懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

茅葺民家 福岡県浮羽町

2016年06月30日 | 茅葺き民家
浮羽町現在は浮羽市、早朝にでて昼過ぎに着き夕方まで撮影する。浮羽に行ったはこの一回のみだ。秋だったので柿のシーズンで山の裾野は柿の色に染まっていた。
農産物売り場で柿を買った。
福岡県の茅葺民家は浮羽が大川市の方しか残っていないように思えた。
平地が少なく石垣を積んで棚田や宅地にしていた。

石垣に先祖の生への執念と努力が滲みでていた。
隣は棚田とヒガンバナで有名な星野村である。
星野村にはいく時間が無かった。
茅葺が10軒ほど残っていたが廃屋もあった。
もう此処での生活を放棄したように思えた。

耕作地も少なく生活するだけの所得が得られないのだろう。
全国各地こんな集落が多い。
茅葺民家は大分県日田市と同様に杉皮葺きの民家が多い。


日本茅葺紀行 NO,298 青森県板柳町

2016年06月29日 | 日本茅葺紀行
弘前市から五所川原市につながる国道339号線は昔からの生活道で街並の中に茅葺民家が残る、特に板柳町には茅葺が多い。
現在は339号線のバイパス道路がありこれを走った方がはるかに早くつける。
水田やリンゴ畑の中を広い道路が走っている.みんな80km/hで快調に飛ばす。
しかし、バイパス沿いには茅葺民家はない。
茅葺は旧の国道沿いにある。
県道も含め昔からの道路には茅葺が残る。
この国道は13湖を通り竜飛岬まで行ける。

昔ながらの道路脇に茅葺民家が残るが撮りにくい、
車が頻繁に通り停車すると迷惑が掛かるし追突の支那敗がある。
街並みの中なのでスペースがなく電柱や電線が邪魔。
茅葺民家は一軒家の広いスペースの民家を撮りたい。

板柳に4軒見えるところがあった。道路側からは撮れないので裏のリンゴ畑に入り撮らせて
もらう。
車の中から撮れるので私も撮れた。
秋ならばリンゴ泥棒に間違えられるが春の花の時期だったので入らせてもらう。
今年見たら手前の三軒は茅が落ちて無残な家になっていた。

雪の多い地帯は民家を放置すると冬場の大雪で茅が抜ける。
撤去せず放置民家が多くなった。住む人がいなくなると茅葺を葺き替えることはまずない。


昭和の遺物たち  屋久島の記憶 その1

2016年06月28日 | 昭和の遺物たち写真展
九州で働いていた頃、屋久島に二度行った。
鹿児島港から船に乗り屋久島へ向かった。一回目は安房まで行く便だった。
安房には港が無く艀(はしけ)の小舟が迎えに来る。
外洋なので小舟は一メートルくらい波で上下する。
小舟が頂点に来た時に飛び移る。
若者や健康な人は飛び降りるが老人や女性は男二人がサポートする。
海はやけに美しい。
次の年(昭和43年)に行ったときにはフェリーの港が宮浦にできた。
これは便利になった。
鹿児島港から宮浦が便利になった。

鹿児島港では女性の音楽隊が出港を祝ってくれた。
そのころは山ガールなど存在せず船は男ばかりである。
女性の音楽隊みたさに船内は殺気だった。
船が傾くのではないかと思うほど岸壁側に人が寄った。
どんな曲を演奏したのかも記憶に残っていない。

女性の服も見るからに昭和である。
若い人が着てもおばさんに見える。髪形もおばさんであった。

こんな昭和の一ページのネガも使うこともないと思い処分したものもある。
あの時代はいくらでも撮るものがあった。過ぎ去った過去を撮っていないのが残念だ。
はっきりした目的意識を持っていなかった。時代の先読みもなくボケーと生きてきたと反省する。過去の写真を見ると懐かしさより自分の未熟さに気付き悔しさが募る。




岡山の茅葺民家 旧家

2016年06月27日 | 茅葺き民家
下屋などが本瓦葺きの重厚な茅葺民家。
住人の方に話をいろいろ聞く、この地域の旧家だそうだ。建物もかなり歴史がある。
御子息は某国立大学の教授をされていると言っていた。
訪れた時期が悪く冬場の太陽の角度が低く山影は太陽があたらない。
夏場に行こうと思いながら月日が経過して茅葺民家も姿を消した。

何事も直ぐに行動しないと月日はすぐに過ぎる。




茅葺民家 罪作りな趣味

2016年06月26日 | 茅葺き民家
茅葺民家の撮影、他人の家に立ち入り民家や家の中、住人、生活の様子まで撮影していく罪作りな趣味である。
きっと地獄に落とされそうだ。
地獄が怖くてもこの趣味を辞めるわけにいかない。
住人の了解を取り時には説得し撮らせてもらう。
人生修行と思いやっている。
人生は体験だ。いくつになってさも人生は修行、体験をしないと分らない。
他人の書いた本をいくら読んでもわかったような気になるだけで何も身につかない。
自分でやるなり、体験することだと思う。
死ぬまで修行、死ぬまで経験


日本茅葺紀行 NO,297 大金鶏菊

2016年06月25日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 兵庫県三木市

水田など田園風景が何故か懐かしい。

西日本ては猛威をふるっている大金鶏菊は在来種に影響を与えると嫌われものだが咲けば美しいので駆除しようとはしない。
五月の中旬から六月初めに咲く。
今年、東北に撮影にに行くときにどのあたりまで猛威をふるっているか観察した。
高速道路の植え込みや花壇に繁茂していたのは兵庫県。
法面まで花盛りだった。東に行くにしたがって少なくなった。
東京の高速道路では僅かに見えた。
それが東北に行くとほとんど見なかった。
東北の北部には無いようだ。彼岸花と同じで寒さに弱いのか
しかし、東北ではマーガレットの白い花が道路脇の雑草に混じり咲いていた。

種と地下茎で増える植物は繁殖力が強い。
大金鶏菊もマーガレットも種が落ちると翌年は沢山の芽がでてくる。
セイタカアワダチソウやススキ、チガヤなど種と地下茎で増える植物は繁殖力が強い。
家内の持っている畑を放置していたら繁殖力駒の強い雑草が生えていた。
草刈りに苦労していた。春本番に新しい葉が20センチくらい伸びたところへラウンドアップを散布したら見事に枯れた。威力があるだけに恐い気がした。
しかし、壊滅したが1か月で新しい草が生えてきて安心した。




ラーメンと蛍見物

2016年06月24日 | 日記
今年も蛍見物に行った。
子供が小さかった頃は毎年蛍見物に行った。子供が喜ぶさまが見たくて毎年行った。
子供の手が離れても夫婦で毎年見に行っている。

岡山県も総社市から上にはきれいな、いつも流れている川ならばいるようだ。
私は豪渓の槇谷川に見に行く。
私も家内も健康に不安がある来年も夫婦で見えるかと思いながら毎年、恒例行事になっている。

今年は平日だったので三組しか見に来ていなかった。
家内は15年前に友達を連れて蛍を見に行った。その友達は田舎に住んでいるのに50歳まで蛍を見たことがなかっという。その時、大変感動して自分で毎年見に行くようになった。

息子は東京勤務の時に子供を連れて何時間も掛けて相模湖の周辺に見に行ったが蛍は少なかったと言っていた。
その後息子は岡山の勤務になり孫を連れて毎年蛍見物に行っている。
子供の頃の実体験は必要だと思う。キャッキャ言って喜ぶ姿が子供には必要とおもう。

蛍見物に行く前に総社市の国道180号線沿いのトンペイというラーメン屋でラーメンを食べる。美味しいのだが客は余り多くない。この日もわたしら夫婦だけだった。
間もなくしてもう一組の夫婦がきて安心した。この店で座れず待った事など無かった。
一度だけ車が10台停まっている日があった。それでも席は空いている。
こんな時は今日は客が来ているとこちらが嬉しくなるものだ。
年間に四、五回しか行かないが今日は客が来ているかとこちらが気を使う。
地方都市では人口のパイが大きくない。
一杯550円のラーメンを頼んだ。普通サイズのラーメンをやっと食べた。若いころは大盛ラーメンにおにぎり二個が定食だっのに

昭和の遺物たち  屋根 その2

2016年06月24日 | 昭和の遺物たち写真展
倉敷市下津井の小高い山に登り町並みや海の風景を撮影した。瀬戸大橋の建設が始まると風景はどう変わるのであろうか。漠然とした思いで撮影した。
ただひとつ定年になったころに自分はどんな時代に生きたのかを検証するため現状をカメラに残した。

会社に入ったころは会社の案内に何年かすると電蓄が持てるようになると書いてあった。
電気蓄音機が持てる。今の人に言ったら笑われる。
電蓄はその後はステレオとかコンポとよばれた。
車を持てるとは夢にも思わなかった。しかし、10年後にはサラリーマンでも車を持てる時代がきた。 昭和47年2月の蒸気機関車のサヨナラ運転に乗用車で撮影に来ている者が多かったこと。
この前まで国民服の中国がファッションに身を包み車を持つ時代になった。
時代は大きく変わっていくものだ。

下津井も瀬戸大橋が出来て海岸は埋め立てられ広い道路が海岸に沿い走っている。
本瓦葺きの民家は江戸や明治期のものが多く解体補修の必要な物が多かった。
今は解体された家も多いと思う。

写真展をしたときに80歳を過ぎた男性が瓦屋根の写真を撮っているので場所を教えてほしいと言ってきた。現在も残っていると思ったのか折角やる気があるのに腰を折るのは悪い思い教えたが何事もタイミングである。若いころになんで興味を持たなかったのかとおもう。
光陰矢の如しである。時代は引き戻せない。今からでもやれることは何かあるはずだ。


蒸気機関車 宮崎機関区 C61 2号機

2016年06月23日 | 蒸気機関車
宮崎機関区で方向転換や給水、給炭のC612号機
この機関車は京都鉄道博物館に保存されている。
奥羽本線の電化で日豊線に転属になる。
C57形に代わり運用された。
普通車や貨物を牽引していた。
急行列車などの運用は無かった。
気動車の急行や特急が運行していたので蒸気機関車の出番はなかった。
蒸気機関車は給水、給炭に20分は掛るのでスピードアップがはかれない。

機関区で待機する機関車の写真、他愛もない写真だが鉄道好きはこんな写真を眺めるだけで心が落ち着く。
蒸気機関車の運行に必要な設備が写っていることや構内に入って撮影ができた事であろう。
宮崎機関区は撮影に来ていた少年が人身事故に遭い厳しく立入りが規制された。
今では撮ることの出来ない光景である。

現在も鉄道ファンは多いが構内の立ち入りは禁止されているのであろう。




岡山の茅葺民家 旧阿波村の民家

2016年06月22日 | 茅葺き民家
岡山県の茅葺民家を撮って頃はカメラを一台しか持っておらずモノクロしか残っていない。
数年して家内にもう一台カメラを買ってもらった。子供に金の掛る時期で贅沢はできなかった。
それからカラー写真が残っている。

定年後五回写真展をしたが四回はモノクロであった。
昔からカメラをやっている人は興味をもって見てくれるがデジカメからカメラを始めた人は入っても一分くらいで出ていく。
モノクロは写真でないという評価だ。
古い街並みなどはモノクロが味があると思う。
そんなわけで訳でこれは残っている数少ないカラー写真である。
モノクロとカラーを同時に展示するとモノクロは見劣りする。カラーの時には展示しない。

阿波村にはふるさと村というのがあった。茅葺民家も残っていたので保護していたが財政難で消えてしまった。
売店や茅葺民宿もあったが痛んでいる。観光客の沢山くる茅葺の里は活気があるが今後も維持できるのだろうか。
今は外人も多いので当分は安泰か。観光地化しても茅葺集落は残ってもらいたい。技術も仕事も継承できるので。