しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ケンペル「江戸参府旅行日記」室津~兵庫

2021年09月16日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」 訳者・斎藤真  東洋文庫  昭和52年発行
第8章 小倉から大坂までの旅
1691年(元禄4)2月




2月23日

(室津から)
夜明けとともに出港することになったが、湾の中から約2.000歩ほどは櫓で漕いで行かねばならず、それから大海に出て帆を使うことができた。
われわれは次の所を通り過ぎた。


(たつの市新舞子)




一・網干。
2~3の陣屋と将軍家の荷物蔵のある町で、播磨領であるが、ここに将軍は一人の郡代と奉行を置いて支配させている。

二・姫路。
立派な天守閣のそびえる城のある町で、城主松平大和守の城下である。



(姫路城)


ここもまた網干の付近も岩礁が多く、航行には適さない。





三・高砂は、
たくさんの樹木が植えられた400戸余りの防御施設のない小さな町である。
明石までは5里の道である。

明石は麻糸で作られ技巧をこらした帷子または婦人の袴地を産するので知られている。
町の背後には美しい城が見える。
城壁の中央と両端に三層の櫓があって、威容を誇っている。
町の両側の海岸には漁業と製塩で生計を立てている。



(明石港)



(明石城)




四・山田
五・垂水
六・塩谷
は人目をひく村で、住民たちは同様に漁業と製塩業で暮らしている。
七・須磨は昔、
平家の一門が天皇をいただいて数年間住んでいた。



(舞子、明石大橋)




八・駒林。
九・兵庫は港町で、
摂津国の先端にあり、明石から5里のところにある。
ここには防波堤、すなわち幅広い砂の地帯が須磨から東南方向に半ドイツマイルほど海に突出している。
それによって港は海から守られている。
これは自然にあるのでなく、平清盛が人力でこの堤を築かせたのである。
この防波堤は二度までも土台から波に洗い流されてしまった。
そして一人の勇敢な日本人が、ローマの青年マルクス・クルチウスの先例に倣って、自らの身を海に沈め、そうして海神の怒りを鎮めたので、以後この防波堤は壊れることはなかったという。




(兵庫の湊は、どの位置か不勉強でわからないので六甲山からの全景写真)



(現在の神戸港)




この港は、
下関と大坂の間では最後の港で、船頭たちにとってはたいへん都合がよく重要なので、港の中には荷を積んだ約300艘の船がいた。
兵庫の町には城がなく、ほぼ長崎位の大きさである。
外から目につく家は粗末で小さいが、その他の家々はずっときれいで大きい。
後方に続く険しい山岳地帯には鉱物が多く、黄金を産出するということである。

われわれが、今日順風に恵まれ18里の長い航海の後に、この町に錨を下ろしたのは、午後1時頃であった。





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