懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

懐かしい風景 木の半鐘

2012年11月30日 | 懐かしい物
撮影場所 岡山県総社市

この半鐘も柱だけは15年くらい前まで残っていた。しかし、鐘はすでに外してあった。
外した鐘は公民館などて飾ったりぶら下げてあるところが多い。鐘も銅合金の鋳物製だと値打ちのあるものもある。
以前撮影した時は随分田舎だったように思う。今は広い二車線の道路ができ高速道路(岡山道)も走っている。新しい道路が出来たことで以前訪れて撮影したことを思い出した。風景は時代とともに少しづつ確実に変化していくものだ。
ここまで撮影に来たのはバイクに乗り出してからであろう。私は若い頃、免許も持たず鉄道やバスで移動する事しかできなかった。これでは行動範囲が限られる。
乗り物を持てばもっと広く行動できたのにと後で思うが、自分にカメラを持ちいろいろ記録しようとする動機付けがあったか、継続する強い意志があったかどうか疑問だ。
人生は済んでから、知恵がついてから気付くものである。

集落の入り口に常夜燈をおいて集落を守っているのだろう。
これを作るにしても地域の人の寄進があってできるもの金も掛かった事であろう。
神社や寺院、石仏にしても村の人々の要望、寄付や労働があってできるものだ。  
物が残っているのは先人の生活の歴史でもある。いろいろな思いや調整があってできたことであろう。ゴミステーションひとつ作るにしても場所の確保や市との調整、補助金の申請や寄付金の集めとが大変であった。


日本茅葺紀行 その16 島根県石見町の民家

2012年11月29日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 島根県石見(いわみ)町 現在は邑南(おうなん)町

島根県石見町に茅葺民家を探しに山道を走った。
行きは一般道で出雲市から浜田市まで走り浜田市で一泊して翌日、石見町から中国山地沿いの町村を走った。
この地域はそう茅葺民家の多いところではない。見つかれば儲けものと言った感じである。
旅は何かあれば立ち寄ってみる旅行である。鳴き砂の琴ヶ浜の前を走ったので立ち寄り砂の鳴き具合を体験してみた。鳴き砂はその砂浜ならばどこでも鳴くものではない。人が歩いた後の砂では鳴かない。波打ち際から二メートル以内の人の歩いていない乾燥した砂のところでないと鳴かない。また体重の重い者は鳴きにくい。体重の軽い人が擦り足で歩くとよく鳴く。
波打ち際の砂が鳴くのは波で砂の粒径と配置が揃い並ぶからではないか。人が歩くと配列が崩されてしまうので鳴かないのではないか。

石見町は瑞穂町、羽須美村と合併し邑南町になった。ここ四十年で人口が17900人が11900人に減少している。中国山地にも近く人口流出が多い。日本の山間地の抱えている問題がここにもあった。おいしい水、おいしい空気、美味しい食料の供給のために農山村で働ける産業を育成し農業の大規模化や効率化、林業の効率化が必要だ。また農山地の資源としての評価も高めないといけない。中国に買い占められない前に

石見町の民家は寄棟である。遠くに山が見え家の周りは木々に覆われ柿の実がなり石垣の積まれた田がありススキが生えまさに日本の田舎の風景である。子供頃からこんな風景を見なれた人々には懐かしい故郷を思うだろう、しかし、現在のように都会暮らししか知らない人にはこんな風景はどう映るのであろうか。田舎くせえ、コンビニも無いところで住めるか、刺激がねぇと言うのでというのであろうか






茅葺民家 広島県戸河内町の民家

2012年11月28日 | 茅葺き民家
撮影場所 広島県戸河内町

戸河内町には何軒か茅葺民家の残っている地域がある。
茅場のようにススキの生い茂った民家を撮影
広島県は基本的には寄棟ですが芸北町を中心として地域には入母屋造りが残る。
棟には棟飾りを乗せている。
秋田のように寄棟の民家にも棟飾りを乗せる地域もあるが入母屋の民家が多い。

ここは三段峡に近い紅葉のシーズンになるとスキー場の駐車場に車を止めてシャトルバスで渓谷の入り口まで運んでもらう。このバスを待つのに時間がかかる。
シーズン以外には三段峡まで車で乗り入れが出来る。この一帯は熊の多いところで茅葺民家の台所まで入り込み食べ物をあさるといっていた。
三段峡にも熊は出没する、あちらこちらに注意書き
私も健康だった時は何度も三段峡をハイキングした。




蒸気機関車 山陰線保津峡駅

2012年11月27日 | 蒸気機関車
撮影場所 京都府 山陰線保津峡駅

山陰線は嵯峨駅をでると保津峡に沿って走る。桂川は幾重にも曲がり渓谷美を見せる。
保津峡は京都のすぐ近くにあるので景勝地として訪れる人も多い。
山陰線は渓谷を削り敷設されているため大雨や台風のつど落石や浸水の危険性があった。
蒸気機関車の走っている頃、保津峡は撮影ガイドに載っているポイントだった。
早朝に通勤列車が何本か走る。それを撮影するのだが渓谷で晩秋からは太陽が射さない。
フィルムカメラではシャッター速度を速くできないのでぶれて撮影にならなかった。

今の山陰線は保津峡のところはトンネルで直線的に走っている。保津峡駅はトンネルとトンネルの間にあり以前の谷底の駅とは違い高い場所にある。
かって保津峡駅は秘境駅だった。近くに人の住む民家はない。今もそれは変わらず近くの集落まで二キロほどある。しかし車で駅までいける。
写真の山陰線は撤去せず保津峡観光トロッコ列車として嵐山から亀岡の馬堀まで運行されている。

私は右京区越畑から茅葺民家を探しに車一台しか通れない山道を走った。途中は集落もない山道、愛宕山の近くになり集落が出てきた。やがて保津峡にでて新しい保津峡駅に立ち寄った。駅から保津峡が見渡せる。
今はトロッコ列車の駅になっている以前の保津峡駅の横を走った。駅へは歩道用の橋が桂川に掛かっている。車では以前の保津峡駅には行けない。
保津峡から更に狭い山道を走って民家が見えてきた。
そこには茅葺民家が何軒か見える。京都の写真で見たことがある光景だ。そこは世界遺産にも登録されている鳥居本だった。


崖を10メートルほどよじ登れば保津峡の渓谷が入るそうだ。



懐かしい物  背負い籠

2012年11月26日 | 懐かしい物
撮影場所 上二枚は岡山県勝山町、下二枚は広島県神石町

背負い籠は農作業で、収穫した作物や山菜採りに使う、堆肥を運んだり落葉を運ぶのに使う。
堆肥を運ぶ物は肥え籠という。
中国地方では木の枠に紐を掛けた物が多い。
木はよく曲がる柳などを使う。
秋に赤い実を付ける真弓もしなやかで曲げ易い、昔は弓に使われたので真弓の名が付い。
九州は竹で編んだ籠が使われる。道具は地方、地方で材料や組み方が違い面白い。
いずれも天然素材で道具を作るのが生活の知恵である。



背負い籠はあれども人がいないる、神石町



日本茅葺紀行 その15 青森県階上町の民家

2012年11月25日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 青森県階上町(はしかみまち)


階上町は八戸の下で東は太平洋に面する。
旧の南部藩の領域であったため岩手県の茅葺民家や言葉も近いようだ。
南部藩は岩手から下北半島まで広い、同じ青森県でも津軽藩とは違いが見える。
南部氏は鎌倉時代からの領主で明治まで断絶しなかったのは薩摩の島津家との二家だと言われている。
階上町周辺の茅葺民家も岩手県と同じ草棟である。
棟の部分の雨仕舞に杉皮を敷き土を乗せ芝や草を植える。
山百合や鬼ゆり、イワヒバを植えるところがある。
草棟は西日本では全く見掛けない。
今、草棟の茅葺民家の痛みが酷くトタンやタイヤを屋根に乗せている家が多く綺麗な民家に出合う事が難しい。
屋根の茅も薄いように思う、こんな茅葺民家は痛みだしたら一気にダメになる。
私はこの草棟の民家が素朴で好きである。
もう一度東北に行く機会があれば探してみたい民家である。



茅葺民家  造り酒屋の茅葺民家

2012年11月24日 | 茅葺き民家
撮影場所 岡山県倉敷市西富井

造り酒屋で茅葺民家をまれに見掛ける。この酒屋は玉司という酒造会社でした。
造り酒屋といえば昔からの資産家の家が多く伝統的な家屋が多い。
茅葺民家があっても不思議ではない。
しかし、酒の需要の落ち込みで造り酒屋も急速に廃業に追い込まれるところが多い。
この酒屋のあったところは昔ながらの民家が多かった。時間が止った一帯である。
今もこの造り酒屋が残っているが7年ほど前に見に行ったら宅地造成されて新興住宅が立ち並んでいた。

この茅葺民家は岡山南部の形を残している。
棟は箱棟で下屋が付いていて棟瓦も下屋(岡山ではオダレと言う)も本瓦が使われている。
正面のスペースが狭く庭石の上から撮影させてもらう。






蒸気機関車 行橋機関区

2012年11月23日 | 蒸気機関車
撮影場所 福岡県行橋市

行橋機関区は田川線の蒸気機関車の基地であった。
レンガ造りの渋い機関庫であった。
全国でも機関庫はコンクリート、レンガ造り、石造り、木造があった。
蒸気機関車の煙突から火の粉が出るのに木造で火災が起きないものだと思う。
写真のC11型蒸気機関車、横の建物は木造である。
少なくとも外壁は不燃材の建造物にすべきだと思うが、この当時の法律では許されたのであろう。
余談だが私の働いていた工場で消防査察があった緑地帯の芝生が10センチ程度に伸びていた。枯れた芝生は可燃物である、すぐに刈り取るようにと指摘を受けた事がある。

蒸気機関車の写真を撮影している頃、全国の機関区を撮影したいと思ったが昭和47年には本州ではほとんど蒸気機関車は廃止された。その頃は週一日の休日で全国をまわる時間は無かった。大学生の鉄道ファンは夏休みの一カ月、全国の隅々まで撮影している人もいたようだ。

蒸気機関車が廃止されても機関庫は撤去されずに残ったところもある。
津山機関区、和田山機関区、久大線の森機関区は現在も残っている。
森機関区は大分自動車道玖珠I/Cに向かう道沿いにある。
以前は廃墟であった。扇形機関区の周りは草で覆われ機関庫のガラス窓はすべて割られゴミまで放置されていた。近代化遺産や廃墟ブームで森機関区にスポットライトが当たりボランティアで綺麗に掃除され地元遺産として活用されている。津山機関庫も鉄道ファンが訪れる場になっている。

今は近代化遺産選定や廃墟ブームで明治以降の古い建造物が見直され愛好者も増えた。
蒸気機関車の走っていた時代に古い建造物が近代化遺産として評価されるとは思いつかなかった。写真は「未来を予測して未来のために現在を記録するもの」と言われているが未来を予測するためには社会で起きている問題点や社会の変化に関心を持ち感性を上げていく事でしょうか。






鉄道 予讃線丸亀駅

2012年11月22日 | 鉄道
撮影場所  香川県丸亀市(予讃線丸亀駅)

丸亀駅に停車するキハ20系の気動車とDF50型ディゼル機関車を撮っている。
気動車キハ20系は1957年(昭和32年)から1965年(昭和40年)に1100両製造されすべて廃車されている。
DF50型ディゼル機関車は昭和32年から昭和38年までに138両製造され1983年(昭和58年)に四国での運転を最後に廃止されている。
DF50の写真の前の大八車、貨物を運搬するものであろう、いまではこんな光景もなくなった。

なぜ撮影したのかわからない。カメラを持っていてたまたま撮影したのであろう。
気動車などは積極的に撮影はしていない。
電車や気動車の外観は特徴的な差がそんなにない。特急列車はそれなりに形に特徴があるが
それとごく普通に頻繁に走っている列車を撮影する気にはなれない物である。
しかし、マニアはいるものだキハ20系の気動車を番号別に撮っている者もいるしDF50機関車を番号別に撮影している人がいる。
DF50系のさよなら運転の頃(昭和58年)はビデオで撮影されている。ユーチューブを見ていたらそんな映像があった。


荷物運搬用の大八車が懐かしい。

古い町並み 土塀のある風景

2012年11月21日 | 古い町並み
撮影場所  岡山県早島町


早島町には土塀の家が残っている。
昔は一般的にあったが段々と姿を消している。そんな土塀を散歩がてらに撮影した。
土塀に囲まれた通路は落ち着き楽しく歩ける。しかし、大きな地震があれば倒壊して通行を妨げそうである。
土塀に子供が落書きをしてある。二重丸に縦線の日本国中共通のマークも書いてあった。
記念に撮影しておいた。

古い町並みも土塀の新設や管理には金がかかるので板塀などで昔を演出しているところが多い。
写真家、入江泰吉さんの奈良の昭和20年から30年代の白黒写真を見ると寺院以外でも土塀が多い。戦災に遭っていないので昔の姿をよく残している。
今、土塀が残っているのは京都や奈良の寺院群でしょうか
法隆寺の周囲を囲む土塀はやたらと長い。
しかし、私はこんな世界遺産には余り興味はない。残すべく維持費を掛けた遺産である。
それよりも個人の民家で消えてなくなる恐れのある土塀に興味がある。
土塀がある家は敷地も広く昔からの大きな家が多い。
茅葺民家もそうだが土塀も手身近にある素材を使っている。
粘土質の山土や石灰、藁、菜種油を混ぜ、瓦や石を骨材にする。
土塀は天然素材の持つ温かさや環境への優しさがある。また時間の経過とともに味がでてくるし朽ちる時の哀れみもある。

世の中にはマニアックな愛好家がいる。土塀同好会や土塀研究家というのがないか調べて見たがなかった。それでも全国各地には味のある土塀も残っている事であろう。