しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ケンペル「江戸参府旅行日記」江尻~吉原~三島

2021年09月19日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「江戸参府旅行日記」  訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第十一章  浜松から江戸までの旅
1691年(元禄4)3月



3月10日

日の出に出発、午前中に吉原まで、午後は三島までの道である。

清見に着いた、奥津という小さな町からさして遠くない200戸の村であって、
海岸の砂にたびたび海水をかけ、それを煮つめて良い塩が作られる。

蒲原までの間の村々では耕地がほとんどない。






(国道1号線、奥津川)



(奥津川川越跡)




(東海道五十三次17・興津宿)




馬に乗っていたわれわれは、奥津からはまた駕籠に乗り換えて、最初に早い流れを渡り、
螺旋階段を登るように苦労して薩埵峠の山地を越えた。




(薩埵峠・・・・この時、富士山が見えるまで2時間待ちました)









(東海道五十三次16・由比宿)



(昭和32年前後の由比ふきん)







由比の村までかつがれて進んだ。
そこからまた馬に乗り換えて大きな蒲原の村に着いた。




(東海道五十三次15・蒲原宿)





1里半で大きくて流れが急な富士川に着いた。
川幅いっぱいに水があるのでなく、二つに分かれて流れており、中洲には露店が立っているのが見えた。
一方は歩いて渡ることができたが、もう一方は歩いて渡るのは危険で、平底の舟でしか割れなかった。



川を渡ってから、再び馬に乗ってたくさんの村々を過ぎた。
昼の1時には吉原という小さな町に着いた。


(東海道五十三次14・吉原宿)







われわれの全行程中で、富士山はこの辺りから一番近いところにあった。
富士山は旅行中、われわれの道標になり、地図を作るにあたって一つの基準として役立った。
その姿は円錐形で左右の形が美しく、堂々としていて、草や木はまったく生えていないが、世界中でいちばん美しい山と言うのは当然である。





(東海道五十三次13・原宿)




人々は登るのに三日かかるが、
下りるにはたった三時間しかかからない。
それは、下る場合にはアシとか藁で作った籠を利用し、腰の下にこれを結び付けて、
夏ならば砂の、冬ならば雪の上を、これで滑り下るためである。
日本の詩人や画家がこの山の美しさをいくらほめたたえ、うまく描いても、それで十分ということはない。



吉原から半里のところにある元吉原で昼食をとったが、
子供たちが群れを成して近づいてきて、前方20~30歩のところでとんぼ返りをしながら、輪を描いて駆け回り、施し物をもらおうとした。
子供たちに小銭をたくさん投げてやった。彼らはぶつかりあってつかもうとして、大変面白かった。




(東海道五十三次12・沼津宿)


沼津という小さな町で夜になってしまい、
残る1時間半の真っ暗な道を、三島まで行かねばならなかった。




(東海道五十三次11・三島宿)







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ケンペル「江戸参府旅行日記」島田~府中~江尻

2021年09月19日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」  訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第十一章  浜松から江戸までの旅
1691年(元禄4)3月



3月9日



(蓬莱橋)



7時に宿を出て、大きな川のほとりに出た。
藤枝川(今日の瀬戸川)と呼ばれていた。




(東海道五十三次22・藤枝宿)



幅も広いが、今は渇水期で両岸を洗うほどには流れていなかった。
しかし川底の様子を知っている人足の助けがないと危険である。
橋を渡って岡部村に入る。



(東海道五十三次21・岡部宿)






そこから骨の折れる山岳地帯を越えて、石の多い、でこぼこの曲いくねった道を進み、鞠子という小さな町に着く。


(東海道五十三次20・丸子宿)






ここで昼食をとってから、
再び馬や乗り物に乗って半時間後に安部川村に達した。

安部川という大きな川がこの村を二つの地区に分断し、三本の流れになって海に流れ込んでいる。





(東海道五十三次19・府中宿)

この川から15分で、この地方の首都駿河に着いた。この町は時には駿府、また府中とも言われる。
低い家々が並ぶ、北側にある城は堀と正方形の石を積み上げた高い石垣で囲まれている。
遠くからもはっきりと見える天守閣があったそうだが、数年前に焼けてしまった。
人々の語るところによれば、
その火事は最上階の階層に長い年月たまっていた鳩のフンの堆積が、熱を帯びて燃えだしたのが原因だという。




(駿府城)



この土地の少年たちは礼儀正しく、教育が行き届いているように感じた。
よその地方では「唐人、バイバイ」という呼ぶのをよく聞いたのだが、ここではそういう声が聞こえなかったからである。







(東海道五十三次18・江尻宿)

駿河から3里の入江にある江尻村に数百戸の家々があり、村には巴川が流れていて、
江尻材を川から海へ流し、それから日本中に送り出している。




(現在の井尻港、清水マリンパーク)




(三保の松原)



江尻に一泊。
今日は午前も午後もずっと人家のある、よく耕された平野の旅であった。
駿河の近辺では、いろいろの乞食の群れを避けることができなかった。ぞっとするような法螺貝を聞いたり、説教をしたり、輪のついた法杖を鳴らした。






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ケンペル「江戸参府旅行日記」浜松~掛川~島田

2021年09月19日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」  訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第十一章  浜松から江戸までの旅
1691年(元禄4)3月



3月8日

大通詞が不快だったため、いつもより出発が遅くなった。
2里進むと流れのはやい天竜川のほとりに着いた。
二筋に分かれて海に注いでいた。



(東海道五十三次28・見付宿)



初めの流れは馬で越えたが、もう一つは川舟で渡った。
また馬に乗って出発した。


(東海道五十三次27・袋井宿)







午後には掛川を通った。
北側には城があり、白壁の天守閣があり,美しさを添えていた。


(掛川城)




(東海道五十三次26・掛川宿)





ここから2里の日坂に着いた。


(東海道五十三次25・日坂宿)







ここで馬を籠に乗り換え、山岳地帯を越え、金谷まで行き、そこからまた馬に乗った。



(金谷ふきんの茶畑)


(茶畑ふきんの東海道)







(大井川鉄道・金谷駅)




(東海道五十三次24・金谷宿)






(国道1号線の絵看板・金谷にて)





長い間雨が降らなかったので、たっぷり1/4里は離れている両岸を川の水は満たしていないで4筋に分かれて流れていた。




(”越すに越されぬ”大井川)


一定の料金で人馬を渡し、絶対に誰も遭難しないように命がけで請け負っている。



(大井川川越人足)


岸の近くの水中から突出している柱についている目盛りで、深さを測って示してある。
いまは水は深くはなくて、馬の膝に達するくらいだったけど、各馬には5人の人足がつく。
川を越えて渡るのにほとんど半時間かかった。





(東海道五十三次23・島田宿)




(国道1号線・大井川橋梁、島田から金谷を見る)




(大井川の渡し場・島田)




島田の町に着き、この夜はそこに泊まった。



(東海道・島田)


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