しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昆虫を食べる

2024年03月31日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

昆虫を食べたことはないが、年上の人は戦時中にバッタを「捕っていた」というようなことを言っていた。
母の話だと、茂平は農村なのでバッタを食べるほどの食糧難ではなかった。
飢えて食べたのか、害虫を取るのが子供の努めだったのか、学校か役場に供出したのかは不明。


下記↓に出ているうち、タニシは美味かった。
カエルのうち食用ガエルは飛び切り美味かった。
いまでも、その美味を思い出すほど美味かった。

 

 

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行


動物性食品としての昆虫

現代日本人の多くは昆虫食と聞くだけで、「悪食」とか、「如何物」だと思っている。
しかしかつて 虫は貴重な動物性蛋白源であった。
世界的にみても、東南アジアの山岳地帯、メラネシアのニューギ ニア、アフリカなど焼畑耕作を営む発展途上国では、昆虫が常食になっている。
特に焼畑耕作の端境期には、虫は欠くことができない食料である。
日本は全国的には昆虫食が盛んであるとはいえないが、地域によっては虫がよく食べられていた。 
大正8年(1919)、農商務省農事試験場の調査によると、全道府県のうち宮城・富山・大阪・香 川など四府県を除いて昆虫が食用にされていた。
食用昆虫の数をみると、長野県が17種で最も多く、山口県 (12種)、山梨県(10種)、山形県・愛媛県(以下各8種)、福島県・埼玉県・奈良県・福島県(以下各7種)がこれに次いでいる。


いなご

全国的に食べられていた昆虫に、蝗がある。
稲作の害虫である蝗は、全国の水田に棲息していた。
つくだに
昆虫の中では見た目にもよいので、よく佃煮にして食べられてきた。
第二次大戦後、殺虫剤の大量消費とともに、蝗はほとんど姿を消したが、農薬の投下の抑制とともに復活した。

タニシ
田蝶は水田に棲む淡水性の巻き貝である。
貝殻をとって佃煮にして食べられたが、弾力があって実にうまい。
しかし、第二次大戦後、農薬が使われるようになってから、 田螺は水田から姿を消した。

さかな
沢蟹は淡水性の蟹で、水の清い渓流の礫の間に棲んでいる。
この沢蟹を天ぷらにしたり、あるいは 油で空揚げにして、酒の肴にしている。

・・・・


「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行その3


養蚕は蚕の飼料になる桑の栽培を行ない、桑の実を収穫して蚕に与えて成長させる生業である。
蚕の幼虫は、黙々と桑の葉を食べて大きくなり、30~40日間で五齢を迎え、糸をはいて繭をつくる。
その直前の蚕は体の内部まで透き通って見えるが、それは繭殻をつくる蛋白質である。
伊那市では上簇間近い蚕を缶詰にして売っている。
見た目は姿、形ともに不気味だが、栄養の点では 蛋白質に富む高級食品である。

残った蛹は鯉などの飼料や肥料にされる。
しかし蛋白質や脂肪が多いので、缶詰にしても売られている。

カマキリ
カマキリの種類は多いが、蝗と同じようにして食べられる。 
薬用としては幼児の癖やリューマチの鎮痛剤などにも用いられている。

かえる
昆虫ではないが、両棲類の蛙も古くから食べられてきた。
香川県讃岐平野の溜池ではアメリカから 導入した食用蛙が飼われている。 
日本の在来種で一番うまいのは赤蛙で、鮭のような味がし、刺身にして食べられている。
これもまた子供の痔の薬としても用いられている。

 

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長野伊那谷Web


国民的昆虫食「イナゴ」


日本の昆虫食の中で、もっともポピュラーな虫といえば「イナゴ」。
昆虫食にあまり馴染みのない人でも、
「イナゴだけは食べたことがある」「子どもの頃食べた」「おばあちゃんの家で食べた」などと話す人もいます。
1919年に昆虫学者、三宅恒方氏がまとめた報告書によると、イナゴは国民の50%以上が食べていたとされ、
いわば国民的昆虫食でした。
当時はイナゴだけでなく、蜂の子・カイコのサナギ・カミキリムシ・タガメなど55種類の昆虫が食べられていたとされています。
(出典:「食用及薬用昆虫に関する調査」三宅恒方)

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間食・副食

2024年03月31日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

間食と副食の区分がよくわからないが、
主食の補助としてみると
イモ、それも「ふかし芋」がまっさきに思い浮かぶ。

「ふかし芋」はいつも戸棚にあったので、つまんで食べていた。
たまに「おやき」をした。
「はったい粉」も粉に水か湯をいれて簡単にでき、よく食べていたが、
甘みがなくサッカリンをいれた。
稀に砂糖をいれた「はったい粉」は、それはそれは美味かった。

 

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「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

間食


店で売っているお菓子といえば、煎餅やこんぺい糖飴玉ぐらいで、大正時代には、二銭で大きな飴玉が四つ買えた。
子供のおやつとはいえ、お菓子を買って食べることはまれであった。
一般的なおやつは、大豆やソラ豆をコウラ(ほうろく)で煎ったもの、氷餅を焼いたり、あられを煎ったものであった。
氷餅は正月餅と一緒にまたは寒の内に餅を搗き、のし餅にして少し固まった時点で薄くへいで(はいで)長方形に切り、 干したものである。
砂糖で味付けしたもの、胡麻の入ったもの、豆板といってたくさんの豆が入ったものもあったが、
焼いたときに膨れやすくするため重曹を入れていた。
また、あられは餅を賽の目に切ったものである。
少し時間にゆとりがあれば、大豆や黒豆と糯米を煎ってぎょうせんにからめたり、おねり(主食の項 参照)も作った。
また、家の庭先や近くの野山にある桑の実、グミ、ユスラ、イタドリなども子供たちのおやつで、友達と遊びながら食べるのは楽しいものであった。
大人たちの間食といえば、大正十年ごろまでは沢庵を摘まみながら番茶を飲み、一息ついていた。
ソラ豆ができれば塩ゆでにして田圃へ持っていき、おやつにした。


「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行


副食

農家、商家を問わず、日常食の副食は四季折々の野菜類や豆類、
町内でとれる淡水魚、行商に来る魚屋から購入する小魚類が主体で、あくまでも地元で自給できる食材料が中心であった。
そして、「ばっかり食」という言葉に代表されるように、収穫時には同じ材料が毎回の食事に登場した。
忙しい田仕事の合間に作られるおかずは、手間のかからないものばかりであった。

 

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「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

炒り粉 
炒り粉と呼んでいるが、麦コガシ・ハッタイコともいう。
裸麦をほうろくで炒って粉にしたものを茶碗に入れ、塩または砂糖を加えて、熱湯あるいは水を注いで箸でかきま
ぜて食べるる。

流し焼き
小麦粉を鍋または鉢に入れて水でかくか、砂糖を加えてかきまぜ、 ほうろくに流して蒸して食べる。

 

 

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