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実は第7章はたった一行しかありません(あの有名な文言です!)。
これではスグ終わってしまいますので、まずは、これまで読んできた全体を概括してみることにします。
これまでの成果を記してみましょう。研修や打合せの後にサマリーをするのはビジネスの基本ですからネ。
第1章:世界は、事実の総体である。事物の総体ではない。
・・・モノではなくセンテンスの総体こそが世界を表すのである。
第2章:私たちは事実の像をつくる。
・・・世界を理解をするにはその写像が必要である。
第3章:可能的世界の写像が論理空間である。
・・・世界は事実から成り、論理空間は命題から成る。
第4章:すべての哲学は言語批判である。
・・・哲学とは、考えることができるものとできないものの境界を明らかにする活動である。
第5章:命題は、要素命題の真理関数である。
・・・見かけの文法構造ではなく、真の論理形式を明らかにすることが哲学の目的である。
第6章:論理空間において、謎は存在しない。
・・・そもそも問うことができるなら、その問いには答えることもできる。
第7章:語ることができないことについては、沈黙するしかない。
・・・神や倫理に代表される世界の価値は、論理空間の外側にあるに違いない。
最後(第7章)の文言はこれまで、もっと強い口調で語られてきました。
一般的には『語りえないものについては沈黙すべきである』として広まっています。
この本では『べき』すなわち命令と取られる表現をすると『え?あえて語ろうとすれば語れるのか?』と思われかねないので、この表現に落ち着いたと『訳者あとがき』にあります(なるほど)。
ただし『べし』には本来、命令以外の意味もあります。大藪春彦の小説『野獣死すべし』は運命を表す『べし』なので、この意味は『野獣は死ななければならない』と読むのは誤りで、正しくは『野獣は死ぬ運命にある』という意味の題名なのです。スイマセン⤵これは全くの余談でしたね。
論理哲学論考の内容は『①世界を語りうるものとして定義し、②その境界を明らかにして、③語りえないものをしめす』活動でした。
※ "Remember him when you look at the night sky."(←マッドマックスより/註:本文とは無関係です)
ここで行われたのは単純化と分類です。人間の認識とはそうして広がるものなのです。
それにしても哲学は『この世界はいったいどのような姿をしているのか』を問う学問だったはずなのですが、自然科学の発達によってその役割は数学や天文学、素粒子理論等にその立場を譲ってしまったように思えます。
ヴィトゲンシュタイン以降、哲学は言語や記号の袋小路に入ってしまったように思えてなりません。
哲学は、いま一度本来の目標にたち帰る必要があるのではないでしょうか。
ヴィトゲンシュタインは自らの論文の最後に次のように記しています。これは未来への希望を表しています。
6.522 ただし、口に出せないものが存在している。それは、自分をしめす。それは、神秘である。
6.53 哲学の正しい方法があるとすれば、実際それは、言うことのできること以外、なにひとつ言わないことではないか。つまり、自然科学の命題―――つまり、哲学とは関係ないこと―――しか言わず、そして、誰かが形而上学的なことを言おうとしたら、かならずその人に、「あなたは、あなたの命題のいくつかの記号に意味をあたえてませんね」と教えるのだ。この方法は、その人を満足させないかもしれない。―――その人は、哲学を教えてもらった気がしないかもしれない。―――けれども、これこそが、ただひとつ厳密に正しい方法ではないだろうか。
6.54 私の文章は、つぎのような仕掛けで説明をしている。私がここで書いていることを理解する人は、私の文章を通り―――私の文章に乗り―――私の文章を越えて上がってしまってから、最後に、私の文章がノンセンスであることに気づくのである。(いわば、ハシゴを上ってしまったら、そのハシゴを投げ捨てるにちがいない)。
その人は、これらの文章を克服するにちがいない。そうすれば世界を正しく見ることになる。
※ケンブリッジ郊外「旧セント・ジャイルズ墓地」に眠るヴィトゲンシュタイン
(完)