☆・・・《歴史教科書の盗用問題、藤岡信勝氏が引責辞任》
<中学校向けに自由社(東京都文京区)が編集した2012年度版「新しい歴史教科書」の年表が他社教科書からの盗用だった問題で、「新しい歴史教科書をつくる会」は5日、教科書の代表執筆者だった藤岡信勝・拓殖大客員教授(67)が8月31日付で同会会長を引責辞任したと発表した。
新会長には、杉原誠四郎・帝京平成大教授(70)が就任した。藤岡氏は理事としてとどまる。
藤岡氏は「チェックが甘かった。不明をおわびしたい」と辞任理由を述べた。同会によると、「新しい歴史教科書」は来年度、全国の私立6校で使用されるが、国公立校での採択はなかった。(2011年9月5日19時23分 読売新聞)>
速報がメールで来たのだが、私は残業の真っ最中であった。
ちょうど土曜日に、その、私が本日の残業時間にやっていた作業を担当した男がミスをしたらしく、
私は、かなり上の上司に「そいつは、この作業に入れるな!」と注意されていて、
私は「僕には、それを決める権限がないですよぅ」と返し、
「ならば、直属の上司に言っておいて」と言われていたときだ。
・・・なんとも、その藤岡信勝会長辞任には、思いが過ぎった。
色んなことが思い出された。
私が西尾幹二の「バカ弟子」を名乗っていた頃、「つくる会」のシンポジウムの楽屋前で、西尾幹二への挨拶を待っていたとき、藤岡信勝が通路を通り過ぎた。
もう、かれこれ、10年ほど前だろうか・・・。
この頃、西尾と藤岡はケンカしていた。
この二人はいつもケンカしていたのだ。
ケンカしていないときは、二人で共闘し、誰かに追い込みをかけているのだった・・・^^;
それは、こちらに詳しい。
彼らについて論じるのことは膨大な文章量を必要とするが、ともあれ、こちらを読んでいただければおおよそが分かる。
《狂乱の春—「つくる会」会長職2ヶ月 種子島 経》・・・クリック!
さて、話を戻す。
私が「つくる会」シンポの楽屋で西尾幹二を待っているときに、藤岡信勝が、私に会釈をしながら通り過ぎた。
通り過ぎたのである。
つまり、楽屋ではなく、舞台に向かったのだ。
しかし、私が楽屋に挨拶に来る余裕があるので、まだまだシンポジウムの幕は開かない。
西尾幹二に至っては、仕出し弁当をモグモグ食っていた。
高森明勅氏は、ボーッと座っていた。
藤岡信勝の気になる行動…、その理由はすぐに合点が言った。
つまり、西尾幹二とケンカしていたので、顔を合わせたくなくて、でも、自分も登壇者の一人なので、シンポジウムが始まるまで、ずーっと舞台袖のパイプ椅子に座って待っていたのだ。
開幕前の暗い舞台袖、わりに大きな瞳を爛々と輝かせ、ひん曲がった口元を極限までひん曲げて、藤岡信勝は、その苦渋の小一時間を耐えていたのだ。
彼は、耐えるのに慣れている。
耐え続けた人生だ。
その執念は、ここ半年の菅直人のメンタリティと同根だろう。
信勝は、今回、辞任をした。
しかし、この人、けしてめげることはない。
また、一から色んなことを積み上げて、周囲の者に追い込みをかけていくのだろう。
だから、私は、その辞任に対し、あえて言う。
「ざまあみろ!!!」
しかし、辞任の理由は、「つくる会」教科書が全く採択されなかったことこそが大きいと思うのだが、盗用問題で辞めるのね。
・・・とりあえず、今夜は、私、寝ます。
(2011/09/05)
<中学校向けに自由社(東京都文京区)が編集した2012年度版「新しい歴史教科書」の年表が他社教科書からの盗用だった問題で、「新しい歴史教科書をつくる会」は5日、教科書の代表執筆者だった藤岡信勝・拓殖大客員教授(67)が8月31日付で同会会長を引責辞任したと発表した。
新会長には、杉原誠四郎・帝京平成大教授(70)が就任した。藤岡氏は理事としてとどまる。
藤岡氏は「チェックが甘かった。不明をおわびしたい」と辞任理由を述べた。同会によると、「新しい歴史教科書」は来年度、全国の私立6校で使用されるが、国公立校での採択はなかった。(2011年9月5日19時23分 読売新聞)>
速報がメールで来たのだが、私は残業の真っ最中であった。
ちょうど土曜日に、その、私が本日の残業時間にやっていた作業を担当した男がミスをしたらしく、
私は、かなり上の上司に「そいつは、この作業に入れるな!」と注意されていて、
私は「僕には、それを決める権限がないですよぅ」と返し、
「ならば、直属の上司に言っておいて」と言われていたときだ。
・・・なんとも、その藤岡信勝会長辞任には、思いが過ぎった。
色んなことが思い出された。
私が西尾幹二の「バカ弟子」を名乗っていた頃、「つくる会」のシンポジウムの楽屋前で、西尾幹二への挨拶を待っていたとき、藤岡信勝が通路を通り過ぎた。
もう、かれこれ、10年ほど前だろうか・・・。
この頃、西尾と藤岡はケンカしていた。
この二人はいつもケンカしていたのだ。
ケンカしていないときは、二人で共闘し、誰かに追い込みをかけているのだった・・・^^;
それは、こちらに詳しい。
彼らについて論じるのことは膨大な文章量を必要とするが、ともあれ、こちらを読んでいただければおおよそが分かる。
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さて、話を戻す。
私が「つくる会」シンポの楽屋で西尾幹二を待っているときに、藤岡信勝が、私に会釈をしながら通り過ぎた。
通り過ぎたのである。
つまり、楽屋ではなく、舞台に向かったのだ。
しかし、私が楽屋に挨拶に来る余裕があるので、まだまだシンポジウムの幕は開かない。
西尾幹二に至っては、仕出し弁当をモグモグ食っていた。
高森明勅氏は、ボーッと座っていた。
藤岡信勝の気になる行動…、その理由はすぐに合点が言った。
つまり、西尾幹二とケンカしていたので、顔を合わせたくなくて、でも、自分も登壇者の一人なので、シンポジウムが始まるまで、ずーっと舞台袖のパイプ椅子に座って待っていたのだ。
開幕前の暗い舞台袖、わりに大きな瞳を爛々と輝かせ、ひん曲がった口元を極限までひん曲げて、藤岡信勝は、その苦渋の小一時間を耐えていたのだ。
彼は、耐えるのに慣れている。
耐え続けた人生だ。
その執念は、ここ半年の菅直人のメンタリティと同根だろう。
信勝は、今回、辞任をした。
しかし、この人、けしてめげることはない。
また、一から色んなことを積み上げて、周囲の者に追い込みをかけていくのだろう。
だから、私は、その辞任に対し、あえて言う。
「ざまあみろ!!!」
しかし、辞任の理由は、「つくる会」教科書が全く採択されなかったことこそが大きいと思うのだが、盗用問題で辞めるのね。
・・・とりあえず、今夜は、私、寝ます。
(2011/09/05)