ケンペル「江戸参府旅行日記」 訳者・斎藤信 東洋文庫 昭和52年発行
第8章 小倉から大坂までの旅
1691年(元禄4)2月
(早朝白石島を出港した )
(白石島の南、北木島から水島灘を見る)
(寄島三郎島から塩飽諸島を望む)
(三百山から見る水島灘 )
(下津井港 )
2月22日
われわれは夜明けとともに錨を上げ、たくさんの島が浮かぶ広い海を過ぎ、船を7里進めて下津井という小さな町に着いた。
この町は本州の備中国にあり、普通の石を積み上げた海岸で、岩の多い山の麓にある。
その山の上には松の木がきちんと列をなして並び、みごとであった。
下津井の町には400~500の人家があり、三つの地区に分かれていて、各地区には一人の与力が支配している。
向かって右手には石造りの塩飽の城があり、その傍らに小さな村がある。
(下津井 )
ここから遠くない航路の真ん中に、人目を引くピラミッド形の島(大槌島)が見えた。
(大槌島 )
すでに大分前から下津井あたりで東の方に見えていた島である
さて航路は狭くなり、左手の備前の海岸には南向きになっている大きな港湾が口を開いていた。
港の両側には日比という村があった。
(日比から見る瀬戸内海 )
(豊島(てしま)と瀬戸内海)
(豊島と本土側の瀬戸内海)
(玉野市田井沖の瀬戸内海)
(玉野市田井沖の瀬戸内海)
(前方に犬島が見える)
8里進むと、ちょうど北側に牛窓という美しい町が目に入ったが、
その一地区には防備の施設ができていた。
(牛窓)
(日生沖)
それからさらに7里行くと、
白壁と隅櫓のある立派な赤穂城と、その背後にある町が目に入った。
この町の海は、錨を下すには、見たところ沼のようで、具合の悪い海底であった。
赤穂は浅野内匠頭という小さな大名の城下で、その収入はわずか5万石に過ぎない。
(赤穂城)
(ケンペルから13年後、浅野内匠頭は切腹した)
ここから3里進み、順風を受けて今日27里の航海を終え、
われわれは午後5時に、町の前方にある有名で大きな室の港に夜の休憩をとるために入港し、港内の岸から約20歩ほど離れた所に停泊している100艘以上の船の間にわれわれの船をとめた。
(万葉の岬、室津は近い)
(室津)
港はたいして広いわけではないが、四方とも暴風や波浪から守られていて安全である。
しかし室の町は、播磨国から出る岩石を積み上げた円形の海岸沿いのたいへん快適な高台にある。
岸に沿って長く狭い道が続き、また周囲の山に通じる数の少ない裏道と横町があり、みなで600戸の家がある。
一人の奉行がここを支配している。
住民の大部分は酒の醸造者や旅館・料理屋の主人、雑貨商で、多数の船員のおかげで豊かな暮らしを立てている。
工芸品が目につくが、それは馬皮をロシア風に作って、漆をかけたもの。
町の経費で一軒の遊郭を経営している。
(室津)
われわれの目を一番楽しませてくれたのは、頂上までいわば階段状に耕やされた周囲の山々と、密生して一面に茂る高い樹木のある二つの遊歩林である。
先に述べたように半島が港の入口に連なっている。
地面からかなり高く築かれた円堡や見張所と、侍と番士が住む居心地よい住居があった。
港の出入り口に面して建っている砦には、防御施設のある番所があった。
番士がそこにいるのを見たわけでない。
ただ10本の槍や5本の薙刀が突き出てきちんと並んでいるので
それがわかったのである
同行者と一緒に直ちに町に出かけたとき、長い横町を通って客がいっぱいいる浴場に案内された。
そこには酒や軽い食べ物があった。
われわれは蒸風呂で体を洗い、ちょっと一杯やって元気をとりもどし船に帰ったが、
道の両側に外国人であるわれわれを見ようと人々がいっぱいいるのを見かけた。
しかし彼らは敬意を表してうずくまり、少しの騒音も立てなかった。
(室津)
第8章 小倉から大坂までの旅
1691年(元禄4)2月
(早朝白石島を出港した )
(白石島の南、北木島から水島灘を見る)
(寄島三郎島から塩飽諸島を望む)
(三百山から見る水島灘 )
(下津井港 )
2月22日
われわれは夜明けとともに錨を上げ、たくさんの島が浮かぶ広い海を過ぎ、船を7里進めて下津井という小さな町に着いた。
この町は本州の備中国にあり、普通の石を積み上げた海岸で、岩の多い山の麓にある。
その山の上には松の木がきちんと列をなして並び、みごとであった。
下津井の町には400~500の人家があり、三つの地区に分かれていて、各地区には一人の与力が支配している。
向かって右手には石造りの塩飽の城があり、その傍らに小さな村がある。
(下津井 )
ここから遠くない航路の真ん中に、人目を引くピラミッド形の島(大槌島)が見えた。
(大槌島 )
すでに大分前から下津井あたりで東の方に見えていた島である
さて航路は狭くなり、左手の備前の海岸には南向きになっている大きな港湾が口を開いていた。
港の両側には日比という村があった。
(日比から見る瀬戸内海 )
(豊島(てしま)と瀬戸内海)
(豊島と本土側の瀬戸内海)
(玉野市田井沖の瀬戸内海)
(玉野市田井沖の瀬戸内海)
(前方に犬島が見える)
8里進むと、ちょうど北側に牛窓という美しい町が目に入ったが、
その一地区には防備の施設ができていた。
(牛窓)
(日生沖)
それからさらに7里行くと、
白壁と隅櫓のある立派な赤穂城と、その背後にある町が目に入った。
この町の海は、錨を下すには、見たところ沼のようで、具合の悪い海底であった。
赤穂は浅野内匠頭という小さな大名の城下で、その収入はわずか5万石に過ぎない。
(赤穂城)
(ケンペルから13年後、浅野内匠頭は切腹した)
ここから3里進み、順風を受けて今日27里の航海を終え、
われわれは午後5時に、町の前方にある有名で大きな室の港に夜の休憩をとるために入港し、港内の岸から約20歩ほど離れた所に停泊している100艘以上の船の間にわれわれの船をとめた。
(万葉の岬、室津は近い)
(室津)
港はたいして広いわけではないが、四方とも暴風や波浪から守られていて安全である。
しかし室の町は、播磨国から出る岩石を積み上げた円形の海岸沿いのたいへん快適な高台にある。
岸に沿って長く狭い道が続き、また周囲の山に通じる数の少ない裏道と横町があり、みなで600戸の家がある。
一人の奉行がここを支配している。
住民の大部分は酒の醸造者や旅館・料理屋の主人、雑貨商で、多数の船員のおかげで豊かな暮らしを立てている。
工芸品が目につくが、それは馬皮をロシア風に作って、漆をかけたもの。
町の経費で一軒の遊郭を経営している。
(室津)
われわれの目を一番楽しませてくれたのは、頂上までいわば階段状に耕やされた周囲の山々と、密生して一面に茂る高い樹木のある二つの遊歩林である。
先に述べたように半島が港の入口に連なっている。
地面からかなり高く築かれた円堡や見張所と、侍と番士が住む居心地よい住居があった。
港の出入り口に面して建っている砦には、防御施設のある番所があった。
番士がそこにいるのを見たわけでない。
ただ10本の槍や5本の薙刀が突き出てきちんと並んでいるので
それがわかったのである
同行者と一緒に直ちに町に出かけたとき、長い横町を通って客がいっぱいいる浴場に案内された。
そこには酒や軽い食べ物があった。
われわれは蒸風呂で体を洗い、ちょっと一杯やって元気をとりもどし船に帰ったが、
道の両側に外国人であるわれわれを見ようと人々がいっぱいいるのを見かけた。
しかし彼らは敬意を表してうずくまり、少しの騒音も立てなかった。
(室津)