しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ケンペル「江戸参府旅行日記」白石島~下津井~室津

2021年09月15日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」 訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第8章 小倉から大坂までの旅
1691年(元禄4)2月



(早朝白石島を出港した )




(白石島の南、北木島から水島灘を見る)




(寄島三郎島から塩飽諸島を望む)




(三百山から見る水島灘 )




(下津井港 )






2月22日

われわれは夜明けとともに錨を上げ、たくさんの島が浮かぶ広い海を過ぎ、船を7里進めて下津井という小さな町に着いた。
この町は本州の備中国にあり、普通の石を積み上げた海岸で、岩の多い山の麓にある。
その山の上には松の木がきちんと列をなして並び、みごとであった。
下津井の町には400~500の人家があり、三つの地区に分かれていて、各地区には一人の与力が支配している。
向かって右手には石造りの塩飽の城があり、その傍らに小さな村がある。



(下津井 )







ここから遠くない航路の真ん中に、人目を引くピラミッド形の島(大槌島)が見えた。


(大槌島 )

すでに大分前から下津井あたりで東の方に見えていた島である





さて航路は狭くなり、左手の備前の海岸には南向きになっている大きな港湾が口を開いていた。
港の両側には日比という村があった。


(日比から見る瀬戸内海 )






(豊島(てしま)と瀬戸内海)




(豊島と本土側の瀬戸内海)





(玉野市田井沖の瀬戸内海)





(玉野市田井沖の瀬戸内海)





(前方に犬島が見える)





8里進むと、ちょうど北側に牛窓という美しい町が目に入ったが、
その一地区には防備の施設ができていた。


(牛窓)



(日生沖)






それからさらに7里行くと、
白壁と隅櫓のある立派な赤穂城と、その背後にある町が目に入った。
この町の海は、錨を下すには、見たところ沼のようで、具合の悪い海底であった。
赤穂は浅野内匠頭という小さな大名の城下で、その収入はわずか5万石に過ぎない。


(赤穂城)


(ケンペルから13年後、浅野内匠頭は切腹した)






ここから3里進み、順風を受けて今日27里の航海を終え、
われわれは午後5時に、町の前方にある有名で大きな室の港に夜の休憩をとるために入港し、港内の岸から約20歩ほど離れた所に停泊している100艘以上の船の間にわれわれの船をとめた。


(万葉の岬、室津は近い)



(室津)



港はたいして広いわけではないが、四方とも暴風や波浪から守られていて安全である。
しかし室の町は、播磨国から出る岩石を積み上げた円形の海岸沿いのたいへん快適な高台にある。
岸に沿って長く狭い道が続き、また周囲の山に通じる数の少ない裏道と横町があり、みなで600戸の家がある。
一人の奉行がここを支配している。

住民の大部分は酒の醸造者や旅館・料理屋の主人、雑貨商で、多数の船員のおかげで豊かな暮らしを立てている。
工芸品が目につくが、それは馬皮をロシア風に作って、漆をかけたもの。
町の経費で一軒の遊郭を経営している。



(室津)



われわれの目を一番楽しませてくれたのは、頂上までいわば階段状に耕やされた周囲の山々と、密生して一面に茂る高い樹木のある二つの遊歩林である。
先に述べたように半島が港の入口に連なっている。
地面からかなり高く築かれた円堡や見張所と、侍と番士が住む居心地よい住居があった。
港の出入り口に面して建っている砦には、防御施設のある番所があった。
番士がそこにいるのを見たわけでない。
ただ10本の槍や5本の薙刀が突き出てきちんと並んでいるので
それがわかったのである

同行者と一緒に直ちに町に出かけたとき、長い横町を通って客がいっぱいいる浴場に案内された。
そこには酒や軽い食べ物があった。
われわれは蒸風呂で体を洗い、ちょっと一杯やって元気をとりもどし船に帰ったが、
道の両側に外国人であるわれわれを見ようと人々がいっぱいいるのを見かけた。
しかし彼らは敬意を表してうずくまり、少しの騒音も立てなかった。




(室津)




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ケンペル「江戸参府旅行日記」津和地島~御手洗~来島~岩城島~弓削島~鞆~白石島

2021年09月15日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」 訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第8章 小倉から大坂までの旅
1691年(元禄4)2月




2月20日

早朝、静かな天気に恵まれ岸を離れた。
すぐに山の頂上まで耕かされたおよそ40戸からなる沖の家室村に着いた。
しかし昼食の頃には左手にある津和地島に行った。


(津和地島 2015.9.25  愛媛県温泉郡)


(津和地島 2015.9.25  愛媛県温泉郡)



(津和地島 2015.9.25  愛媛県温泉郡)



その島の東南に向かって開けた円形の海岸に沿って約200戸の家の立ち並ぶ入江は、船頭たちにとって安全な港として役立っている。
その背後にある山は、頂上まで階段状に耕かされた畑になっている。



われわれはここから、穏やかな冷風に吹かれて、二つの山の間を安芸国の沿岸にある蒲刈の村まで進み、


(下蒲刈島・三之瀬 2009.2.12  広島県呉市)




そこからさらに数里先の、有名な御手洗の港に着き、
たくさんの他の船と共に暗夜な海に錨を下ろした。



(王長港 広島県大崎下島 2007.7.28)


(御手洗 広島県大崎下島 2007.7.28)


(御手洗 広島県大崎下島 2007.7.28)


今日の航海は全部で18海里になった。

われわれは昨日と同じように、航海中さくさんの帆船を見たし、
荒れ果てて作物のない多くの不毛の島や禿山を見た。
右手には4里を隔てて伊予国があり、右手には安芸国が見えたが、
どちらの国にも雪をいただいた高い山脈が連なっていた。






2月21日

日の出一時間前に、穏やかな天候に恵まれてわれわれは御手洗を離れた。
2里進と、四国の一番はずれの一角に広島藩主(毛利の間違いか)の粗末な館のある来島がわれわれの前に現われた。
その辺にある9の島と共に彼の支配下にあった。


(来島海峡)


(来島城)



さらに2.3里行くと幾つかの高い櫓のある美しく立派な城と今治の町が見えてきた。


(今治城 2018.10.18)


城主松平の城下町で、彼は紀州侯の子息で、ここから5里行くと狭い海峡がある。左手の海岸に鼻繰村というのがあり、
われわれは、そこで新しい水を補給するために、約1時間停泊していたが、
その間にもたくさんの帆かけ船が通り過ぎていった。






(鼻栗の瀬戸 2011.1.14  愛媛県今治市)

鼻繰村は戸数60で、鼻の穴のことを意味し、その地形からこの名がある。
塚のように藁を積み上げた9の小屋があって、その中で海水から塩を作っていた。
そこから遠くない所の海岸には漁村があった。





2~3里進むと、左手にある約80戸の岩城村に着いた。
この辺りでは至る所、陸地に海が入り込んでいるので、この村が本土の海岸にあるのかどうか、私は明言できない。


(岩城島積善山 2007.4.   愛媛県越智郡)





さらに通過した西側には、たくさんの港や村落があった。
塩谷というのはその中の一つの村で、われわれの航路の右手の島にあり、
約100戸の家があるのが見えた。そこではたくさんの塩がつくられ、こうした名がついたわけである。

そこから、あまり遠くない所に弓削村があり、そこの住民は豊かな農村で、その中に一軒の立派な邸宅があった。


(弓削島 2010.10.4.29 愛媛県越智郡) 


(弓削島 2010.10.4.29 愛媛県越智郡) 






さらに船旅を続けていくうち、風向きが変わって、われわれには大変好都合になった。
右舷には、広い備後灘がひらけ、四国島の伊予と讃岐の間には、海が非常に深く入り込んでいたので、四国の海岸は見極めることができなかった。
間もなく航路からそれほど遠くない左手の、備後の国のゆるやかにのぼる山地を背にした海浜に、有名な鞆の港と町があった。
それゆえ、同じ名前の他の場所と区別するために備後の鞆と呼ばれている。


(鞆の浦 2007.2.12 広島県福山市)


(鞆の浦 2010.3.30 広島県福山市)



湾曲した入江に沿った長い通りには、みすぼらしくはない数百の家があり、
遊郭と二つの美しい寺院がある。


(鞆の浦 2012.9.4 広島県福山市)


ここでは床に敷く大変上質の畳表を産出し、他国に送り出している。


(鞆の浦・観光鯛網 2014.5.9 広島県福山市)



この町の後ろの斜面には、清楚な尼寺があり、そこから1/4ドイツマイル行くと、
仏を安置した有名な阿伏兎観音堂があり、


(阿伏兎観音 2012.5.24 広島県福山市)



人々はいろいろな病気を治し、しかも特に船乗りに順風を恵むすぐれた力を、この仏のご利益だと思っている。
それゆえ船乗りや旅客は何枚かの小銭を小さな板の上にしっかりとくくりつけて海中に投げ、
彼らがそう呼んでいる阿伏兎観音様に、よい風が吹くようにお供え物を贈るのである。
こうしたお供え物は、その都度岸に流れ着いて、彼らの願いがかなうのである。
とはいっても、堂主はそれをもっと確実にするために、風の静かな時に、航行している船のそばに自分の小舟で出かけて行って、観音様のために銭の寄進を頼むのが普通である。








われわれは順風に送られて7里進み、航路右手の海岸にある白石という小さな村に着き、
これから先の航海でも二度と期待しえない都合の良い投錨地を選び、日没の1時間前に錨を下ろした。



(白石島 2008.6.14  岡山県笠岡市)


(白石島 20016.8.11  岡山県笠岡市)



この村にはおよそ50戸の家がある。
この小さな島には北に向って開いている細長い港があり、その近くに開墾された心地よい谷が、この港特有の地形をなしている。
村に続いている山の高みの洞窟には弘法大師が祀ってある。


(白石島 弘法山開龍寺)


われわれの船の他に、ここにはなお1艘の船が停泊し、それらはわれわれにならい、横揺れを防ぐためにマストを倒した。
われわれは今日、南の順風を受けて、東から北、北から東へと向きを変えて18里航海したのである。





(白石島  2012.9.4  岡山県笠岡市)


(白石島海水浴場  2018.7.22  岡山県笠岡市)





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ケンペル「江戸参府旅行日記」小倉~下関~下家室

2021年09月15日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」 訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第8章 小倉から大坂までの旅
1691年(元禄4)2月



われわれは旅館で1時間半ほど足を留め、日本食をとり、
すっかり元気を回復して再び小倉を発った。
二人の重臣は、2艘の小舟が持っている海岸まで送ってきた。
1.000人以上の一般の見物人で埋まり、行列の両端にでひざまずき、
たいへん静かに座っていた。
そして見物人のうち誰一人立ち上がろうとする者もなく、また、わざと音をたてたりする者もなかった。
われわれは九州島を後にした.



(九州から見る本州 2015.2.20)





私が乗った舟は、正しい航路をはずれ、しばしば浅瀬に乗り上げたので、もう一方の舟より2時間も遅れ、したがって5時間を費やした。
海上3里を下関に渡った。





(本州から見る九州 2015.2.20)



そこにはわれわれが乗る大きな船が5日前に到着していた。
その船でさらに海上を大坂まで旅をつづける為である。

下関の町は山岳地帯の麓の有名な港に近接していて、長門の国にあり、日本島の西端にあり、日本島は52の国から成り、二つの大きな街道が縦貫している。
一つの街道は江戸から奥州という最果ての地まで延び40里以上になる。
もう一つは、下関から大坂・京都を経て南の海岸線に沿って江戸まで延びている。大坂まではたくさん山があるため海路を行くことが多い。

下関は400~500戸の町で、非常に長い通りと、横丁や裏通りに家が建っている。
ここにたくさんの雑貨店があり、毎日東や西から着いた船乗りが種々の必要品と食料品を買うことができる。
港に停泊している船は200艘ほどであった。
また、ここには石を美術的に加工する者がいて、近所の山地から灰色や黒色の石を切り出して、硯や小箱などを作る腕をもっていた。




2月18日

逆風のため出港できなかった。
2人の町役人に案内され有名な阿弥陀寺を見物し、面白かった。



(赤間神宮 2009.12.13)


一人の若い僧がわれわれを出迎え、広間に連れていった。
そこには中央には銀色の織物の敷物が敷いてあった。
檀の上には水死した皇子の像が置いてあった。
この像に対して日本人は頭を地面にすりつけて拝む。
僧侶は燈明に火をともし、金張りの襖に描かれた皇室の一族の人々の、
その悲しい物語を全部話してくれた。
われわれはこの寺院に敬意を表し、1分金を喜捨してからここを去り、宿舎に戻った。
日本風の食事をとり酒を飲んで、入浴して、夕方船に戻った。





2月19日
早朝、大坂に向け海上旅行の途についた。
最初の旅程は長い距離で、西風が続けて吹かなければ、出港するすることができなのであって、そのうえ途中には向(むこう)と下松の以外に港がない。


夜間停泊するためにいろいろな港があるし、また風の為に航路が左右される。
数人の船頭は私に次のような里程を示した。

下関から上関の島・港と村まで・・・35里、
そこから蒲刈と村まで・・・20里、
そこから鞆まで・・・18里、
室の港まで・・・20里、
兵庫まで・・・18里、
そこから大坂まで・・・13里で、計134里となる。

しかしほかの里程では、
下関から上関まで・・・35里、
家室まで・・・7里、
御手洗まで・・・18里、
鼻繰(はなぐり)まで・・・5里、
鞆まで・・・10里、
白石まで・・・3里、
下津井・・・7里、
牛窓・・・10里、
室・・・10里、
明石・・・13里、
兵庫・・・5里、
そして最後に大坂まで13里で、合計すると136里。
上述の地点はすべて安心して停泊することができる。


下関を出港すると、数え切れぬ島がある。
真のうちには山の頂まで耕されているものもあるが、また全く耕作されず、無人のものもある。
私は磁石の偏角が東に向かって5度あることに気が付いた。
日本の本土は航行中つねにわれわれの左手の、一ないし二・三里の所にある。
四国島は右手にある。

祝島があらわれ、笠戸山ががすぐ近くに見えた。


(笠戸島 2014.7.12)


(大津島 2014.7.12)




左手の本土に室津の町があり、右手には上関の村がある。
室津も上関も各80戸ので、上関は同じ名前の上関島にある。
両方とも長門国に属し、港の前の岩礁には木造の灯台があり、船頭たちは夜間それを目標にしている。




(周防大島 2013.4.25)




われわれは上関から順調に7里進み、地の家室すなわち下の家室に着いた。
われわれは今日西風が吹き続いたので42里を航海して、暗くなった夜の7時半にたくさんの他の船と並んで岸の近くに錨を下ろした。
ここには約100戸の農家と、数は少ないが立派な家が建っている。
錨を下ろすには好都合のよい港なので、海上航行者の間では大変よく知られている。




(周防大島 2013.4.25)


(周防大島 2013.4.25)


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ケンペル「江戸参府旅行日記」長崎~佐賀~小倉

2021年09月15日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」第七章 長崎から小倉まで、陸上の旅




(長崎市出島 2012.5.9)



第七章 長崎から小倉まで、陸上の旅
1691年(元禄4)2月13日出発





(長崎市出島 2012.5.9)




2月10日
公使は二人の町奉行にいとまごいを乞う。


(長崎市出島 2012.5.9)







2月13日
二人の奉行は盛装して出島のわが商館を訪問した。
饗応のあと、島の外まで連れていかれ、別れを告げて出発した。
大村湾に着き昼食。
大村侯の家老に会った。主君の名において、無償であらゆる援助を惜しまずと、遊船を提供した。


(大村湾)







2月14日
夜明けと共に出発した。
俵山の麓を回ると、大村領から小さな嬉野領に入った。
藩主は寛大で100名の人員を要求したのに対して、200名の差し出して、いっそう満足させた。
湯治場があり、湯には匂いも味もなかった。
嬉野から2時間、塩田村に着き、昼食を取った。
この土地では一種の壷が焼かれ作られている。


(佐賀県嬉野市塩田津 2014.1.11)









(佐賀城 2014.1.11)


2月15日
肥前の城下町佐賀を通り、一日中気持ち良い旅をつづけた。
丘のうえには二羽のコウノトリがとまっていたが、ヨーロッパのものより小さかった。





(久留米市筑後川 2016.2.14)


(久留米城 2016.2.14)


右手に、1里離れた白壁の久留米城が見えた。




2月16日
鳥栖を通り山家に着いた。そこで1時間の昼休みをとった。
夕方には飯塚に着き、そこで泊った。
飯塚の町は200~300戸から成り、小舟がたくさん並ぶ向こうにある。
この川を他の人たちは負われて越えたが、私は許しを得て細長い橋を渡った。


(飯塚市 2017.2.14)



(直方市 2017.2.14)


(直方市 2017.2.14) 




2月17日
夜明け前に、松明をかざして出発した。
途中には炭鉱があり、それを人々はたいへん珍しいものだとして、われわれに見せた。

小倉藩の家臣の案内で小倉の町に向かった。
宿舎はたいへん心地よい場所にあり、設備もよかった。
小倉は以前には人口も多く栄えていたが、豊前の国が多くの大名に分割されて以来、今日では貧しく格下げの状態である。
この小国の収入は15万石である。




(小倉城 2013.2.13)





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広島駅前の路面電車

2021年09月15日 | 無くなったもの
場所・広島県広島市中区
場所移動・2022年~2025年(現地点から駅ビル2Fへ移動)
撮影日時・2016年11月3日





広島駅は、ここ10~20年来、新幹線口方面の整備・開発が進んでいたが
2020年からは、駅ビル・駅前の工事が始まった。

新しい駅ビルは、ホテルや映画館もあるが、路面電車も2階へ入居する。
路面電車が地上から無くなるので、駅前広場はずいぶんすっきりする。






完成は2025年2月の予定だが、
広島駅と駅前と新幹線口が充実して、紙屋町や八丁堀まで行かなくてもよくなる?
ような気もする。






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岡山駅前の噴水

2021年09月15日 | 無くなったもの
場所・ 岡山県岡山市北区駅前町
無くなった日・2021年(撤去工事中)
撮影日・2016年4月5日



岡山駅前の噴水が無くなる。




路面電車が、ようやく駅前に出来る。
現在の広場を拡張する訳でないので、そのぶん、今あるものが取り除かれたり、移動する。

噴水は1975年以来、市民や旅人に親しまれてきたので、いくらか心残りもあるが仕方がない。
路線延長した新駅は2022年度中に完成予定。

岡山市の路面電車はいつも広島市の一周遅れ。
広島市は駅舎(2F)の中へ線路が入る、その工事中。


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