懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

懐かしの蒸気機関車写真展 その55 「宗谷本線 2」

2013年12月20日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 北海道宗谷本線 音威子府駅(おといねっぷ)

宗谷本線は二度撮影に行ったが冬の光景しかしらない。
夏はゆったりしたのどかな風景なのであろう。

人生に疲れた若者が夏の宗谷本線の北辺の無人駅に立ち寄り心の傷を癒すといわれている。
駅に置かれたノートに自分の心をぶつけ、人の書いたノートに励まされるという。
私の宗谷本線の旅もそんなものだった。
軟弱な若かった自分を見つめ直すには宗谷本線は厳しい試練だった。
厳寒の地で鉄路を守る国鉄の人々や開拓に親に連れられ四国から移住した人々
開拓の苦労話を聞き厳しい土地で逞しく生きる人々を見て生きる希望をもらったものだ。

旅は自分探しの旅がいい。物見遊山の美味しい食べ物観光地の旅もたまにはいいが人生の晩年を迎え西行や芭蕉のように生きた人生を見つめ直す旅をしてみたい。
旅は何歳になっても厳しい試練の旅がいい。

音威子府駅にC55形の一号機が停車した。この一号機は京都梅小路に保存されている。
蒸気機関車は給水給炭のため機関区のある駅で20分は停車する。
その間に室内や足回りを撮影した。スポーク動輪は魅力的だ。




懐かしの蒸気機関車写真展 その54 「宗谷本線」 

2013年12月16日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 北海道宗谷本線 音威子府 名寄

厳冬期に宗谷本線に行った。宗谷本線を走る蒸気機関車を撮影するために旭川から稚内を夜行で目指した。夜行と言ってもボックスシートに丸まって寝る。
稚内をめざす乗客は少なくみんなワンボックスをひとりで使っていた。
稚内行きの夜行列車はC55形の蒸気機関車が牽引した。
客室には蒸気機関車の石炭の燃えた匂いが漂っていた。
列車内は北辺を目指すに従い冷え込んだ。蒸気機関車の排気を使った暖房もあまり効かなかった。私は持参していた寝袋に入りやっと眠りについた。
北海道の列車はすべて二重窓になっていて寒さを遮断していた。
しかし、窓際は冷たかった。窓は凍り外の光景はぼんやりとしか見えなかった。
明るくなりかけた頃、民家のない雪原を走っていた。
ほとんど作物も作らず原野のままで残されていた。

稚内に到着し南稚内の機関区に立ち寄るが機関庫は戸を閉ざし撮影できなかった。
機関庫には気動車も入りアイドリング運転をしていた。
蒸気機関車も配管が凍結しないように燃焼室は石炭を埋火状態にしていた。
これから上りの蒸気機関車の牽引する普通列車に乗り旭川をめざした。
蒸気機関車に乗り蒸気機関車を撮影する旅だったが本人にとってはこれが極上の楽しみであつた。




懐かしの蒸気機関車写真展 その53 「走行 5」 踏切2 

2013年12月12日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 岡山県倉敷市

倉敷駅をでて伯備線を下る列車
街中を抜けて田園地帯にはいる。ゴミゴミした市街地、絵にならない風景だ。
どんな意図でこんな写真を撮ったかわからない。
余り深く考えずに撮ったのであろう。素人が色々と考え撮ったものより眼に付いたもの物をパチパチ撮ったものの方が後で見るとよかったりする。
この写真の面白いのは板張りの倉庫が味があって面白い。車がまだ古臭い。しかし、車は大分普及していたのだ。列車の通過を待つ間にこんな田舎道でも車が待っている。
壁板も新建材ではなく板張りが使われている。
写真は時間が成熟させるという人がいる。天然素材には時間の経過で成熟する事があるが新建材やサッシでは50年経過しても古さの味はでないようにおもう。

以前、介護を受けていた若い女性が訪問で訪れる家の孫の男の子が「ねえやん 踏切動画」とパソコンに入力してくれという。孫の男の子は鉄道が好きで踏切の警笛音と電車の通過する音と映像がすきなのである。この踏切動画は私も見ていた。
今はビデオカメラが数万円で買えるので子供でも写真とともに撮影している。
我々の頃は8mmカメラの時代で映像は撮れても音が録れなかった。



倉敷市酒津の踏切








懐かしの蒸気機関車写真展 その52 「走行 4」 踏切 

2013年12月08日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 岡山県倉敷市 山陽本線踏切

倉敷駅と岡山駅の山陽本線には伯備線が乗り入れている。
電化区間に蒸気機関車が走っていた
踏切の風景を撮影している。どんな意図で撮影したかよく覚えていない。
40年、50年後に周辺の風景がどう変わるか、かって蒸気機関車が走っていたのを残すために撮ったのであろう。
蒸気機関車の写真というと人家のない峠をモクモクと煙を吐いた写真が多いがあえて生活くさい写真をいれてみた。

この踏切は踏切番の人が小屋にいて列車の通過の前後に開閉をしていた。
現在は自動化機械化で人が操作する事はない。
踏切番の人が白い旗を振りながら列車の通過をまった。
この踏切は倉敷駅の南北を結ぶ踏切で道が狭いのに交通量が多い。交通渋滞を解消するために高架を計画しているが費用対効果が目標値を下回っているために予算化されない。
駅裏にチボリ公園などが出来て踏切の幅も道路も少しは広くなったが以前とそう変わらない。
踏切の西側にダイエーのスーパーがあったが経営の行き詰まりで撤退した。
その頃のダイエーは飛ぶ鳥も落とす勢いで高島屋の百貨店巣も配下にいれスーパーのトップに君臨していた。ダイエーに入れ換わりジャスコが君臨する時代になり企業が長年繁栄する事が難しい時代になった。





懐かしの蒸気機関車写真展 その51 「走行 3」 雪の山間路線

2013年12月04日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 山形県 米坂線

米坂線の手の子から伊佐領は山形から新潟に抜ける山岳路線。
路線は渓谷の間を縫って走る。厳しい峠越えもある。今この路線に沿った国道を茅葺を求めて訪れている。
鉄道の撮影ポイントは一杯あったのだろうが私の蒸気機関車の挑戦は一回きりだった。
それも冬場のため人々の住居や暮らしがわからないままだった。
雪国の雪の風景は絵になにるが、しかし、夏場の状態を知ってこそ雪の風景がいきてくる。
私は茅葺の写真を撮っているが最初は雪の風景が珍しく雪の風景ばかり追いかけた。
しかし、雪では茅葺の形状なり装飾がよく見えない。夏場の写真がないのに雪ばかりでがっかりした。雪の写真はコスモスの白花と同じで一割以下でよい、


懐かしの蒸気機関車写真展 その50 「走行 2」 宗谷本線

2013年11月30日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 北海道和寒村 塩狩峠

塩狩峠は宗谷本線の蘭留(らんる)と和寒(わっさむ)間にある峠
アイヌ語の地名が多い。
塩狩峠は雪の峠だった。木々はクリスマスツリーになっていた。
線路脇の雪の少ないところを撮影場所まで歩いた。

塩狩峠は三浦綾子さんの小説で有名になった。
昭和41年から連載されたようだ、小説の内容についてはネットで検索ください。
私が訪れたのは連載が終わって三年程経ったときである。

実際あった事件をモデルに小説にしたようだ。事実と異なると異議を唱える人もいるがあくまでも小説である。列車が塩狩峠の頂上に差し掛かった時に列車の最後部の連結が離れ乗客を乗せたまま峠を下り始めたので青年が身を挺して列車を止め殉死したという物語
小説の時代の列車は連結器でつながりブレーキは機関士のみが操作できた。機関車にしかブレーキがなかった。

トンネルの中で機関士助手とも煙で窒息し気を失い暴走転覆事件もあった。
車掌室にもブレーキを付けた車両もある。現在は各車両にブレーキがついているしエアーホースが外れるとブレーキがかかるようになっている。
常にブレーキは加圧されてブレーキが外されエアーがなくなるとブレーキがかかる。
エアーレスシャットの安全サイドにできている。




懐かしの蒸気機関車写真展 その49 「走行」 室蘭本線

2013年11月26日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所  室蘭本線沼ノ端

今回からは走行についてお送りします。
蒸気機関車の走行と言っても色々な風景、季節の中、列車の編成の違いいろんな角度から撮れたと思うが最終作品を考えて撮ったわけでなかった。
走行写真を撮るにしてもいろんなシーンをリストアップしておいてそれに沿って撮影しシナリオを作り上げた方が内容が深いようにおもう。
撮影にしても行きあたりバッタリだったように思う。
もう一度若い頃の、あり時代の人生がやり直せるならいつも反省ばかりだ。

室蘭本線が勇払平原の中を走る。湿地帯で冬には白鳥なとの鳥が飛来する。
初夏には水芭蕉がさく未開の原野を石炭列車が走る。石炭運搬の専用貨物列車である。
1500馬力の蒸気機関車が1500トンの石炭を運搬した。一馬力一トンの荷物を運ぶのは鉄道ならではである。トラックの10倍運べる。摩擦係数の差であろう。
まだ辛うじて炭鉱では石炭の採掘がおこなわれていた。
この沿線には美唄、夕張の炭鉱を有していた。
炭鉱、石炭列車、蒸気機関車、昭和の風景そのものであった。

懐かしの蒸気機関車写真展 その48 「急行安芸-2」 呉線

2013年11月21日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 広島県三原市糸崎駅

安芸は急行であったがヘッドマークを付けていた。ヘッドマークは普通、特急列車につく。
ヘッドマークが付くと列車の格が高くなるようにおもう、有難かった。
イベント列車のヘッドマークは付けない方がよいと思う。
山口号などヘッドマークがないほうが普通列車に見えようでよいと思うのだが。

機関区に停車していた時もヘッドマークは付けたままである。
ヘッドマークは結構な大きさであるが盗まれた事があるそうだ。
急行ニセコのサボ(行き先表示板)など何度も盗られプラスチックになりそれでもむ盗られ最後は厚紙にマジックペンで書かれる事もあった。
どんな世界でもブームになりマニアが増えれば金になると思い悪い者も増えてくる。
ヘッドマークやサボなどそっくりしたものをつくり差し替える人がいると写真展の時に教えてくれた。私は骨董や古い物には興味がなく鉄道部品も買いに行ったことはない。
管理が出来ないがわかっているので埃をかぶりゴミ芥の類になるので初めから集めなかった。

糸崎機関区から見えた工場の煙突も今は消えてない。
電気機関車や客車も沢山停車していたがそれには目に行かず写真が残っていない。
いろんな昭和の風景を撮らなかったのは残念である。






懐かしの蒸気機関車写真展 その47 「急行安芸」 呉線

2013年11月17日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 広島県三原市糸崎 

呉線は大型蒸気機関車C62形、C59形が残っていて大勢の鉄道ファンが訪れた。
好きな人は関東地方からも撮影にきた。
昭和45年9月14日呉線の電化により蒸気機関車は姿を消した。
糸崎機関区でさよならセレモニーが行われた。
国鉄のOBの方や現役で働く機関区の人もセレモニーに参加した。
それに交じり私も撮影させてもらう。
機関区内に自由に入りおおらかな時代であった。
参加しているのはどこを見ても男ばかりの世界であった。
今は鉄女などと言われ鉄道を撮る人もいるがこの時代は男だけの世界だった。
呉線の蒸気機関車の走行が終えた帰路につくとき虚しい気持ちになった。
あと五年したら国鉄の蒸気機関車は全部姿を消すのだと思った。
蒸気機関車といいローカル路線といい国鉄といい昭和がひとつづつ消えて行った。












懐かしの蒸気機関車写真展 その46 「急行ニセコ 2」 函館本線

2013年11月13日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 北海道 函館本線小沢駅周辺

小沢駅から線路脇を歩いて撮影場所まで歩く雪が深いので除雪してある線路脇しか歩けない。道路から林の中に入り場所探しは難しい。
雪に降られると待ち時間は辛い。この頃のカメラにも水銀電池は入っていた。
寒いと電池の能力が著しく低下するので腹に入れて温めた。
あの頃はホッカイロもなかった。
寒さに耐えながら風をよけて何時間も列車を待った。
何時間も待ち数十秒の走行シーンを撮るために
つくづくアホな事をやっているなと思った。
人生でやる事にひとつとして無駄な事はないといわれている。
こうでも思わないとやっていけない。
目先の損得を考えずアホな事をコツコツやった者しか時代の記録は残せないのだと今思う。