貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

白石市: 白石城公園① 波瀾万丈?白石城のいろいろ!

2024-12-21 13:50:47 | 日記
令和6年12月21日(土)
 今日は冬至!
比較的穏やかな一日!
白石市: 白石城公園  ①            ~  
 主として
仙台藩伊達氏の支城として用いられ、
片倉氏が代々居住した。
<白石城>

 九州の八代城等と並んで、
江戸幕府の一国一城制の対象外
とされ、明治維新まで存続する。
 天守の代用となっていた三階櫓は、
支城という格と幕府への配慮から
天守の名をはばかり
「大櫓」と名づけられる。

 かつての城は、
本丸、二の丸を中心に、
幾重にも外郭を備えた堅城である。
 虎口のうち、
大手門付近には幅が変化し、
鍵の手に折れる通路等、
特に工夫がみられる。
 明治初頭の廃城令により
廃城処分とされ、
ほとんどの建物は破却される。
 天守閣は石垣なども撤去され、
更地となる。
 三階櫓など本丸の一部が、
1995年に木造で復元され、
現在は公園となっている。
 現存する建物としては、
厩口門が市内の延命寺山門に、
東口門が市内の当信寺山門に、
どこの門か不明な城門が
名取市の耕龍寺山門に、
煙硝蔵が市内個人宅に、
移築されている。
<復元された二の門>

~つづく。

白石市田村神社:甲冑堂②おくのほそ道二文碑と桃隣の句碑!

2024-12-20 15:24:11 | 日記
令和6年12月20日(金)
白石市田村神社:甲冑堂②
 芭蕉と曽良は、
元禄2年(1689) 5月3日に
田村神社の甲冑堂を拝観。
『奥の細道』の、      
「二人の嫁がしるし、
 先哀也。   
 女なれどもかひがひしき
名の世に聞こえつる物かなと 
袂をぬらしぬ。」
という二文が、
碑に刻印されている。
<おくのほそ道の文章碑>

  また、
桃隣の句碑が残っている。 
 桃隣とは芭蕉の弟子で、
本名は、天野勘兵衛。
<桃隣の句碑>

 芭蕉の(支考代筆)口述遺書中、
「桃隣へ申し候。
 再会かなはず。
 力落さるべく候。
 いよいよ杉風・子冊・
八草子よろず御投げかけ、
ともかくも一日暮しと
存ずべく候」
と書かれた人物である。
 碑には
元禄9年(1696年)に詠んだ句。
「戦めく 
  二人の嫁や 
    花あやめ」 


白石市: 田村神社:甲冑堂①佐藤兄弟の奥方初音と楓の勇ましさ!

2024-12-19 15:10:51 | 日記
令和6年12月19日(木)
白石市: 田村神社:甲冑堂 ①  
     
 田村神社の境内にある
甲(かつ)冑(ちゆう)堂は、
佐藤継信・忠信兄弟の
妻の像を祀っている。 
<社殿>
   
  御影堂、故将堂等とも呼ばれる。
 かつては、
神仏が同居し、同敷地に
別当寺真言宗遊王山高福寺が
建てられる。
<初音と楓の甲冑堂>

 甲冑堂の扉の奥には、
子の戦死を悲しむ母を慰めるために、
夫の戦場での出立ちを身にまとい、
夫に代わって凱陣を告げた
という妻たちの勇ましい姿が蘇る。
<由緒略記>

 福島の医王寺の本堂にも、
昭和37年(1962)2月に
造られた甲冑姿の妻二人の像が
安置されているが、
顔の表情は甲冑堂の像と比べると
かなり現代的。
 福島の医王寺では、
継信の妻の名は若桜、
忠信の妻の名は楓
として伝えられている。
 現在の甲冑堂は、
昭和14年(1939)12月3日に再建。
<甲冑堂>

継信、忠信の妻の話
(「佐藤一族と義経について」参照)が、
国定教科書高等小学校読本で
採り上げられたことをきっかけに、
甲冑堂再建の気運が高まり、
寄付金などにより再生が実現。
~つづく。

飯坂医王寺④乙和の椿と慕われし佐藤兄弟の墓!

2024-12-18 16:26:10 | 日記
令和6年12月18日(水)
飯坂医王寺④
 三体像の中央に源義経、
右に佐藤継信、
左に佐藤忠信が並んでいる。

 小学2年時、
担任の乾先生がお昼時に
よく読んでくれた本の中に、
『源平盛衰記』や
『義経』の話等あり、
歌詞も懐かしく読む。
<あゝ義経~佐藤兄弟の歌と芭蕉句>

 奥の院薬師堂の境内に
見られる板碑群には、
荘司佐藤基治・乙和・継信・
忠信墓碑(県指定重要文化財)がある。
<奥の院参詣>

 「乙和の椿」とは、
佐藤継信・忠信兄弟を失った
母乙和の深い悲しみと
母情が宿ったといわれる、
蕾のまま落ちてしまう椿のこと。
<乙和の椿>

 その傍で、
佐藤兄弟は今もなお尊ばれている。
<佐藤兄弟の墓>

 生前に
為すことの大切さも偲ばれる。


飯坂医王寺③ああ義経~佐藤一族の歌と三体像!

2024-12-17 14:36:21 | 日記
令和6年12月17日(火)
飯坂医王寺③
 奥の院までとさらに歩を進める。

 右手の方に、三体の像がある。

 一番左に、
「あゝ義経~佐藤一族」
というタイトルで、
3番までの歌詞が…。 
 その前に、
芭蕉の句「笈も太刀も…」
も掲載。

 「兄頼朝の 旗揚げに 
 九郎義経 馳せ参じ 
 佐藤継 信 忠信も 
 主従の契り 堅く結い 
 屋島の戦さ  熾烈なり 
 義経矢楯 
 あゝ 継信が逝く」                    
というのが1番。                                 
「兄頼朝に うとまれて  
 九郎頼経 あゝ苦境
 佐藤忠信 やがてまた
 京都堀川に 露と消ゆ
 悲運の九郎 哀れなり
 あゝ白鳥(とり)も哭く」

が2番の歌詩。
「文治5年の 夏の頃 
 奥州落ちの義経を 討たん
 鎌倉大軍を 石那坂にて 
 これ阻む
 飯坂 庄司 基治は 
 気骨の古武士
 あゝ ここに散る」

 そして、
三体像の中央に源義経、

右に佐藤継信、

左に佐藤忠信が並んでいる。

~つづく。