しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡大仙院の三月、”春大仙”に行く  2024.3.4

2024年03月04日 | 令和元年~

小学6年生の秋だったと思う、土曜日の午後バスに乗って
母が笠岡の大仙さんに連れて行ってくれたことがあった。

その日、笠岡の商店街は大仙さんで大にぎわい。
商店街はぎゅうぎゅうで歩くのもままならないほど人が多かった。

田舎からお詣りに笠岡に来た人は、、
お詣りと共に、
町で乾物や茶わんなどを買って帰るのが目的だった。

笠岡で買い物をして帰るバスに乗ると、夕方になっていて
駅前の旅館のネオンが見えていた。
きらきら、光ったり止んだりしていた。
それを見ながら、ああ笠岡は町じゃなあ、と思った。
だが、
そのネオンは今思うに、小さな蛍光灯がちかちかしてるだけだった。
それでも当時は楽しかった。

 

 

洲崎橋から大仙橋の間には、
呉服・刃物・乾物・菓子・植木などの商人が連らねていたが、今年になってそれも絶えた。
3月の「春大仙」はにぎやかといわれ、その日が雨でなければお詣りに来ようと思っていた。
来てみたら、
1月や2月よりはにぎやかだったが、
スサキ通りや本通りの商店街はほぼシャッター通り。
門前の「植木市」も消え去り、さみしさを感じた。


毎日健康ウオーキングしている笠岡市民は多い。
せめて”大仙さん”の日は、笠岡駅前~商店街~大仙院、のコースで歩いてほしい。
大仙さんには、歴史や市民の思いがいっぱい詰まっているのだから。

 

・・・


「岡山県の食事文化」 鶴藤鹿忠 日本文教出版 昭和59年発行

笠岡大仙院

大山信仰は、牛馬の守護神としてのほか、大山に参ると死んだ子に会えるとか、死んだ子の足音を聞いたなどという。
備中西南部の笠岡市 井原市 小田郡矢掛町、美星町毛野、川上郡備中町佐 原目、西山字大蔵、浅口郡鴨方町、金光町、倉敷市玉島などには大仙院がある。
お参りの多いのは 笠岡大仙院と井原大仙院である。
特に笠岡大仙院には縁日である旧暦毎月の二十三、四日には多数 のお参りがある。
一月の初大仙と三月の春大仙はにぎあう。

笠岡大仙院の正称は仏松山海蔵寺大仙院で、真言宗高野山派の寺院である。
元禄五年(一六九二年) に、笠岡の豪商・橋野与三左衛門が出家して笠岡市川辺屋町に建立した。
権大僧都法印正範上人が 関与している。
伯耆大山寺の本尊・大仙智明大権現、本地は地蔵菩薩を勧請した。
毎月の縁日に は 六地蔵前で、へぎ塔婆に水杓で水をかける流水潅頂をする。
死んだ子供の着物を供えたり、さい銭 箱に菓子を入れると子の所まで届くという。
また、線香の煙を体にまぶして、無病息災をねがう。

 

 

場所・岡山県笠岡市笠岡「大仙院」
撮影日・2024.3.4

 

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米(こめ)

2024年03月04日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

大門駅から岡山駅まで汽車で行けば、金光駅ふきんから岡山駅の一つ手前の庭瀬駅まで、ずっとイ草が続いていた。
イ草の後で稲を植える二毛作が岡山平野の、ほぼすべての水田だった。
二毛作しないと農家は生活していけなかった。

今、岡山平野からイ草は全滅し、水田の多くは農地から商業・工場・学校・住宅などに変わり、残った水田は半年間寝ている。

 

 

「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

日本の米

米は主食であると共に、酒や醤油、味噌、酢などの原材料。
うるち米ともち米に分けられる。
ごはんはうるち米で、餅やおこわはもち米。
今から2500~2600年前、縄文時代晩期に大陸から伝わり北九州から広まったという説が有力だ。

食糧管理法(1942~
不足する米を国民に平等に分配する目的で食管法が制定された。
米の過剰(1971~)
農村と都市の所得格差が開いたため、生産者米価を引き上げた。
1960年から8年間で2倍になった。
米の消費は1962年をピークに減少し、米が余り始めた。
1971年から減反政策、最初単純休耕だったが、後に大豆・小麦などの転作が推進された。
自主流通米(1969~)
政府は在庫が増え、赤字が増え、
ヤミ米(自由米)が売れたので、1969年食管法を改正して、自主流通米がスタートした。
ウルグアイ・ラウンド(1993)
冷夏で、中国やタイから米の緊急輸入。
現在まで毎年輸入されている。
食糧法(1995~)
米を直接統制から間接統制へ大転換した。

うるち米の品種
2019年の作付割合は、
コシヒカリ 33.9% 
ひとめぼれ 9.4%
ヒノヒカリ 8.4%
ほか。


・・・


「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行
コメ(米)
日本では縄文時代の終わりから稲作がはじまった。
現在にいたるまで多品種の米が作られています。
丸みがあるジャポニカ種と、細長いインディカ種があります。
うるち米ともち米に分かれます。
精米後、時間と共に酸化するので、精米したてのものがよい。

・・・


「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行


日本でも近世までは貯蔵が一般的であったが、近代になると玄米で貯蔵・輸送し、また精白してから食用と醸造用にした。
明治政府は積極的に玄米貯蔵を奨励し、地主制が確立される明治30年代になると、
農民に玄米貯蔵を強制するに至った。
米を籾で貯蔵すると、玄米貯蔵するより倍の倉庫を 必要とするため、倉敷料が倍増するからである。
しかし農家は自家用飯米を籾で貯蔵し、
中には三年分の米を籾で備蓄した。
籾なら長期貯蔵しても品質は余り低下しなかったからだ。


米と糯米と貯蔵
第二次大戦前の農林省統計をみると、米は粳米と糯米に分けて表示されている。
御飯として炊かれて食べる粳米と糯米を区別していた理由として、
糯米は餅・強飯などの晴の食に用いられていたこと、また煎餅など米菓に加工されたこと、
糯米の反収は粳米より少ないため単価が高かったことなどがあげられる。
現在、農林水産省統計では、粳米と糯米の区別はなく、「米」で一本化されている。 

長い間農林省では、米の単位を玄米で石・斗・升合で表記してきた。
昭和15年(1940)、 米穀の強制買い上げ(供出制度)と配給制度により、
政府は成人一日当たり二合三の米を配給していた。


・・・・

 

「食糧争奪」 柴田明夫 日本経済新聞社 2007年発行


マルサスの悪魔がやってくる
逼迫する食糧市場
コメは「豊穣のなかの不足」現象

アジア諸国にとってコメは、単なる穀物とは異なり、特別の意味をもつ。
アジア・モンスーンという気象特性から降水量に恵まれた同地域は、コメについては高い域内自給率を有する一方、
小麦や飼料穀物、油糧種子などは域外からの大幅な輸入に依存するという食糧供給の二重構造を有している。
貧困問題を抱えたアジア諸国にとってコメは、飢えをなくすためにも 不可欠な国民の基礎食糧であり、
供給が不足すれば社会不安につながりかねないという政治財である。
また、世界の国土面積2割強に、世界人口(65億人)の約6割(39億人)が 住むアジア地域は、
世界のコメ生産の九割以上を占める稲作地帯である。
アジアの二大コメ生産国である中国、インドで過半に達する。
しかし問題は、そのアジアのコメの需給がジリジリと逼迫傾向にある。

・・・

 

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白米を食べる

2024年03月04日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

いつも麦飯だった。
お米の飯を食べるのは憧れだった。
「白いご飯を食いたいものじゃ」と思っていた。


高校生になった頃、ウチも米の飯になった。

 

 


「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

コメ(米)
日本では縄文時代の終わりから稲作がはじまった。
現在にいたるまで多品種の米が作られています。
丸みがあるジャポニカ種と、細長いインディカ種があります。
うるち米ともち米に分かれます。
精米後、時間と共に酸化するので、精米したてのものがよい。

 

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「江戸の町くらし図鑑」 江戸人文研究会  廣済堂 2018年発行


江戸では何故白米を食べるのか。


江戸では武家も庶民も白米を食べておりました。 
しかし、流通段階では玄米ですので、白米しかなかった、という単純な理由ではありません。
玄米より白米の方が、香りが良くて、柔らかいので、美味しいという理由はあります。
しかし、それ以外に、消化が早く戦いの食糧として優れ、武士が食べたことから、一種のステイタスでもありました。
そのほかに、注目されるのは、糠の利用価値です。
精米によって得られる糠の利用法で、代表的なものは糠漬けです。


糖は体力の衰えや脚気の原因となるビタミンB群の不足を補い、悪玉菌の繁殖を抑えます。
つまり、糠漬けは、 白米と共に食べる、 最強のコンビなのです。
玄米を精米することで失われる以上の栄養が、糠の利用によって得られるのです。
糠の利用はほかにもありま す。
もっとも日用的なのは、糠袋です。
糠に含まれるビタミンBは肌荒れ防止に、ビタミンEはンEは老化防止効果があります。
そして亜鉛は保湿効果と、肌バリアを活性化させます。
これはもう、お肌の養生にはかかせませんね。
そして、江戸の人々は二日に一度は、糠を白湯に溶いた、糠湯を飲み、直接糠の栄養を取り入れておりました。

・・・

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

米飯
米の飯を都市の庶民が食べるようになるのは江戸時代からである。
一般には、米飯は冠婚葬祭の時であった。


・・・

 

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行 


米のごはんは農家のごちそうである。
米が食べられる生活は農民の願望であり、それを楽しみに働いているから、 正月や祭りはことさら待ち遠しい。
この日ばかりは米のごはんが炊かれ、すしがつくられ、米のもちが搗かれるからである。
日常が粗食であるだけに、これらの行事の日は、このうえない楽しみであり、仕事の励みになるのである。
 昔、臨終のときに、少量の米を竹筒に入れて「米の音じぞ」といってふり聞かせたという「振り米」の話は、水田が少なく、いも、麦を食べて段々畑の過酷な労働に耐えてきた農民の生活を、如実に物語っている。

 

・・・


「岡山ふだんの食事」  鶴藤鹿忠  岡山文庫  平成12年発行

昭和40年代にはいると、米は過剰となる。
昭和45年頃から、麦飯や雑穀食、サツマ芋食はしなくなっていった。
昭和46年から、稲作転換が行われた。麦類の栽培はやめた。

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