しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ケンペル「江戸参府旅行日記」大坂~京都・京都所司代

2021年09月17日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」  訳者・斎藤信   東洋文庫  昭和52年発行
第9章  大坂・京都 二つの都市について
1691年(元禄4)2月



2月28日

夜明けと共に京都へ出発した。



(天王山から見る伏見方面)





佐陀、枚方、淀、伏見、を通って京へ。



(伏見城)



(伏見稲荷)









夕方6時に宿舎に着いて、二階に部屋を割り当てられた。
今日は旅行中、肥沃な土地、大部分が水田を通り過ぎた。
たくさんの野鴨を見たが、人によく慣れでいて、近づいても飛び立たなかった。
アオサギや白鳥、数羽のコウノトリが沼で餌をあさっていた。
田をすくのに牛を使っていた。






2月29日


所司代の御殿の手前50歩のところで、籠から降りるように命じられた。
門の番人、前庭を通り、玄関に着く。ここに約20人の使用人その他が座っていた。
そこから部屋を通り抜け、第三の部屋に案内され、ここで座って待つようにいわれた。
間もなく家老が現れた。
挨拶と贈物の礼を述べた。

贈物は、1瓶のブドウ酒、外国製の絹やリンネルの布地20枚であった。
15分経ってから暇を告げた。



(京都御所、御所と二条城の中間に京都所司代はあった)



それから、最近着任してきた新しい町奉行の役宅に歩いて行った。
二人の書記が、この奉行はまだオランダ人の出迎え作法に通じてないと語った。
礼服を着た奉行が「天気よく、無事にお着きでめでたい」と、ほんの少々の談話の後、
贈物をお納め願いたいと願った。

彼はすぐに去ったが、われわれは、もうしばらくとどまるよう頼まれた。
婦人たちが、異国の客やその服装をよく見ることができるようにするためである。
公使は剣や帽子や時計をよく見えるように貸し与え、外套を脱いだ。

最後に、天気がよかったので歩いて200~300歩離れた第二の奉行の屋敷に行った。
彼は親しげな態度で挨拶し、われわれの贈り物を受け取った。
以前から彼と知り合っていた大通詞は、
この機会を利用して個人として数個のヨーロッパ製ガラスの酒器を彼に贈った。
息子のために目をかけてもらうよう頼んだ。



(二条城)





京都

京都には美しい神社仏閣が建っている。



(下賀茂神社)



(醍醐寺)



(東福寺)



(東寺)



(知恩院)







三条橋というたっぷり300歩はある長い橋が架かっている。


(三条大橋)



北側には内裏(天皇)が彼の家族や廷臣と共に住んでいる。
庶民階級とは堀や土塀で分けられている。
西側に方形で造られた城がある。今は将軍が京に来た時に、ここに滞在する。


庶民の家は狭く、二階建てで、木と粘土と漆喰で、この国の様式で建てられている。
京は、日本の工芸や手工業や商業の中心地である。京都の工芸品は全国に名が通っている



(上七軒)



所司代は広い権限をもち、名望のある人物である。
彼は、町奉行所や司令官や将軍直轄の小都市や地方の役人などの総司令官である。
すべての西国大名は彼の監視には気を配らねばならなかった。

京都改め
改めは毎年行われる調査のことで、
各市民は家族数や、どんな宗教や寺はどこかを任命された委員に報告しなければならない。



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ケンペル「江戸参府旅行日記」大坂・大坂町奉行

2021年09月17日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」  訳者・斎藤信   東洋文庫  昭和52年発行
第9章 大坂・京都 二つの都市について
1691年(元禄4)2月



大坂

大坂は将軍直轄の都市で、囲壁も防塁もなく、平坦で肥沃な平野にある。
船の出入りが多い港湾に臨んでいる。






東側には堂々とした城があり、西側には二つの番所があるに過ぎない。
水量の豊富な淀川という大きな川が北の地区を貫流し、
それが、この土地に盛んな商業をおこし、富を得さしたのである。








掘割や運河を通って入ってくる商品は、小舟で楽々と町に運ばれ、陸揚げされ商人に渡る。
運河は規則正しい幅があり、100以上の立派な橋が架かっていた。









大坂の町や住民は町年寄りや総年寄の支配をうける。
彼らはさらに二人の奉行の監督と命令のもとにあり、
奉行はまた知事として周囲の地方(摂津・河内・和泉・播磨)や村落を支配し、
一年おきにここに駐在しているので、一方の奉行が大坂にいる時には、他方は将軍のいる江戸の家族の所にとどまっていなけらばならない。









私は、時刻がいろいろな方法で告げられることに、特に気が付いた。
日没後、
最初の時間は太鼓で、第二の時は銅鑼で知らせる、第三の時は真夜中で鐘を用いる。これは鐘を鳴らすというのではなくて、木で突くのである。
第四の時は再び太鼓で、五番目は銅鑼である。
日の出の時は、
鐘を打つ。
日本人は一年中、昼夜をだた六つの時間に分けている。







大坂の町は非常に人口が多く、非常に物価が安く生活しやすい。
贅沢をしたり、官能的な娯楽は何でもある。
あらゆる娯楽に事欠かない都市だという。
公の劇場でも小屋掛けでも毎日芝居が見られる。
商人や香具師が露店を出して大声で客を呼び、
奇形児や異国の動物や、芸を仕込んだ動物などを少しでも持っている人は、
他の地方からここに集まってきて、銭をとって芸や珍品を見せるのである。
町には旅行中のたくさんの余所者が逗留している。
大坂以西に住んでいる大名たちは、この地に屋敷と蔵と、江戸まで供をしていく家来たちを置いてはいるが、一日一晩以上はこの町に留まることを許されない。








この地の飲料水は少し泥臭く悪い。
けれども、日本一のよい酒を飲むことができる。
天王寺という村で造られ大量に他の地方に出されている。

市街地の東側に、一周するのに1時間もかかる広い城がある。
方形で堅固な櫓を持つ城で、肥後にある城(熊本城)を除けば、
その広大さ・豪華さ・頑丈さにおいてこれと比肩しうるものは全国でも見あたらない。
外堀は大変広く、七尋の深さがあり、石垣に城壁が高くそびえ、上には松や杉が整然と植えてある。
日本人の談話からなお次のことを知ったのである。
三の丸に入ると、二の丸が見られ、その奥に本丸がある。
数層の高い天守閣があり、その一番上の屋根には黄金の大きな魚が載せてあるが、
陽をうけて輝くさまは兵庫からも見ることができる。
しかし、この天守閣は約30年前、大火事で灰塵に帰した。(1665年落雷で焼失し、以後再建されなかった)







第二の城郭の門の中には、長さ5間で幅4間の磨き上げた黒い石が城壁にはめ込まれているいるのが見えるが、どうしてここまで運んで来たのかは、全く驚くばかりである。
鞆の東方5里にある稲積島から、その大石を、つなぎあわせた6隻の船に乗せ、大変な苦労ののすえにここへ運んできたのである。









この城には将軍の家宝と毎年西方諸国からの年貢米を補完し、
また西方大名の反乱を防ぐために、強力な守備隊を置き、二人の大名にその指揮を命じ、三年ごとに交替させた。
大坂城代は民間、および町奉行の所管事項には、何の権限も持たない。



2月25日

われわれは駕籠に乗って、通詞や従者を伴って、奉行の屋敷に出かけた。
われわれは屋敷の前で駕籠から降り、黒い外套を着た。
こうすることで、日本人が礼服を着るのと同じように敬意を表すことができるのである。
謁見の広間に連れてゆかれた。
謁見の間には7人の小姓が並んで座っていた。
やがて奉行が、前方10歩ほど離れた所に座った。
馬とかその他、旅行に必要なものがある場合には、喜んで力になる旨申し出た。
われわれはこの好意に礼をいい、わずかな贈物(絹布で、書記と、用人にも同様なものを贈った)を納めていただいた。

別れを告げてから、駕籠に乗ろうとしたが、通詞たちが少しばかり歩くことを許したので、立派な城を外からよく観察する機会を得た。




(大坂町奉行は東西2カ所あり、1ヶ月ごとの当番制。元禄時代には東西とも現・中央区大手町にあったそうだ。 あべのハルカスより大手町方面を望む)


2月26日
休息日


2月27日

必要な馬が数頭足りなかったので、休むより仕方なかった。
およそ40頭の馬と41人の人足を雇った。
自分勝手な通詞たちが、品物をあつらえ、われわれの名義を使い、費用を使う。



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ケンペル「江戸参府旅行日記」兵庫~大坂

2021年09月17日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」 訳者・斎藤真  東洋文庫  昭和52年発行
第8章 小倉から大坂までの旅
1691年(元禄4)2月



2月24日

(兵庫から)
朝早くわれわれは下船した。
大坂の港は浅く、われわれの乗ってきた船では行けないので、
前もって荷物を積んでおいた4艘の小舟を漕いで行った。


途中われわれは海岸沿いにいくつかの町や城を見たが、
それらのうちでは大坂港から3里手前にある尼崎の美しい城と町が印象的であった。


(尼崎城)





また、前方南の方には将軍家の支配する堺の町がある。


(堺港灯台)




われわれは今日10里船を進めて、大坂の港口に着いてから、航行可能な川の支流を、午前11時に東南東に向かって進んだ。


(天保山渡し)






われわれが大坂で泊まることになっていた宿の主人が、2艘の屋形船をもって出迎えてくれた。






1.000以上の舟の間を縫って大坂の町へ向かった。川の両側にある立派で頑丈な番所が大坂と郭外の町とを分け隔てていた。
下船を許される前に6つの立派な木の橋の下を通り抜けた。
それから岸へ上がり、町筋を通って定宿に、午後の1時か2時に着いた。

そこで二階に、襖で仕切られた部屋をあてがわれた。
煙が時に苦しめることがなかったら結構だったといってよい。
到着の直後、われわれは通詞を二人の町奉行所に遣わし、贈物を携えて訪ねることを許していただきたいと頼んだ。




(ケンペルは広い大坂のどのあたりに泊まったのだろう? 梅田スカイビルから望む大阪)




(8章おわり)




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