懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

岡山の茅葺民家 軒下の風景

2015年10月31日 | 茅葺き民家
撮影場所 岡山市

茅葺民家の軒下に芋をほしてある。
干し柿も干してある。
日本の秋の風景である。
日本人なら誰も懐かしさを覚える。
懐かしい光景を探しにカメラを持って歩くようなものだ。
自分は何に懐かしさを覚えシャッターを切るか。
そんな事を思いながら旅をする。
自分の発見する目と感性が試されるところである。
写真展で人に懐かしさや感動を与えられるか自問自答しながら
  
縄で編んフゴが二つ、竹のかごもある。
長年使われてきた渋さが滲み出いる。
郷土博物館の壁にかけてあるのでない。
人が生活のために使っているのがよい。
無造作さに置かれているのが自然体だ。




茅葺き民家 京都府旧京北町の民家

2015年10月30日 | 茅葺き民家
京北町は現在、京都市に編入された。
茅葺民家を撮り始めて岡山県内から徐々に領域をを広げていった。
兵庫県から京都府へ
こんな時が゛一番楽しかった。
茅葺を発見するのを楽しみにどんどん侵攻していった。
第二次世界大戦でドイツ軍がポーランドをあっという間に侵略しロシアのモスクワ侵攻のように
侵攻はいつまでも続かなかった。冬将軍ではなく難病で歩けなくなった。
それでも家内に連れて行ってもらい止める事な侵攻を続けている。

障子貼りの昔ながらの民家である。
茅葺を撮っていくと昔ながらの民家や生活様式を記録しないといけないと思うようになった。
本来は沢山茅葺民家のあった昭和の時代に気付くべきだったか過ぎ去った事は仕方がない。
それにしても平成の時代になっても茅葺民家が残っているのは嬉しいこととだ。
建物は昭和以前のものである。
庶民の文化財でもある。世間遺産という人もいる。私は昭和遺産だとおもう。
文化財のようなものは撮ろうとは思わないが庶民が今も生活しているものは貴重なものだ。
茅葺民家を巡り撮り続ける事が自分の歴史でもあると思っている。





日本茅葺紀行 NO,249 リンゴと茅葺民家

2015年10月29日 | 日本茅葺紀行
リンゴと茅葺民家、青森県の津軽地方はリンゴ畑も延々と続き茅葺民家も多いので出会う確率が高い。しかし、天気が悪かったり車椅子で行けなかったりでいい写真がない。
撮れる時期も10月にいかないとならず難しい。
リンゴ畑は誰もいないところではリンゴ泥棒と誤解されるのが嫌だ。
県外ナンバーは誤解されやすい。

弘前から五所川原にかけてのリンゴ畑は広大だ。
TPPが開始されて11年後に関税が撤廃される。
日本は品種改良で海外に太刀打ちできると思うがジュースや加工品で海外の安い製品や原料が入ると影響があるのであろうか。
岡山県で生産の多いブドウはすぐに関税が撤廃される。
ピオーネやシャインマスカット、瀬戸ジャイアンツなどは海外のぶどうに負けない品質があるのであろう。かえって海外に輸出できるメリットもある。

リンゴを唄った歌は沢山ある。りんごの唄、リンゴ追分、りんご村から、童謡唱歌にもりんごのひとりごとがある。美空ひばりのヒット曲に津軽のふるさとがある。
津軽の風景をよく表した曲だ。
「リンゴのふるさとは」で始まるいい曲だ。昭和28年の曲だが今聞いても素晴らしい歌だ。
美空ひばり16歳の歌だが中年になって唄ったものが味がある。
美空ひばりは現役の頃はいろいろ私生活で問題があり嫌いだったが改めて聞くと上手い歌手だ 


昭和の遺物たち  その7 軽便 下津井電鉄 その1

2015年10月28日 | 昭和の遺物たち写真展
下津井電鉄は宇野線の茶屋町駅と下津井を結んでいた。
延長距離は21km
宇野線と宇高航路開業の対抗策として四国への連絡に開業した。
児島半島に鉄道を敷設し交通の便をよくする目的もあった。
交通手段としては鉄道が一番便利な時代である。
道路も整備されておらずバスがあったかどうかの時代である。

しかし車社会になり競争力を失い昭和47年3月31日に茶屋町と味野(児島)間が早く廃止された。地元でありながら廃止まで撮影していなかった。廃止の数か月前に撮影に行く。

延長距離が21kなのでフルマラソンの練習に茶屋町から下津井折り返しで試走する人がいる。
線路の跡は遊歩道として残っているところも多いのでサイクリング歩行に活用されている。





蒸気機関車 日豊線佐土原駅

2015年10月27日 | 蒸気機関車
日豊線の佐土原駅を発車するD51型蒸気機関車
ナメクジと呼ばれていた形です。
伯備線にはナメクジ型がいなくてこれに出会うと嬉しかった。
煙突の前に蒸気ヘッダーりついている機関車はあまり感動しなかった。D51,C58と数がおおかったのと顔の部分なのでヘッダーはいやだった。
停車しているので沢山撮ればいいのに一枚二枚しか残っていない。

発車しようとしている他愛もない写真だが撮ると撮っていないでは大違い。
後で講釈ばかり上手い人がいるが行動して記録しナンボのものである。
考えいるだけと行動をした人とでは雲泥の差がある。

「考えてばかりでは日が暮れる」というのが相田みつをの言葉にある。

今、NHKで映像の百年という番組をやっている。
百年前の映画フィルムが外国では大切に保存管理されているのだ。
鉄道の写真もマスコミの撮ったものは残っているが鉄道ファンの撮ったものはどうされているのだろうか。だんだと高齢していくし亡くなると処分されるだ物もあろう。
アマチュアの撮ったものなどカメラも悪いし写真も下手だし企画力もないしと評価の対象になっていないか。

昔の鉄道写真やネガを収集しているマニアもいるようだ。
その写真が子供の頃や生まれていなかったら過去の写真を集めるしかない。
昭和の映像は収集に価すると思う。
過去の写真に価値を見出せるかは本人の感性しだいと思う。

過ぎ去った日々を思い返すと私も時代を記録するといった考えで写真を撮っていたらと反省する。

岡山の茅葺民家 奈義町の民家

2015年10月26日 | 茅葺き民家
奈義町は岡山県の北東部、国道53号線で峠を越えれば鳥取県智頭町
茅葺民家を探しにウロウロと何度か走った。走ったといっても地方道から見渡せる範囲を探したに過ぎなかった。岡山の茅葺民家を撮り始めた頃でモノクロでしか撮影していない。
そのころは数は少ないが時々茅葺にであった。
しかし、フィルムカメラのためケチケチ撮っている。。。
最初の頃は茅葺に出会うのがうれしかった。しかし、何年もやっていると初心の頃の感動が薄れてくる。
マンネリ防止の策を講じないと趣味は続かない。
政治でも宗教でも長年続くと衰退してくる。中興の祖がでて立て直しをする。

自分の趣味も中興の祖がいる。
他人と交流して刺激を受ける、写真展など発表の機会を得て評論やコメントをもらうことが必要か。
いくら歳をとっても他人から評価が認められないとやる気につながらない。



茅葺き民家 広島県熊野町の民家

2015年10月23日 | 茅葺き民家
熊野町には茅葺民家が沢山残っていた。難は道が狭い、車でいくと怖い、バイクかどこかに車を置き徒歩がよいが車を置く場所も余りない。
歩くとなると時間がかかる。一日かかっても撮れないであろう。
本当は歩いて地元の人と会話しながら地元の人も入れて撮影するといい写真が撮れる。
写真は時間をじっくり掛けて撮ったものは味がある。

本当は一か所やその地域を四季折々何度も足を運んで撮った写真が素晴らしいのがある。
わたしなど総花的にあっちをちょっとこっちをちょっとの写真ばかりだ。

日本茅葺紀行 NO,248 広島県旧吉舎町の民家

2015年10月22日 | 日本茅葺紀行
広島
県吉舎町(きさまち) 現在は三次市に編入された。
茅葺民家があるというので訪れた。世羅高原に花を見に行ったついでにもう一回立ち寄った。
茅葺民家の写真を撮らなければ立ち寄らない町である。
それも茅葺民家だけ撮れば終わり。さつさと移動している。
各地に行ってもこんな記憶しか残っていない。
分らない事は帰ってネットで調べれば済む。
こんな旅をしていたのではダメだと思う。

ブログを書くにしても他人の文章を引用したり内容を書き写したりと偽装である。
自分が何を見て何をろ感じたかを書かないといけないが、余り見ていないので何もかけない。
人が昔から住んでいたので歴史や偉人もいたであろうし産業や特産品もあったはずだ。
反省を込めて




昭和の遺物たち  その6 軽便 井笠鉄道 鬮場駅

2015年10月21日 | 昭和の遺物たち写真展
鬮場(くじば)駅は笠岡駅の次の駅で歩いても30分もかからない。
井笠鉄道があったときは何度か井原まで乗り各駅の写真を撮り切符を買っていった。
切符は今も残っているが国鉄の切符のように人気がない。
買った値段では売れるようだ切手のように額面の7割になる事はない。
井原駅は改装され昔の面影は無かった。

その他の駅は昭和の風景そのものだった。
何を撮っても今だと懐かしい風景だったとおもう。
特に廃止になる収益性の悪いところは改装に金を掛けられない。
それだけ骨董風景が残されている。
そんな昭和の風景のなかでいるとどれが懐かしい風景になるかは想像できない。
これは消えて無くなるだろうと思う物を撮るしかない。
平成の現代でもこれは無くなるだろうと考えるのは難しいものだ。

消えて無くなる風景を撮るにはいくつかのキーワードがある。
衰退、斜陽、寂れる。時代遅れ、老朽化、廃業、不便、過疎化、人口減少、後継者不足





蒸気機関車 岡山さよならC62

2015年10月20日 | 蒸気機関車
昭和45年8月の暑い日にC62のさよなら運転が山陽線であった。

9月に呉線電化で転属廃止される糸崎機関区に所属する大型蒸気機関車を使って走行するさよならイベントがあった。C62とC59の重連だった。
糸崎機関区は岡山鉄道管理局区内であったので岡山から山陽線を走るイベントがあった。
テレビや新聞にもイベントの予告があり岡山駅や沿線には人だかりかができた。
蒸気機関車の廃止に伴うイベントが行われる時代であった。
大阪では万博で行われ日本が一番活気があったようにおもう。