懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

日本茅葺紀行 その54 島根県日原町

2013年05月31日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 島根県日原町(現在は津和野町)

日原町は島根県の西部、高速を使えば日帰りも可能だが私の住んでいるところからだと随分遠い。
こんなところの茅葺民家の情報は各地を撮り歩いて人か茅葺好きの近隣県に住んでいる人に教えてもらうしかない。
茅葺民家が沢山存在する地域でもなく探すには時間と金がかかる。
地元のカメラマンも茅葺民家に興味のある人は割とすくなく情報が流れてくることはない
なんでも撮影するカメラマンの茅葺民家の情報は少し調べればわかる情報が多い。
どんな世界でもマニアックな人の情報は内容が濃いし希少価値がある。
一つの事に打ち込む情熱と根性が情報にも滲み出ている。

この民家も訪れる人の少ない集落にあった。


懐かしの蒸気機関車写真展 その5 「沿線風景」 雑木林

2013年05月30日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所  室蘭本線沼ノ端

沼ノ端周辺の雑木林の間から蒸気機関車を撮影する。
蒸気機関車の写真となると正面から驀進してくる写真が多くなる。
沼ノ端あたりは煙も少なく標準レンズで撮影するのであまり迫力のある写真にはならない。
D51蒸気機関車なら近くに沢山いたのでパターンを変え雑木林などから撮影してみた。
沼ノ端は平地に近いが白樺が雑木林に混じっていた。
白樺は長野あたりでも1000メートルくらいの高度でないと存在しない。
我々の西日本には白樺は自生していないと思う。高原の観光地には見受けられるがあれは植栽されたものとおもう。
先週、東北に撮影に出かけたが青森でも500メートルくらいの高度でないと白樺は無かった。
道東に行くと沿線に白樺林が延々と続く路線があった。しかし、時間がなく撮影できなかった。
白樺は利用価値のない木材だそうだ太くならないし炭や薪にしかならなかったようだ。
建設用材になるにはまっすぐに伸びある程度の長さと太さが必要である。
家具にするのにも硬くて加工もしにくいようだ。

白樺は春の芽出し前に小さな穴を開けてストローを差し込むと甘い樹液が採れる。
メイプルシロップほどの甘さは無いが土地の人は春の恵みと楽しみにしている人がいる。
樹液の甘く出やすい木材は虫にとっては格好の栄養源だしカミキリ虫の幼虫などに食害されるおそれがある。大木になる前に食害されるので大きな木がない事の一因かもしれない。

10年ほど前に沼ノ端のあたりを車で走ったいたら五月初だつたので水芭蕉が沢山みられた。鉄道と水芭蕉を撮影することも可能である。

茅葺民家 岡山県勝田町木地山

2013年05月29日 | 茅葺き民家
撮影場所 岡山県勝田町木地山(現在は美作市)

木地山の付く地名は全国各地にある。
木地師が住んでいた土地でもある。
どこの木地山も山間部の奥が多い。
ここ勝田町木地山も一番奥の集落で小さな峠を越えれば鳥取県智頭町である。
木地山に住む人の苗字は小椋姓がほとんどである。
岡山県阿波村の大高下も木地師の里である。茅葺民家も多く存在していた。
茅葺民家の苗字を記録していたらほとんどが小椋姓だった。
ネットのなかった時代、図書館である本を見ていたら「氏名狩り」が行われ木地師に特権が与えられたとある。氏名狩りついてはネットで検索ください。

木地山の付く地名や木地師の住んでいた地域は茅葺民家も多いので訪ね歩いた。
私の訪れた木地山は次の通り
兵庫県千種町木地山、鳥取県三朝町木地山、滋賀県朽木村木地山、
秋田県湯沢市泥湯温泉にも木地山がある。
山形県長井市木地山がある。全国各地にはまだあると思うので興味のある方は探してください。






東北旅行 その3

2013年05月28日 | 旅行
家内にずっと運転をさせ茅葺民家の撮影ばかりでは楽しくないので観光地にも立ち寄り温泉にも入ってもらう。私は温泉に入れないのでその間は車の中で新聞を読むか昼寝をしている。
10回も東北に行くとチョコチョコ立ち寄るので観光地も行くところが少なくなった。
今回は三内丸山遺跡と小岩井農場、温泉は乳頭温泉と肘折温泉に立ち寄る。

1.三内丸山遺跡は平成4年から野球場の建設のため掘削を始めたら縄文時代の土器や土偶など巨大な遺跡であるのが発見された。壺や土偶が大量に発掘され糸魚川から運ばれたヒスイの勾玉も発掘された。1000年に及ぶ生活の跡が堆積されていた。

作家の司馬遼太郎氏は街道を行くの「北のまほろば」で津軽にも縄文時代にも豊かな文化があった。決して辺境の地ではなかった。十三湖などにも遺跡が残り各地と交易をしていたと書いてある。それは三内丸山遺跡が発見される以前の事である。
豊かな文化があったにも関わらずなぜ江戸時代に飢饉で大量の餓死者をだしたのか
それは米の生産による石高制にあると指摘している。東北北部は江戸時代に米の生産には適さなかった。なせ寒さに強い麦を植えて食料にしなかったのか米による石高制による年貢が足かせとなった。農民にしても日本人はやはり米に対する憧れが強かったのであろう。特に小麦は皮が硬く粉にしてパンやうどんのような使い方しかなく粒食のできる米にこだわったのであろう。
司馬遼太郎氏は三内丸山遺跡の発見を喜び自分の考えに間違いがなかった事を新聞やテレビで語っている。しかし発見されてから数年して司馬氏は突然亡くなる。
街道を行くは一年以上にわたりNHKテレビで放映されたので観ている人は多いとおもう。
私も毎回その内容を書き残し何冊かの記録帳になった。
そのなかでも「北のまほろば」は傑作であった。まずネーミングがよい。
「まほろば」は優れた場所をさす言葉だそうだ。「まほ」は真秀と書き素晴らしい意味だそうだ。「ろ」は接続語
こんな表現は他にもある。「み」を接頭語につける表現、崎に「み」を付けて岬、
空にみを付けて美空、「靴が鳴る」の歌は晴れた実空に靴がなる。美空ひばりもあった。
「み」は美しいの字を指すそうだ。



小岩井農場 小岩井の名は創立者、小野、岩崎、井上の頭文字をとつた。122年の歴史
岩崎は岩崎弥太郎の長男


秋田駒ケ岳 乳頭温泉近くから見る


東北茅葺民家撮影旅行 その2

2013年05月27日 | 旅行
今回は東北旅行の最中に見つけた野草をお送りします。
五月も下旬であったので春の花は終わりではないかと思ったがまだ咲いていた。
北へ行くと山桜は残っていた。八重桜が満開であった。しだれ桜は葉桜でさすがに咲いていなかった。

秋田県の羽後町軽井沢には茅葺民家の撮影で立ちよったがカタクリが咲いていた。
山百合の茎が40センチほどに伸びていた。
秋田の茅葺民家のホームページで山百合と茅葺民家の写真を見るが一度現物が咲いているのを見て見たい。

角館から高速に乗るために鹿角インターまで行ったが国道なのに対向車が来ないと思ったら景色は冬のままであった。酒田へ向かう月山の脇を通っているような感じだった。
道路脇の湿地にまだ水芭蕉が少し咲いていた。車の中から撮影する。

茅葺民家の撮影ばかりで運転手の家内の楽しみは道路脇の山野草や山菜を探す事。
山に入る山菜採りの人に話を聞くのが楽しみ。
女性で一人で入っている人が多い。
岩木山の西側の駐車場であった30後半の女性は80歳過ぎの女性と山に入るところだった。私の岡山ナンバーの車を見て、女性は広島県の福山出身で懐かしいと言ってきた。ご主人の転勤で弘前に住んでいる。高齢の女性が山菜採りの先生で一緒に山に入る。
どこに住もうと逞しく地域の楽しみを見つけ順応して生きている。
山菜のコシアブラと漆の見分け方を教わった。漆をコシアブラと間違う人が多いらしい。
漆の新芽は赤みを帯びているコシアブラは緑色と教えてもらった。

我々のところではコゴミは県北部の限られたところしかないが東北では川岸などどこにでもあるかんじだった。
今回の旅は走行距離3450km 初日は米沢まで850km 帰りは福島から920kmまでとした。
以前、山形まで高速道路で走ると1050km還暦を過ぎた家内の体力を考えると米沢くらいまでが一日で走る距離であろうか。
走行中はCDで小説の朗読を聞くと楽に運転できる。藤沢周平、向田邦子、池波正太郎、山本周五郎、図書館で借り一回に15枚ほど持っていくので、もう200枚以上聞いた。






キクザキイチゲ


だいぶ大きくなった水芭蕉



東北茅葺民家撮影旅行

2013年05月26日 | 旅行
茅葺民家を求めて八日間掛けて東北六県を走った。
東北の茅葺民家撮影は今回が10回目
東北へはこれがもう最後になるかもしれない。
東北を全部回るには三カ月90日は掛かると思っていた。10回行っても実質は70日弱であろう。まだ回っていないところが沢山ある。国道、県道も走るところはかなり残っている。東北は行き帰りに二日掛かるので一週間でも五日しか実動できない。

身体の問題もあり車の座席に乗るのが自力で出来なくなった。誰かに介助してもらわないと乗れないのは辛い。
宿泊は東横インはバリアフリーの部屋があって今回は助かった。

新規発見する民家も少なくなり同じ場所ばかではマンネリ化して感動が少なくなった。
今回の旅でそれを強く感じた。いつまで撮影するのか止めどきが難しい。
デジカメ写真は撮りぱなしで全く整理もしていない。撮影場所と撮影年月日、解説くらいしておかないと撮影した写真を残しても意味がない。
我々素人の撮った写真は残すほど価値のある物ではないと言われそうだ。写真の整理など考えずカメラを持って旅行も兼ね楽しめばいいのかもしれない。














懐かしい物 木の半鐘

2013年05月17日 | 懐かしい物
撮影場所 岡山県加茂町倉見(現在は津山市)

加茂町倉見に残っていた木の半鐘、集落の82歳になる男性に聞いたら自分が20歳のときに村の男が総出で山から100年の栗の木を運んだそうだ。栗の木は腐りにくいので水回りにに使われる。2メートルほど表面を焼いて横木を入れ埋めている。
栗の木は虫が入りやすいので健全な木を難しいそうだ。
落葉樹は針葉樹に比べ寿命が短い、楢や栗、クヌギ、ブナは200年くらいで枯れる。
枯れても茸の栄養源になる。
山での現金収入は炭の生産は収入が良かった。炭俵も自分で作り一家総出で作っていた。
しかし、燃料革命でプロパンが普及してからは村の産業は衰退していった。
この集落も老人ばかりになってしまった。多いときには300人が暮らしていた。
この木の半鐘も21世紀になるまでに倒された。


日本茅葺紀行 その53 大分県玖珠町の茅葺民家

2013年05月16日 | 日本茅葺紀行
撮影場所  大分県玖珠(くす)町

大分県日田地方は杉皮葺きの民家が多い。茅で葺いた民家もある。
日田杉の産地で皮が大量にでるのと耐久性に優れた杉皮を使うようになったのか
杉皮は黒っぽいので撮影したとき風景に映えない。
写真にするには茅程度の明るさが良い。雨降りの日は余計黒くなり周囲の風景も暗いのでコントラストが付かず撮影しても後でがっかりである。

屋根材には杉皮の他に檜皮(ひわだ)葺きがある。
檜皮は高級屋根材として神社に使われる。檜皮は生きた木の薄皮を木のへらで剥がしていく。80年以上の太いヒノキの皮を剥ぐ。
10年経過すると新しい皮の厚さになるのでまた剥離する。
木は甘皮(形成層)を一周剥ぐと水が上がらず枯れる。
甘皮に傷を付けずに剥くのに技術がいる。いまは巨木が少なく神社などの大きな木を許可をもらい剥いでいるようだ。
杉皮はヒノキのように皮だけ剥離することが出来ないので伐採後に皮むく。
木の皮は傷が付くと成長が止り商品にならない。鹿や熊が角や爪研ぎで傷をつけるので立ちあがりから二メートルほどカバーを掛けている。



懐かしの蒸気機関車写真展 その4 「沿線風景」 石垣

2013年05月15日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 岡山県高梁市 高梁高校の校庭の石垣

車窓から日本の風景の残っているところを探していた。高梁のはずれに石垣と松の風景を見つけて後日撮影に行った。
この周辺には三度通った。駅から線路沿いに歩いて30分ほどかかる。
私は車など持たずひたすら歩いた。
石垣の横を蒸気機関車が通過するのはものの数秒だった。
汽車を待つ間に昼食を食べる。お好み焼き二枚にパン二個だった。
よく食べていた一人前が誰のためにあるのか分からない年頃であった。
最近ようやく一人前で十分な食欲になってきた。

この高梁高校附近は高級武士の武家屋敷のあった土地と聞いた事がある。
ここから山城の備中松山城に登城していたという。

今思えば石垣も棚田や畑の石垣、民家の基礎の石垣や寺院の石垣、河川の石垣と探せば沢山あったとおもう。しかし、それに気付かなかったのでは仕方がない。
蒸気機関車の写真となるとガイドブックなど他人の写真参考にしている事が多い。それは何の写真でも同じでネットや本で紹介されると皆があつまる。
自分だけしか知らないだろうと行くが皆しっていた。また人間の心理として他人と同じ事をしている事で安心感があるのであろう。
最近のネット社会を見ているとネットで話題になったものやランキング上位になったものしか興味を示さない人が増えてきている。

伯備線 布原-神代間の川の護岸の石垣