しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

関一

2021年09月24日 | 銅像の人
場所・大阪府大阪市北区中之島1丁目


関一大阪市長

市長当時、大阪は東京市の人口を超えたそうだ。






(Wikipedia)

東京高商教授。
大阪市助役に招かれる。
1923年に第7代大阪市長となる。

市長として
社会政策学や都市計画学の知見を活かし
受益者負担金制度による御堂筋の拡幅、
大阪都市協会設置、第二次市域拡張、市営公園や公営住宅の整備、大阪市営バス(現・大阪シティバス)事業の開始、
大阪港の建設、地下鉄の建設(現・Osaka Metro御堂筋線)、
大阪市高速度交通機関計画(大阪市営地下鉄網建設計画)策定、
淀屋橋や大阪駅前の区画整理事業、
大阪城公園の整備及び大阪城天守閣の再建、
大阪市民病院の開設、
日本初の市立大学(現・大阪市立大学)の開設、
大阪市中央卸売市場の開設など、様々な都市政策を実行した。

これらの実現によって人口が東京市をも上回った。
世界各国の都市でも6番目の人口を擁することとなった大大阪時代は關市政時代に全盛期を迎えることとなり、
「これやこの 都市計画の権威者は 知るも知らぬも大阪の關」と詠まれたり、
内務大臣後藤新平から「都市計画の範を大阪に求める」と評されるなどした。

功績を称えて中之島に関の銅像が建立され、太平洋戦争(大東亜戦争)中の金属供出や戦災を逃れ、現存している

なお、孫の關淳一も大阪市助役を経て、大阪市長を務めた。








撮影日・2015年12月14日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「江戸参府旅行日記」番外編・大名の参勤お目見え登城 

2021年09月24日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
このページはオランダ使節の謁見でなく、大名の参勤お目見え登城であるが、
儀式としてほぼ同じものだったことが、うかがえる。


「参勤交代」 山本博文著 講談社現代新書 1998年発行





参勤お目見え登城

大名が江戸に着くと、老中まで江戸到着のことを披露する。
すると、幕府からその大名の家格にあわせて上使が派遣されてくる。
たとえば国持大名であれば、老中が使者になって藩邸を訪問する。

この参勤の披露がないうちは、たとえ江戸にいてもまだ到着していないものとして扱われる。
将軍への披露がなければ、公然と友人に会いにいくこともできないのである。


参勤登城
その後、幕府年寄から登城を命ずる奉書が到来し、その翌日朝に登城して、
参勤後初めてのお目見えをする。
藩主はそれが済むと、各年寄りの屋敷を訪問して、挨拶する。
承応元年(1652)佐竹義隆の事例で見ていこう。


前日
前日、藩邸では、翌日持参する進上の広綿などを用意して準備に忙しい。
翌朝、品物を持たせ登城した。
献上は、
御太刀一腰
御馬(黒毛6歳)一匹
広綿200把
銀子百枚である、
この他、将軍生母や大奥老女たちへの進物も届けている。
義隆は、お目見えが終わると、大老の屋敷へ挨拶に行き、そこから藩邸に帰った。
翌日には、留守居役が老中への進物を届けている。
 
献上物や進物は、かなりの額にのぼる。
ただし、これが藩財政を圧迫していたというのではない。
将軍からは倍額に近い拝領品が下賜される。
一方額は小さいがとはいえ、老中や幕閣への進物に返礼はない。


江戸到着の儀礼
リハーサルを二度
当日の朝、礼装で上屋敷を出る。
江戸城大手門で、大半の供を残し、駕籠から降り徒歩で表玄関から入る、
出迎えた表坊主の案内で、梛之間に入り、着座する。
参勤御暇の登城は「諸席打込」であり、城主禄高順でお目見えする。
全員揃うと、表坊主に連絡し、式場である黒書院に行き習礼をして柳之間に戻る。
「習礼」とはリハーサルである。
このお目見えが緊張感をもった重要な儀式であることが知れる。
二度習礼をする。
幕府側でも落ち度のないようにはかっているのである。
まだ儀式までには時間がある。


あっけない本番
さて、いよいよ本番である。
黒書院を襖の方を後ろにして、定められた順に着座し、目付が書いた「名前書」を見せて確認を取る。
順番にお目見えする。
将軍から「夫エ(それえ)」と声がかかる。
すかさず御用番老中が「〇〇守は有り難く申しおります」とお取り合いし、儀礼は終わる。
あっけないものである。
帰宅は午前1時前である。


儀礼国家の心性
このような参府の儀式は定型化されており、儀礼的なものであった。
しかし、諸大名にとっては、このような儀礼こそが政治的行為であった。
極端に言えば、大名が国家老の案に許可を与えることと、
留守居役のお膳立てした場に出てゆくだけでよかった。
参勤交代制の下で、江戸と国許を隔年往復するうちに、日常的に大名が行う政務の実質がなくなっていたのである。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「江戸参府旅行日記」番外編・ケンペルの江戸参府紀行 

2021年09月24日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「大名と庶民の街道物語」 新人物往来社 2009年発行

東海道の旅人たち
ケンペルの江戸参府紀行 藤田孝光






オランダ東インド会社の商館長は年に一度、将軍に謁見し、献上品を奉呈するため江戸参府を行っていた。
ケンペル(1651~1716)はドイツ人の医師・自然科学者で、彼の死後、その遺稿をもとにして編纂された『日本誌』は、日本を紹介する書物として広くヨーロッパで読まれた。
「江戸参府旅行日記」も、そのなかに収められている。


編成
商館長1名
書記2名
医師1名、

これに日本側の随員
通詞
付添検使、
与力
同心
捕方
が、長崎奉行によって任命される。それぞれが下僕として数名づつひき連れる。
さらに、必需品や献上品を運ぶ運搬人や馬方、
通り道となった各藩から案内人がいた。

その数は全行程のなかでも変化し、一行は100人前後。
たった4~5人の外国人が旅をするのに、これだけの大人数で、
護衛の役人は道中の安全というよりも、その監視が主な目的だったようだ。

昼食や宿泊の旅館は決められており、一定のペースで進められた。
ケンペルは昼食やちょっとした休憩の合間にあちこち見聞している。

一行は大名が参勤交代で使う高級旅館を利用したから、
主人たちは正装で出迎え身を低くした。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする