4月23日、観世能楽堂にて鑑賞。
遅くなりましたが、今年初の能鑑賞となりました。
能 『高砂』
以前より注目していた若手の高梨万里さんのシテによる『高砂』です。ツレは祥丸君と、とても若い二人が演じる老夫婦です。
『高砂』は私が説明するまでもなく、お能ファンでなくても、「高砂や、この浦舟に帆をあげて~」という謡の一部を聴いたことがあるくらい有名ですし、おめでたい曲ですね。
お囃子も若手(?)だからなのか、安定感というよりも、若さはじける舞台という感じでしたね。神舞はやっぱり早いですねぇ・・・。いつか自分もやってみたい曲の一つです。(まだ無理って言われるんですけどね・・・)
シテ:高梨万里 ツレ:関根祥丸 ワキ:村瀬堤 間:善竹大二郎
笛:一噌隆之 小鼓:鳥山直也 大鼓:大倉栄太郎 太鼓:助川治
能 『西行桜』
桜は散ってしまいましたが、心の眼でまた桜を見ることができたような気がします。でも、この日は冬のような寒さになってしまった東京でした。
不勉強なので、西行についてもあまり詳しく知らないし、初見でしたので、予習しなくては・・・と思ったのですが、ちょっとお稽古関連の雑務などで忙しくて行くのやめようかと思ったくらい・・・(泣)ということで、ざっとあらすじのみを頭に入れての鑑賞となりました。
ジャンルは三番目物となっていますし、シテが桜の精というと、シテは女性だろうか?と思ってしまいがちですが、これは老桜の精が主人公です。(三番目ものは女性だけでなく、草木の精などが主人公の曲もあります。)といっても祥人さんが演じると、老桜という感じはまだしませんが(苦笑)、老桜だけあって華々しい美しさではなく、渋い美しさというものを感じました。
「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎にはありける」
と西行はこの歌を詠みますが、そこに桜の精が現れ、「桜の咎とは何とぞ?」「桜はただ咲いているだけで咎はない。」と西行を諭し、桜の名所を教えます。
奥深いですが、確かにそうなんですよね・・・。人がどう思おうと桜はただ咲いているだけ・・・。哲学的ですよね。またこれは見てみたいです。そして、もう少し、この曲のことを深読みしたいですね。
この曲は世阿弥の作ですが、この時代も、今も、日本人の桜を愛でる気持ちというのは変わらないのだな・・・と思うのです。
シテ:関根祥人 ワキ:宝生欣也 間:善竹十郎
笛:一噌庸二 小鼓:亀井俊一 大鼓:柿原弘和 太鼓:金春国和
この日も、他に狂言、素謡、仕舞がありました。祥人さんももちろんですが祥六さんの謡も堪能した一日となりました。
さて、この日も帰り道は祥人さんファン仲間と一緒に「今日も素敵でしたね~」とお話ししながら渋谷駅へ。次は7月のお舞台に行こうかなと予定しています。関根家の『景清』は私にとって、とても思い入れのある曲なので・・・。
(4月28日、主な出演者を追記。)
遅くなりましたが、今年初の能鑑賞となりました。
能 『高砂』
以前より注目していた若手の高梨万里さんのシテによる『高砂』です。ツレは祥丸君と、とても若い二人が演じる老夫婦です。
『高砂』は私が説明するまでもなく、お能ファンでなくても、「高砂や、この浦舟に帆をあげて~」という謡の一部を聴いたことがあるくらい有名ですし、おめでたい曲ですね。
お囃子も若手(?)だからなのか、安定感というよりも、若さはじける舞台という感じでしたね。神舞はやっぱり早いですねぇ・・・。いつか自分もやってみたい曲の一つです。(まだ無理って言われるんですけどね・・・)
シテ:高梨万里 ツレ:関根祥丸 ワキ:村瀬堤 間:善竹大二郎
笛:一噌隆之 小鼓:鳥山直也 大鼓:大倉栄太郎 太鼓:助川治
能 『西行桜』
桜は散ってしまいましたが、心の眼でまた桜を見ることができたような気がします。でも、この日は冬のような寒さになってしまった東京でした。
不勉強なので、西行についてもあまり詳しく知らないし、初見でしたので、予習しなくては・・・と思ったのですが、ちょっとお稽古関連の雑務などで忙しくて行くのやめようかと思ったくらい・・・(泣)ということで、ざっとあらすじのみを頭に入れての鑑賞となりました。
ジャンルは三番目物となっていますし、シテが桜の精というと、シテは女性だろうか?と思ってしまいがちですが、これは老桜の精が主人公です。(三番目ものは女性だけでなく、草木の精などが主人公の曲もあります。)といっても祥人さんが演じると、老桜という感じはまだしませんが(苦笑)、老桜だけあって華々しい美しさではなく、渋い美しさというものを感じました。
「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎にはありける」
と西行はこの歌を詠みますが、そこに桜の精が現れ、「桜の咎とは何とぞ?」「桜はただ咲いているだけで咎はない。」と西行を諭し、桜の名所を教えます。
奥深いですが、確かにそうなんですよね・・・。人がどう思おうと桜はただ咲いているだけ・・・。哲学的ですよね。またこれは見てみたいです。そして、もう少し、この曲のことを深読みしたいですね。
この曲は世阿弥の作ですが、この時代も、今も、日本人の桜を愛でる気持ちというのは変わらないのだな・・・と思うのです。
シテ:関根祥人 ワキ:宝生欣也 間:善竹十郎
笛:一噌庸二 小鼓:亀井俊一 大鼓:柿原弘和 太鼓:金春国和
この日も、他に狂言、素謡、仕舞がありました。祥人さんももちろんですが祥六さんの謡も堪能した一日となりました。
さて、この日も帰り道は祥人さんファン仲間と一緒に「今日も素敵でしたね~」とお話ししながら渋谷駅へ。次は7月のお舞台に行こうかなと予定しています。関根家の『景清』は私にとって、とても思い入れのある曲なので・・・。
(4月28日、主な出演者を追記。)
③能「西行桜」(素囃子)
シテ(老桜の精) 野村 四郎
ワキ(西行上人) 宝生 閑
ワキツレ(花見人) 森 常好
ワキツレ(同行人) 舘田 善博・森 常太郎・御厨 誠吾、殿田 謙吉
アイ(能力) 山本 泰次郎
笛 寺井久八郎・小鼓 幸 清次郎・大鼓 國川 純・太鼓 三島元太郎
後見 鵜澤 郁雄 浅見真州
地謡 青木 健一 安藤 貴康 谷本健吾 長山 桂三
小早川 修 浅井文義 山本 順之 長山 禮三郎
置物の桜は、一見 葉が多すぎではと思ったのですが、これは京の西山に咲く桜を表現と納得です。普段の舞台では、口数の少ないワキの宝生師ですが、この曲ではシテほどに謡どころも多く、大切な役回りでした。
庵室に隠棲している西行は、思うところあって、西山の花見禁制を決め、能力に申しけ、一人心静かに花に向かいます。
「^^頃は弥生の空晴れて^^」と、桜を楽しみたい町衆は、西山に押しかけ「^^いかに誰かある^^」と案内を頼みます。
が、能力は、西行の申しつけ通り、断りを入れます。が、西行は花を愛でる人々の心を慮り、已む無く招き入れます。「^^花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎にはありける」(一人静かに楽しむには、大勢の民衆を引き寄せてしまう桜の魅惑そのものが、罪なのだ・・桜見物に名を借りた闖入者のどんちゃん騒ぎを思って下さい)と、喧騒が去った宵闇の花の下に臥し、一夜を楽しむまんと・・。(ここで、ワキツレ一行は、切戸口より退出)
静かな声が、「^^埋木の人知れぬ身と沈めども心の花は残りけるぞや^^」と、老木の桜の木の中から白髪の老人(夢中の翁・・面は皺尉)が現れます。そして、西行の歌の心を尋ね「心の花も惑うにて・・」と、無心の桜の罪ではなく、憂しと思うのは人の心に宿るものと、静かに諭します。
老翁は桜の精と名乗り、仏法の広い恵みを得たと喜びを、京の名高い桜を数えあげながら、それはそれは幽玄・枯淡な清雅な舞を示します。「風姿花伝」の「老人」に「この道の奥義なり。能の位、やがてよそ眼にあらはるる事なれば、これ、第一の大事なり。・・ことさら老人の舞がかり、無情の大事なり。花はありて年寄と見ゆるる公案、くわしくは習うべし。ただ老木に花の咲かんがごとし」と書き、具体化した老体の最高傑作なのです。(この項は、『銕仙-590』の解説を引用しました。)
この思いが強かったのでしょうか、出来映えもさることながら、「巴」を凌駕する風情を感じました。頃はまさに桜の季節ですが、移ろう世も「心の開眼」が大切とも・・。
翁は、このような夜遊びも名残惜しいと思えど、一刻を過ぎれば戻ることなく、西行のような友にも会い難いものと、さびさびと舞うのでした。春の夜は静かに明けゆき、花びらは夜風に雪を運んだように敷きつめ、いつしか夢も覚め、翁の姿は失せて行くのでした。
「定家」を観ました時、古くは「定家蔓」としていた曲名を「定家」へ改名していますが・・と。
でも「西行桜」を「西行」とはできない能のテーマの重みを、感じました!
野村師は、初めてでしたが、ますますの浅学を思い知った舞台となりました!!
銕仙会さんでも『西行桜』がかかったのですね。以前は銕仙会さんの舞台を良く拝見していましたが、最近ご無沙汰(見たいのはやまやまですが)なので、ありがとうございます。
やはり、能は知れば知るほど、深くなっていきます・・・。
まだまだ人間としても未熟な人間ですので、深く分からないことも多々あります。
また、いろいろな方で拝見してみたいですね。
私は、こういうお能を見るたびに、自分の浅学、無知さを恥じています・・・。
だからこそ、お能をもっと知りたいと思いますし、決して受身ではいけない芸能なのだと思います。
お能鑑賞もお稽古もマイペースですが、またお越しください。よろしくお願いします。