貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

川崎宿:川崎大師その3 芭蕉翁と施茶翁そして・・・!

2023-06-19 11:22:57 | 日記
令和5年6月19日(月)
 芭蕉句碑は、五重塔の近く。
 周囲の工事で、青いシートが
雰囲気を壊す最中の拝顔となる。

 折れて修正した碑には、      
「父母の 
  しきりに戀し 
    雉子の聲」
と刻まれる。
 「己れ生ある間は、
子の身に代らんことを念い、
己れ死に去りて後は、
子の身を護らんことを願う」
    (父母恩重経)
 高野山の静まり返った山中に立って、
雉子の声を聞く。
 その一声、二声が
杉木立ちにこだまして、
その声に亡き父母を思い出す。
 親が子を思い、
子が親を慕う人の道は、
『父母恩重経』の中にも説かれている。
 瓢箪を模った施茶翁の塚碑は珍しい。

初物である。
 施茶翁とは江戸の医者で、
本名は羽佐間宗玄。
 彼は、
俗世を遁れ芝愛宕町に閑居し、
雅号を瓢仙と称す。
常にに瓢(ふくべ)を愛蔵し、
人に抹茶をたてるのが楽しみで、
「施茶翁」と称される。
「地獄いや極楽とても望みなし 
 又、六道の辻で   施茶翁」 。
 但し、塚といっても、
供養されたものは、茶筅や瓢。
 寛文3(1663)年、
川崎宿の渡し場(六郷橋のたもと)近く、
大師へ至る道の入口に建てられた碑が、
現在移管され境内に残っている。

たくさんの人が参拝に来ていたことが
伺われる。
「金色の
  涼しき法の
     光かな」
~つづく。



川崎宿:川崎大師その2 ペリーも訪れ、芭蕉の句は?

2023-06-18 11:21:57 | 日記
令和5年6月18日(日)
 寛永5年(1628)、
江戸の商人によって境内に
「六字名(みよう)号(ごう)塔(とう)」
が建立され、
慶安元年(1648)には、
幕府から6石の朱印を拝領。
 寛政8年(1796)、
将軍家斉が訪れて厄除け祈願、
文政元年(1818)御成門も造営される。
 幕末に日本を訪れたアンベールは、
「川崎にはいくつも寺があるが、
その中で立派なのは大師河原平間寺で、
日本のもっとも純粋な仏教建築の
一つに違いない」
   (『幕末日本図会』)
と記し、
ペリーは
「ずっと見えていた目標は、
川崎近くの寺院の塔で、
そのあたりは川崎大師河原と
呼ばれる名だたる盛り場であった」
  (『日本遠征随行記』)
と記している。

 芭蕉句碑は、
五重塔の近く。

 周囲の工事で、
青いシートが雰囲気を壊す
最中の拝顔となる。
<芭蕉句碑>

 折れて修正した碑には、      
「父母の 
  しきりに戀し 
     雉子の聲」
と刻まれる。
~つづく。

川崎宿*平間寺(川崎大師)水上漂着の神仏!

2023-06-17 10:54:53 | 日記
令和5年6月17日(土)
川﨑市: 平間寺(川崎大師)  
  
<表参道商店街>
 

 平(へい)間(けん)寺(じ)は
真言宗智山派の大本山で、
金剛山金乗院平間寺と称し、
厄除弘法大師または川崎大師として、
昔から庶民の篤い信仰を得ている。 
<本殿>
<仁王門>

 縁起によれば、
平安時代・大治3年(1128)
平(ひら)間(ま)兼(かね)乗(のり)を
名のる漁師が操業中弘法大師像を得、
持ち帰って一(いち)宇(う)を
建立安置。
 寺号を平間寺とし、開創。
 一方、『新編武蔵風土記稿』は、
下平間村に称名寺という寺院があり、
ある時同寺は真言宗から浄土真宗に改宗、
このため従来の本尊が不用となる。
<五重塔>

 そこでこれを多摩川へ流すと、
河口の漁師が拾いあげ、
堂宇に安置して
寺号を旧地の村名をとり平間寺とした、
との異伝を記している。
 この2つの伝承から、
平間寺は日本人が昔から持っていた
民俗信仰である海上漂着、
または水上漂着の神仏を祀るという
素朴な信仰によって成立したこと、
 有力な貴族・武士などによって
造営された寺院ではなく、
地元の漁師などによって支持され、
地域に結びついた
庶民信仰の寺院であるという
特徴を伺うことができる。


 戦国期に作成された
『小田原衆所領役帳』に
「大師河原」 という地名がみられるが、
ここにも漂着神の俤が浮上する。
~つづく。

川崎宿:八丁畷駅前 句を詠んだ地区に建立された貴重な芭蕉句碑

2023-06-16 11:02:30 | 日記
令和5年6月16日(金)
川﨑宿: 八丁畷駅前 
<八丁畷駅前の芭蕉句碑>
    
 元禄7年(1694)5月、
江戸に住んでいた芭蕉は、
子の治郎兵衛と郷里の伊賀へ。      
 芭蕉との別れを惜しむ
江戸の門人の利牛、野坡、袋水は
多摩川を渡り、
川崎宿まで見送りにきて
八丁畷の榎だんごという店で
最後の別れを交わす。



 この時、芭蕉が詠んだ句が、
「麦の穂を 
  たよりにつかむ 
    別れかな」
 芭蕉が亡くなってから
130年後の文政13年(1830)
8月、
俳人一種が桜井梅室(天保の三大俳家)
に揮毫してもらい
、麦の穂の句を
八丁畷に建立したという。

 芭蕉が句を詠んだ地に
建てられた句碑は、
箱根山で富士を詠んだ句碑など
数基。
 大変貴重な句碑である。


品川宿泊船寺その3 夜泣き芭蕉像!

2023-06-15 15:42:45 | 日記
令和5年6月15日(木)
 「泊船寺の夜泣き芭蕉像」
という昔話もある。

「ある夜、寺から芭蕉坐像が
盗まれてしまい、
みんなで手を尽くして探しましたが
見つかりません。
 盗まれた像は、
古道具屋に売られていましたが、
古道具屋の主人はその像が、
泊船寺から盗まれた                                    芭蕉像とは知りませんでした。
 その日の真夜中、
『おい!おい!』
と、どこからか人を呼ぶ声に、
店の主人は目をさましますが、
周りには誰もいません。
 『気のせいかな』と思って
眠ろうとしましたが、
また、声が聞こえます。
 表の戸を開けてみても、
だれもいません。
 おかしいなと思いながら、
布団に潜り込むと、
やはり声がするのです。
 主人が声のする方へ辿って行くと、
どうやらその日に買った像から
聞こえてくるようです。
 おそるおそる像に近づいてみると、
像は目に涙を浮かべて、
『わしは、早く寺に帰りたい』
と、かすかな声で言っています。

 次の日も、また次の日も、
同じように泣くので、
主人が調べてみると、
泊船寺から盗まれた芭蕉像だ
とわかりました。
 かわいそうに思った主人は、
ある夜、
芭蕉像を白い布に包んで、
泊船寺の門のところに
そっと返しておきました。

 翌朝、
寺の小僧さんが、
門前で白い布に包まれた芭蕉像を
見つけて、元の場所に戻しました。
 これを聞いた村人たちは寺に集まり、
『芭蕉様が戻ってきたぞ』
とみんなで喜びました。」
という話。
<泊船寺正門>