しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ケンペル「江戸参府旅行日記」宮~岡崎~浜松

2021年09月18日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」 訳者・斎藤信   東洋文庫  昭和52年発行
第10章 京都から浜松までの旅
1691年(元禄4)3月



3月6日

夜明けと共に宮を立ち、陸路を7里先の岡崎まで行って、そこで昼食をとった。
通り過ぎた村々は、
一・笠寺
二・鳴海


(桶狭間合戦場跡)


三・有松



(東海道五十三次40・鳴海宿)


(有松)




四・今川
五・池鯉鮒(今日は知立と書く)


(東海道五十三次39・知立宿)





岡崎は立派な町で、町には1500の家があり、大部分は立派であった。
城は丘のうえにあり、西南には天守閣が堂々と聳え立っていた。


(岡崎公園)



矢作川が流れ、川幅は広く水量は多いが浅くて舟は通れない。


(岡崎公園)


(東海道五十三次38・岡崎宿)






(東海道五十三次37・藤川宿)



午後からは赤坂までの道を進んだ。
赤坂は立派な家が立ち並び、きれいな宿屋のある町筋から成っている。




(東海道五十三次36・赤坂宿)





(赤坂宿の大橋屋)


家の中にめかした娼婦がかなりいるのに出会った。
旅館にはそういう女が大変多くいて、客をとらねばいけないのである。
けれども料理旅館では給仕女は幾らかは態度がよいという。



(赤坂宿の尾崎屋)






3月7日

痛風の通詞のため、八時半にようやく出発することができた。
7里先の新居で昼食を取り、4里先の浜松で泊った。

御油は約300戸、


(御油の松並木)



(東海道五十三次35・御油宿)





国府は約150戸、

下地は100戸、

吉田に入った。



(吉田城)


約1.000戸ほどの粗末な家があり、貧しい人たちが住んでいる。
町の東北側に城があり、三方は堀と土塁で防備され、一方は流れる豊川で守られている。
ここから5里の新居までは、大きな町も村もなかったが、世界中で非常に美しい山、
富士山が初めて見えた。


(東海道五十三次34・吉田宿)





(東海道五十三次33・二川宿)



(東海道五十三次32・白須賀宿)










(新居関所)



新居は、すべての旅行者、
とりわけ大名の荷物が、幕府から任命された役人によって検査される。
大名の夫人が夫人がそっと通り抜けたり、銃や武器の類が密かに運ばれるのを防ぐためである。
夫人についていうと、将軍の人質として留めておかなければならない。



(東海道五十三次31・新居宿)



われわれの荷物は別に開きもせず、ちょっと見ただけであった。
検査が終わってから、役人は丁重にあれわれを迎え、将軍家の遊船で対岸の舞阪の村に着いた。




(浜名湖を通過する東海道本線・東海道新幹線)






(東海道五十三次30・舞阪宿)


(舞阪)



(舞阪の松並木)






舞阪で新しい馬に乗り、夕方遅く浜松に着いた。


(東海道五十三次29・浜松宿)



(現在の東海道・浜松本陣跡ふきん)



浜松は数百の粗末な家がある町で、道路は整っていた。
町の中央の北側には、城壁に囲まれた城が見える。




(浜松城)



(浜松の中田島砂丘)





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ケンペル「江戸参府旅行日記」土山~四日市~宮

2021年09月18日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」 訳者・斎藤信   東洋文庫  昭和52年発行
第10章 京都から浜松までの旅
1691年(元禄4)3月





3月4日


(鈴鹿峠)




(東海道五十三次48・坂下宿)


駕籠に乗って険しい鈴鹿山地を越え、坂下村まで担がわれて行った。
坂下村は約100戸で旅館がたくさんあり、伊勢の国の最初の村。








(関)


(東海道五十三次47・関宿)







亀山に着いた。
城壁と櫓のある、かなり堅固な城が聳え立っていた。



(東海道五十三次46・亀山宿)






一里ほど進み、庄野という村の手前の森の茶屋で俄雨に襲われた。


(東海道五十三次45・庄野宿)





(東海道五十三次44・石薬師宿)








四日市の手前で、将軍の使者・吉良上野介が通りすぎるのに出会った。



(東海道五十三次43・四日市宿)

四日市は1.000戸以上もある、かなり大きな町である。
住民たちは旅館業と漁業で暮らしを立てている。


巡礼者たちのうちには、旅人の慰みの相手になる比丘尼がいた。
彼女たちからは貧乏とか厚顔とか、何一つ認めることはできなかった。
容姿そのものから言っても美しい女性であった。




3月5日

日の出に四日市を発ち、11時に桑名に着いた。
ハマグリという貝を焼いているのを見た、村人はそれを通行人に食べてもろうと売っていた。
桑名は別々の三つの村から成っていて通り抜けるのに45分かかった。

水中に松平越中守の居城が高くそびえていて、銃眼のあいた城壁は美しい屋根で覆われ、櫓が近い間隔で建てられている。
城の中央には白い天守閣が高くそびえ、見るからに立派である。


(東海道五十三次42・桑名宿)






昼食を済ませ、正午には雨があがったので七里半の海を渡って宮の町に行くために、馬や荷物といっしょに4艘の船に乗り込んだ。

佐屋川が港に流れ込み、もっと小さい舟に乗り換え、荷物といっしょに渡してもらわねばならなかった。
まだ早い日暮れの2時間前に宮の町に着いた。




(七里の渡し)


宮の町は御殿があり、将軍や大名の宿舎に使われる。

この町から二里で名古屋の町に達する。
それは国中で最も強大な城のうち、第三位だと言われている。
彼の参府旅行は2.000を超える供揃いで、一部は必需品であるがその他は行列の飾りであった。



(名古屋城)





われわれは町の中で4年前に建てられた小さな熱田の社に出かけた。



(熱田宮)


(東海道五十三次41・宮宿)





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ケンペル「江戸参府旅行日記」京都~大津~土山

2021年09月18日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」 訳者・斎藤信   東洋文庫  昭和52年発行
第10章 京都から浜松までの旅
1691年(元禄4)3月



3月2日

駕籠に乗って京都を離れた。


(「秋は紅葉の永観堂」から京都市内を望む)




(東海道五十三次・京都)



宿の主人は、京都から1時間ほどの所にある料亭にわれわれを招き、
酒や肴をだしてもてなしたが、肴はみな冷たい料理であった。



(京都山科)







大津の町には、日暮れの1時間前に宿舎に着いた。

大津は近江国の第一の都市で、家々の中には立派な旅館が何軒があり、
浮気相手の婦人に欠くことはない。


(大津)


(大津)


(東海道五十三次53・大津)




3月3日


日の出少し前に宿舎を発った。



(膳所城)


膳所の城下町から半里、瀬田の村に着いた。
湖から淀川が流れているが、この辺では横田川という。
真鍮の擬宝珠がついた欄干があり、一つの小さい島で続いていて、全国に知れ渡っている。
瀬田の橋と呼ばれている。




(瀬田の唐橋)





一里半で草津という町に着いた。
500戸あまりの戸数があり、街道沿いに建てられていた。


(東海道五十三次52・草津)





(東海道五十三次51・石部)



(東海道五十三次50・水口)





土山に夕方に着いた。
われわれは今日、非常に多くの男女に出合った。
大抵は歩いていたが時には、馬に2~3人も乗っていた。
またいろいろな乞食もいた。
これらの人はみな伊勢参りや、そこから帰ってくる人たちである。
彼らは、しつこく旅費をせがんだ。



(東海道五十三次49・土山)



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