貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

鶴見区東福寺 観音の甍見やりつ・・・!

2023-06-24 11:24:21 | 日記
令和5年6月24日(土)
横浜市鶴見区: 東 福 寺  
<山門>
  
<阿吽仁王像>
   
 
 当寺は、
子育観音として信仰を集める。


 堀河天皇が祈願して
一子(鳥羽天皇)を得たことから
宸(しん)筆(ぴつ)の勅額を
賜ったという。
<本堂>

 芭蕉や飯田九一の句碑もある。



 芭蕉の句は、
「観音の 
  甍見やりつ 
    花の雲」
 境内の左側にある
船型(光背型)の古い石塔。
「いぼ」や「はれもの」ができると、
この地蔵の体に触れ、
指でその患部をさすると治る
といわれる。  
  
 その昔、
この地を生麦村と呼んだ頃、
生麦浦の漁師達が海中から引き上げ、
この寺に奉納。
 浸食がひどく、
地蔵の五体が疣(いぼ)だらけ。
 見るも憐れな地蔵だったので、
「疣取り地蔵」

と呼ぶように・・・。
<子授け子育て祝い誓う碑>

 寿碑は、
子どもが授かりありがたや。
子育て一生懸命やりますよ
という誓いの碑。


川崎宿:宗隆寺 麦の穂と旅への真情の吐露!

2023-06-23 11:22:21 | 日記
令和5年6月23日(金)
川﨑市: 宗 隆 寺   
      
 宗隆寺は日蓮宗の寺で、
かつては池上本門寺の末寺。
<本殿>

 陶工濱田庄司の記念碑と
お墓がある。
 芭蕉の句碑も
本殿階段右下にある。
<芭蕉句碑>

 芭蕉の句は、
勿論川崎宿で詠んだ句、
「麦の穂を      
  たよりにつかむ     
    別れかな」
 当時の川崎周辺の麦作の様子や、
芭蕉のこの旅に対する心情も
よく表れているかな?




川崎宿:影向(ようごう)寺白鳳時代から延々と・・・・!

2023-06-22 11:19:04 | 日記
令和5年6月22日(木)
川﨑市: 影向(ようごう)寺         
 多摩川の広大な沖積低地を望む
宮前区野川東耕地の高台にある、
威徳山影(よう)向(ごう)寺。
 珍しい名前だ。 
<仁王門>

 当寺は、国指定重要文化財・
木造薬師如来両脇侍像や
神奈川県指定重要文化財・薬師堂
などの豊かな文化財を伝える
古刹である。
<仁王像>


<本殿>

 宝永7年(1710)
撰述の『影向寺仮名縁起』によると、
奈良時代の天平12年(740)に、
聖武天皇の命を受けた
僧行基によって開創される。
 ところが、近年の発掘調査の結果、
奈良時代と推定される
大型の掘立柱建物跡・瓦塔片・
塔の基壇などが確認され、 
さらに出土した古瓦の様式から
創建の年代は白鳳時代末期
(7世紀末)にまで遡ることが
確実となる。
 また、薬師堂解体修理に伴う
基壇部の発掘調査では、
創建当時の堂宇が現在の薬師堂と
ほぼ同じ位置に建てられていた
ことも判明する。

 そして、
金堂(本堂)の基壇は
創建以降、版(はん)築(ちく)工法による
掘り込み基壇が
8世紀中頃から後半に構築される。 
 15世紀前後頃に行われた改修
を経て、現在の薬師堂と
同一の基壇が江戸時代の
元禄7年(1694)に築かれるまでに、
少なくとも4回にわたって
変遷していた事実も解明されるという。

 影向寺の性格や景観は
時代とともに変遷しても、
白鳳時代にともされた
法(ほう)燈(とう)は、
千三百年もの長い歳月を経た今日に
至るまで、絶えることなく連綿と
伝えられる。
<影向寺史の出版記念碑>

 元禄7年(1694)5月、
江戸に住んでいた芭蕉は、
子の治郎兵衛と共に
郷里の伊賀へ旅立つ。
 その時江戸の門人との別れを
この川崎宿の榎だんごの店でかわす。
 その時詠んだ句が
ここでも立派な石碑に。
<芭蕉句碑>

「麦の穂を 
  たよりにつかむ 
     別れかな」

 


川崎宿:川崎大師その5 子規と桃隣そして芭蕉との別れ!

2023-06-21 11:17:55 | 日記
令和5年6月21日(水)
<正岡子規の句碑>

「朝霧の 
  雫するなり 
     大師堂」
 明治の俳聖・正岡子規
(1867~1902)は、
明治27年(1894)11月3日に
川崎大師を参詣、俳句を詠む。
 当山では平成26年の大開帳奉修を
記念し、
子規直筆の句集『寒山落木』より、
当山に縁のあるこの句を建碑し、
永く子規の足跡を記す。
<正岡子規の句の由来碑>


「人は皆 
   去って声あり 
      花に鳥」

 この碑は、
<三世桃隣の句碑>

三世桃隣を慕う門人達によって
建碑される。
 因に一世桃隣は、
芭蕉の弟子で、
元禄7年(1684)5月8日
郷里伊賀に向けて江戸を旅立つ
芭蕉を川崎宿に見送る。
 その時芭蕉は、 
「麦の穂を 
  たよりにつかむ 
    別れかな」                           と詠んで、
人々に別れを告げる。
 元禄7年、
芭蕉は難波で
「旅に病んで 
  夢は枯野を 
    かけ廻る」
と辞世の句を残して没する。
 すると、
深川芭蕉庵の古池の傍にあった
柳の大木が枯れてしまう。
 弟子たちは師を慕って
その木で翁の座像を造り、
一世桃隣、二世桃隣、三世桃隣と
伝えてきたという。



川崎宿:川崎大師その4 御遷座慶讃の法要で句会!

2023-06-20 11:16:32 | 日記
令和5年6月20日(火)
「金色の
  涼しき法の
     光かな」
 昭和33年、
当山は戦災で失った諸堂伽藍の復興に
めがけ大本堂がほぼその形を整えたので、
御本尊を仮本堂からお移しする
御遷座式を挙行。
 この折、御遷座慶讃の諸法要、
諸行事を執り行う。
 その一つとして記念の句会を開く。
<高浜虚子の句碑とその由来>

 高浜虚子翁は、
次女の星野立子先生
(故人・俳誌「玉藻」元主宰)、
山口笙堂師(故人・鹿野山神野寺山主)
らを伴い出席。
 新本堂に参拝された翁は、
幾つかの句を認(したた)める。
<高浜虚子の句碑>

 その中の、
「金色の 
  涼しき法の
      光かな」
の句を、
当山は翁にご揮毫願う。
 句碑の脇にたつ
「句碑の由来」碑に、
その時の経緯を記す。

「朝霧の 
   雫するなり 
      大師堂」
 ~つづく。