京の雙林寺に建立した
石碑を写したもの。
 雙林寺は、芭蕉が敬愛して
やまなかった西行法師ゆかりの寺。
 毎年三月、碑を洗い清め、
彫字通りに墨を入れ直し、
その後法会を営み、
句会を催すという墨直し会を
記念した碑。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 懐かしさも手伝い、
町並みも楽しむことに。

 常磐2丁目にある
深川芭蕉通りを初めて歩く。


仏頂禅師との真摯な交流から・・・!

2022-04-14 11:03:30 | 日記
令和4年4月14日(木)
 江東深川  臨 川 寺   
        
 延宝8年(1680)、
深川に移り住んだ芭蕉は、
二歳年上の仏頂禅師の人柄に
感服し、足繁く参禅する。

 芭蕉庵と呼ばれた草庵が、
臨川寺とほんの五百メートルほど
しか離れていなかったことも、
二人の交流を深めたのだろう。
 芭蕉庵は新しい俳風を模索する
一門の拠点となり、
また、
号を桃青から芭蕉翁と改めたのも
この頃。
 禅味が加わった芭蕉の作風は、
従来見られなかった高い精神性を
俳句の世界にもたらし、
文芸としての価値を
世間に知らしめる。
 ~つづく~