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さて、第6章では真理関数に関する話が延々と続きますが、ここは思い切って省略して紹介することにします。
と、いうのはトートーロジーと論理形式について数式による論理演算が繰り返されるため、これを詳細に紹介すると『ついて行け~ん!』とか『わからんちん。いっそのこと殺してください!』というコメントが殺到するのが眼に見えているからです。
で、サラッと流して結論だけ拾っていくことにします。
興味のある方は原典に当たって砕け散ることをお勧めします。
論理学の命題はトートロジーであると主張するヴィトゲンシュタインは次のように続けます。
6.1222 このことによって光が、次の問いに投げかけられる。論理学の命題を経験によって反駁することができないように、なぜ論理学の命題を経験によって説明することができないのか。論理学の命題は、どんな経験によっても反駁可能な必要がないだけではなく、経験のようなものによって証明可能であってもならないのだ。
前章で述べた『羊羹の中を食べながら穴を堀って進んでいる虫が羊羹の形を知ることができないように、羊羹の外に出ない限り羊羹の形は分からない』というくだりによっているワケです(その中では論理命題はト-トロジーになる)。
※M.C.エッシャー『メビウスの輪』・・・蟻にとっては無限に続く道である。
6.126 (前略)論理命題の証明とは、最初のト-トロジーからくり返しトートロジーを生み出す、ある種の演算を反復適用することによって、問題のその論理命題を成立させることである。(しかも、トートロジーから帰結するのはトートロジーにすぎないのだが)(後略)
6.1262 論理での証明は、トートロジーが複雑なとき、それがトートロジーであることをより簡単に見わけるための、機械的な補助手段にすぎない。
内部にいる限り論理構造は分からない・・・。では、その境界とはどう決まるのか?
第4章にその答えがありました。
4.6 私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。
※宇宙のイメージ図から引用
ここで主語が『私の』であることに注目です。決して『私たちの』ではないのです。
つまり『語彙の豊富なヒトの世界と語彙が乏しいヒトの世界は異なる』と言っているのです。
あるいは『複数の言語を習得しているヒトの世界とひとつの言語しか知らないヒトの世界は異なる』とも読めます。
境界の定義はきわめて個人的で、ヒトによって異なる、というワケです。
ヴィトゲンシュタインはソリブシズム(独我論)の立部に立っています。
ソリブシズムとは『この世界に実在するのは私一人で、ほかは全て私の意識内容にすぎない』という考え方です。
その世界(私の世界)の中では、
6.375 論理的な必然しか存在していないように、論理的な不可能しか存在していない。
6.5 口にすることができない答えにたいしては、その問いも口にすることができない。
謎は存在しない。
そもそも問うことができるなら、その問いには答えることもできる。
6.51 問うことができない場合に、疑おうとすることき、懐疑論は、反論不可能なのではなく、明らかにノンセンスなのである。
というのも、問いがある場合にしか、疑いは生まれることがないのだから、そして、なにかを言うことができる場合にしか、答えも問いも疑いも生まれることがないのだから。
それでは、境界の外は?ヴィトゲンシュタインも何かがあることは否定していません。
6.522 ただし、口に出せないものが存在している。それは、自分をしめす。それは、神秘である。
6.41 世界の意味は、世界の外側にあるにちがいない。世界では、全てが、あるようにしてあり、すべてが、起きるようにして起きる。世界のなかには価値は存在しない。---もしもかりに価値が存在しているのなら、その価値には価値がないだろう。
※M.C.エッシャー『写像球体を持つ手』・・・フェッセンデンのような存在はいるのか。
そして神や倫理は『超越論的である』として『世界の外側にあるにちがいない』と言うのです。
ここでヴィトゲンシュタインは倫理の例として『汝、・・・・・・為すべし』という言葉を使っているので、倫理についてカントの影響を受けているようです(カントによれば、こうした啓示は『天空の彼方から降ってくる』らしいのです)。
次回はとうとう最終章です!怒涛の結論に(つづく)←さあ、この文字列をポチって最終章へGo!