しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ケンペル「江戸参府旅行日記」第五章・街道を旅行し、街道筋で生計を立てている人々の群れ

2021年09月29日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
1691年(元禄4)


第五章・街道を旅行し、街道筋で生計を立てている人々の群れ

この国の街道には毎日、信じられないほどの人間がおり、
私は東海道を四度も通ったので、その体験から注目すべきものを挙げよう。


大小名


(津山藩の大名行列)


彼らは一年のうちに街道を行き来する。
つまり一定の時期に江戸城に伺候し、そして再び江戸から帰る。二度通うことになる。
彼らは身分や財力の許す限り立派な行列を作る。
それゆえ最も大きい大名は数日の行程に渡って街道を満たすのである。
大名の行列は2万人前後、小名の行列はその半数。
それゆえ一か月前には宿所や宿場を一定の日数で予約させ、近いうちに通過することをすべての村や町に知らせる。

行列が進むとき、一部の従者を除けば、みな黒一色の絹布の服を着て歩き、
実に規則正しいみごとな秩序を保ち、こんなに大勢の集団が騒音も立てずにしずしずと進んでいく有様は、誠に不思議で称賛に値するけれども、
これとは対照的に槍もちや籠かきは、後ろの裾を非常に高くはしょっているので、
自分のしている褌がいくらかは足しになっても、隠す役目を果たさず、下半身をすべて露わしているのは、実に笑うべきことである。

用を足すため、至る所に設けてある緑の小屋とか百姓家にゆく場合は、報酬として小判1枚を与える。





巡礼の人

有名な観音を祀る33の寺に参る。2~3人で組を作って巡礼の旅をする。
旅行者に布施を求めるようなことはしない。
特別な服装をしている。


(四国霊場・屋島寺)

冬でも陰部に藁の房だけを巻き付けて隠している裸の人によく行き合う。
なんとも奇妙な気がする。
こうした人々は、健康とか、その他のことを治そうとして、寺や仏像にお参りをする。
布施を求めず、いつも一人で休むこともなく歩き続ける。





托鉢僧

元来は山伏である。彼らは頭を剃っていない。
彼らは京都の教団の長の支配下にあり、毎年一個の貨幣を納めなければならない。
彼らが布施を求めるときは、短い法話をし、先端に鉄の輪のついた金剛杖を鳴らす。時には法螺貝を吹き鳴らす。
至る所で比丘尼の群れに混じって、旅行者の周りに集まり、歌をうたい、法螺貝を鳴らし、熱弁をふるい、大声で叫ぶので、うるさい。
お祓いや予言、未来の占い、迷信や魔法のために利用する。




旅行者につまらぬものを売りつけようとする人々

街道筋には小売商や農家の子供たちで、夜が更けるまで、旅行者につまらぬものを売りつけようと、かなり多くの人いる。
例えば、甘みがほとんどない菓子、酒の肴、名所案内・道中記、綱や紐、竹・木からつくった品物。
駕籠かきは駕籠を、
馬方は粗末な鞍をのせた馬を用意して待っている、
普通、宿場まで何かを運んで空で戻る手前である。





淫らな女たち

なお最後に述べなければならないのは、大小の旅館・茶屋・小料理屋などにいる淫らな女たちのことである。
彼女たちは昼頃になると、着物を着かえ、おしろいを塗って、家の前の廊下のところから絶えず旅行者を眺めていて、甘ったるい声を出して、あがっていくよう呼び寄せ、耳元でしきりにしゃべるのである。
何軒もの旅館が並んでいる宿場は特にひどく、例えば近くに並んでる二つの村、
赤坂と御油は、ほとんど旅館ばかりが並んでいる。
どの家にも3~7人までの女がいる。


(御油)


(北斎)


この賤しい女たちと交わりを結ばずにここを通り過ぎる日本人はまれなので、
そのため記念の印をちょうだいして我が家に持ち帰る人がよくあって、それでたいへん腹が立つのである。
日本ではすべての公共の旅館はまた公の娼家であることは、否定すべくもない。

一方の宿に客が多すぎる場合には、他の宿の主人は自分のところの女中(娼婦)を喜んで向こうに貸してやるが、彼らはそれで確実な儲けがあるからである。
こうしたことは、古からの習慣であった。
最初の将軍の頼朝が、すでに何世紀も前に始めたのである。
すなわち彼の兵士が長い遠征の旅路で、己の欲求を満たすことができるように認めたのである。
中国では娼家と売春とは厳罰を課して禁止しているから、若い中国人は、よく日本にやってくるのである。



(広重)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケンペル「江戸参府旅行日記」第三章・街道で見た庶民ならびに寺社の建築物

2021年09月29日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
1691年(元禄4)


第三章・街道で見た庶民ならびに寺社の建築物




城はたいてい、大きな河の岸辺か丘や高みに築かれている。
広大な地域を占め、三重の要塞からなっている。
どの城にもきれいな水をたたえた深い堀や石か土の防壁と頑丈な門があるが、
重砲は備えていない


本丸は、

城の中枢で城主の住んでいるところである。
本丸には白壁造りの三層または四層の天守閣がそびえ人目を引く。


(姫路城本丸)


(姫路城本丸)





二の丸という第二の城には、

用人、城代、右筆などが住み、余った空地は時には庭園にしたり稲を植えている。


(姫路城二の丸)






第三の外構えは、

第三の城と呼ばれていて、下級武士やその城に関係ある人々の住まいで、そこには誰が立ち入ってもよい。


(姫路城三の丸)






城の建物はたいへんよく維持されているが、大修理は前もって将軍に許可を得たうえでなければ手をつけることはできない。


二つの門
町にある二つの門は、毎夜道を閉ざすだけのもの。



・・・・




百姓家は
百姓家はたいへん粗末で小さい。家屋は低い四つの壁からできていて、葦か藁の屋根で覆われている。
床はかまどがしつらえてある、ほかの部屋はきれにな畳が敷かれてある。
開いている戸口には稲わらで編んだ筵か掛かってあるが、これは通りから中をのぞかれるのを防ぐためである。



(井原市「中世夢ヶ原」)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケンペル「江戸参府旅行日記」第二章・長崎から江戸に至る水路ならびに陸路の一般的記述

2021年09月29日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
1691年(元禄4)

第二章・長崎から江戸に至る水路ならびに陸路の一般的記述


日本各地には国道や街道がつくられ、
これらの街道は幅広くゆったりとしているので、二つの旅行隊は触れ合うこともなくすれ違うことができる。
上りの人は道の左側を、下りの人は右側を歩かねばならない習慣が定着している。



(舞阪松並木)


街道には旅行者に進み具合がわかるように里程を示す標柱があって距離が書いてある。江戸の日本橋と名付けらている橋を基点としている。
街道の両側には1本ないし数本の樹木を植えた二つの丘(一里塚)が互いに向き合って築かれている。

われわれは将軍に拝謁などの儀式で20日間江戸に滞在し、同じ道をまた長崎へ戻り、3ヶ月以内に一切の旅行を終えるのである。

陸路を行くと、西海道の一部と東海道では、木陰を作って旅行者を楽しませるように、松の木が街道両側に狭い間隔でまっすぐに並んで植えてある。
雨に対しては簡単な排水口があって、低い田畑に流れるようになっている。




身分の高い人が旅行する場合には、街道は直前に箒で掃除され、
また両側には数日前に砂が運ばれ小さい山が作られるが、これは雨の時撒き散らし道を乾かすものである。
2~3里ごとに路傍に木っ葉葺の小屋を設け、垣で仕切る。それで用便する。

街道を管理する者は、近所に住んでいる百姓が欲得ずくで不潔なものを利用するので、道路を清潔に維持することについては、ほとんど苦労することがない。
毎日落ちてくる松葉や松かさを彼らは焚物として集め、それで薪の不足を補っている。
百姓の子供たちは馬のすぐ後ろから付いてゆき、まだぬくもりのあるうちに馬糞をかき集め、自分たちの畑に運んでいく。
そればかりでなく旅行者の糞尿さえ同じ目的で拾い上げ、
またそのために百姓家近くの街道脇には、便所として作った小さな粗末な小屋があり、その中にも糞尿を溜めてある。
すり切れた草履も同様に糞尿に混ぜる。
地面と同じ高さに埋め込んだ蓋もなく開け放しの桶の中に、この悪臭を発するものが貯蔵されている。
道は目を楽しませるが、これとは反対に鼻の方は不快を感ぜずにはいられない。






山岳地帯を通る道も時にはある。
そうした道は石が多くて急で登るのに骨が折れるのである。
馬では進むことはできない。
それで人々は駕籠でかつがれて登る。
しかし、これらの山岳には例外なく清水が湧き出ていて、いつも緑の茂みをくぐって旅ができ、特に春にはフジ・ツバキ・サツキ・ウツギが旅人の心をたいへん楽しませてくれる。


東海道で渡らねばならない川のうちには、急流となって海に注ぐ幾筋かの川がある。
特に雨が降った時には、石の多い流れが水嵩を増すので、橋も舟もまったく役に立たなくなり、
そういうわけで、その土地には渡河をまかされた、その場所に詳しい人たちがいて、彼らに身をゆだねると、責任をもって流れや転がる石と戦いながら渡してくれる。
最も主要なものは
大井川。雨が降ったりすれば、数日間河岸に留まらねばならない。
他に藤枝川と安倍川がある。
それほど川幅が広くない川は舟を用いることが許されている。
有名なのは天竜川、富士川。
深い川には、杉材で作った幅広い頑丈な橋が架けられていて、念入りに手入れされている。
有名で立派な橋は、
一・瀬田の橋。
二・矢作橋。
三・吉田橋。
四・六郷橋。
五・日本橋。
すべての橋は、川の両側で長さ二間だけ地面の上に延びている。


(日本橋)


・・・・・



海上旅行の針路は、大きな日本島の海岸に沿ってとられ、左手に日本島を視界におさめ、暴風が来るときには港の一つに避難することができるように、1~2里以上陸地から離れることはない。
海上には上下する大名やその家来ばかりでなく、大部分は商売の為に出かける商人も頻繁に往来するので、時には日に100艘の帆船を数えることができる。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする