しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

こんにゃく

2024年03月13日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

日々の食事、茂平でコンニャクを食べことはなかった。
そもそも海辺の村・茂平にはコンニャク芋を栽培する農家が無かった。

高原ともいえる、(後月郡の)
母方の祖父母に行くと、コンニャクが出た。
そのコンニャクは硬く固まったところと、ゆるいのが混じったコンニャクだった。
おいしいと思ったことはないが、
くにゃくにゃして面白い食べ物だと思った。
祖母のやさしさを感じる食べ物だった。

 

 

グルメ時代の現代では、
健康食品としてもてはやされているが、かつて
コンニャク芋は食用ではなくて、
大日本帝国の重要資源として軍部から徴用された。

そのコンニャク芋は風船爆弾の原料となり、アメリカ本土への爆撃に使用された。

 

 

「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版


コンニャク
山地の村々では自給用に畑で栽培している。
長年栽培していると病気がつきやすい。

・・・

・・・

 

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

コンニャク
五穀の収穫の少ない山村を中心に栽培された。
庭先に堀り上げたコンニャクの球茎が、クワイほどの小さいものからカボチャ大のまで、大きさによって仕分けられている。
コンニャクの球茎は肥大が遅いので、出荷できる大きさに育つまで四年ほどかかる。
その間、毎年掘り上げと植え付けを繰り返すのである。
集荷できる四年玉の他は、すべて来春の植え込み用に貯蔵しておく。

・・・


「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行


コンニャクイモ
粉にして、水や消石灰などを加えてコンニャクが作られる。
ほとんどが食物繊維で、腸内の有害な物質を排出し、
血圧やコレステロール値を下げる働きもある。
低カロリーでダイエット食としても人気。

 

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ママカリを食べる

2024年03月13日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

隣のウチは漁師だった。
隣のおばあさんは、よくひなたぼっこをしていた。

たまに、
隣のおばあさんは、ウチに来る時があった。
そういう時、決して「こんにちわ」とか挨拶することはなかった。無言。
隣のおばあさんは、わらじを履いていたので、足音すらしなかった。(聞こえなかった)
家の玄関は開きっぱなし。
入ると土間が台所までつづく。
道同然にウチの中に入っていった。
隣のおばあさんは、台所で止まり、ママカリを山盛り入れた笊を置いて、だまって帰る。


それがあってから数日間、
我が家の食卓はママカリ一色の日々がつづいた。
朝もママカリ、
昼もママカリ、
夜もママカリ、
翌朝もママカリ、
翌昼もママカリ、
翌夜もママカリ、
翌々朝もママカリ、
翌々昼もママカリ、
翌々夜もママカリ。
・・・・・づううっとつづいた。

 

ママカリは、
あんまり「おいしくて、おまんま(ママ)を、借りにいく」のでママカリという。
とテレビや本に書いてあるが、
それには異議がある。

そういう人もいるだろうが、
もうママカリだけはほしゅうない人もいる。
だいたいが、商品にならないから近所の人に配るのであって、
瀬戸内の雑魚の代表魚、というのが過去の実態であろう。
そこのとこだけは、キッパリといえる。

 

 

・・・
「岡山ふだんの食事」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 平成12年発行

ママカリ

和名は、ニシン科サッパである。
背が青い体長一〇センチほどの大きさの魚である。 
焼いて三杯酢とか、ひしお(醤)をつけて頭から骨ごと食べる。 
ママカリをおかずにすると、おいしく食が進み、
隣にママ(飯) を借りに行くということから、ママカリ (飯借り)の名がついたという。
県南では、ふだんにも食べるが、秋祭りにはたいてい、一品はママカリ料理をつくる。


・・・

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蜂の子

2024年03月13日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

捕獲したり、摘み取ったりの、遊びを兼ねた「おやつ」や「食材」は数多くあった。
山でマツタケを探すのも、海でアサリを掘るのも、食べものというよりは”遊び”の面が強かった。

スリルがある遊びで、おやつにもなる、とえば「ハチの巣」を落とすこと。
落とした巣から蜂の子を取り出して口に入れる。
噛まずに飲み込む。
栄養があると子どもたちも知っいた。

生物学者だった昭和天皇も食べていたそうだ。(下記↓の「日本の風土食探訪」)


・・・

蜂の巣を軒下から地上に落とすのはスリルがあった。
男の子3~5人での遊び。
たいていの場合、まんの悪い人が1人蜂に刺される、というキョーテイ遊び。
長い竹の棒を2本ほど用意し、それを、ハチの巣が軒から落ちるまでつつく。
まわりはハチが数匹飛んでいる。
そして子どもめがけて刺しに飛んでくる。
このスリル感がなんともいえない。

軒から落ちた巣は、しばらくの間、ハチがまわりを飛んでいるが、そのうちあきらめていなくなる。
そこで、初めて落とした巣を手にして、ハチの子をみんなでわけて飲み込む。
腹の足しにもならぬおやつだったが、滋養があるというのでその気になっていた。

まん悪く、ハチに刺された子は、自分のションベンをかけていた。
それが効果があるとは思ってなかったが、それしか方法はなく、言い伝えの治療だった。
何もしなくても、そのうち、痛みや腫れは引いて、いつか自然に治癒する、そのこともみんな知っていた。
だから「ハチに刺されて医者に行った」という話は一度も聞いたことがない。

・・・


「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

ハチの子

間食とはいえないが、ハチの子やハミを食べる。
ハチの子はハチの幼虫のことで、ドンブーといっている。
ハミはマムシのことである。ハチの巣からハチの子を抜き取り、そのまま飲む。
栄養があり、薬になる という。
イチジクの木を割ると、なかにいる虫は、虫薬になるといって焦がして子供に食べさせた。

・・・

 


「日本の風土食探訪」  市川健夫  白水社  2003年発行


昆虫食の王様、蜂の子

若干の毒虫を除いてほとんどの昆虫は食べられるが、現在日本においては昆虫食は一般的には敬遠されている。
ところが、先入観をもたずに客観的にものをみてこられた昭和天皇は、蜂の子を召し上がっておられた。
第二次大戦後間もない昭和22年10月、天皇が長野県内を巡幸された。
その際、長野市内のホテルで蜂の子の甘露煮を召し上がられたが、以降も時折り御愛用になられたという。


蜂の子の本場は信州伊那地方と岐阜県東濃地方である。
ミツバチ・クマバチ・スズメバチなどの幼虫も食べられるが、
本場の伊那地方でとられている蜂の子は、クロスズメバチで、一般的には地蜂とカスガレ・スガルと呼ばれている。
地蜂と呼ぶのはクロスズメバチが土手や棚田の法面など比較的地盤の軟らかいところに巣をつくるからである。
夏から秋にかけてが、地蜂どりの季節である。
捕獲に当たっては二メートルほどの棒の先に蛙の肉をつけておくと、地蜂が見つけて巣に運んでいく。

巣穴を探し出したら、煙硝火薬を穴の入口で焚いて、蜂の活動を抑制し、巣を取り出す。
蜂の子の 加工業者は巣に入っている幼虫を一匹ずつ取り出す。
これに醤油・砂糖・酢・味醂などを加えて甘露 煮にする。
蜂の子の採取は容易でないので、きわめて貴重な食品になっている。
そこで200グラムの缶詰が 小売値で2.500円という高値で売られている。
蜂の子の本場である伊那地方では、かつて資源が豊かであったが、乱獲により減少している。
したって原料になる蜂の子は地元産が少なく、栃木・茨城・福島・山形・静岡などの諸県から移入している。
特に栃木県は蜂の子の大集散地で、仲買人が農家と契約して蜂の子を集荷し、これを二次加工して伊那市や東濃の中津川市・瑞浪市などへ出荷している。


 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする