水落に茶畑があった。
そこから茶を摘んで帰り、蒸したり、干したりしてお茶にしていた。
金のヤカンから(茶飲みでなく、ご飯の)お椀に注いで飲んでいた。
村の寄合など、よその人が来る時は購入した茶葉を使っていた。
その時は急須を使い、炭も購入したカタズミを使っていた。


(父の話)
茶畑
何処のウチもそうじゃがお茶は植えとった。
ありょう、ちょっと熟むして干すとエエ番茶になりょうた。
昔はみんな、そうしょうた。
2000・5・14

「岡山ふだんの食事」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 平成12年発行
茶
江戸時代末期に国民的飲料になった。
畑の畔とか岸などに、チャの木を何本か植えておく。
春には新芽を摘み、冬の12月には軸から刈り取って,葉とともに刻み、蒸して干す。

「鴨方町史」
たいていの家では、畑のギシなどに茶樹を植えており、自給する。

「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行
茶
畑の(キシ)などに、茶の木を何本か植えておいて、春には新芽を摘む。
冬十二月には軸から刈り取り、 茶葉とともに刻み、平釜で蒸して(炒って)干す。

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男 農山漁村文化協会 昭和62年発行
茶
五月二十日ごろから摘みはじめ、摘んだ日の夕方には茶に仕あげる。
葉は湯通しをして固くしぼり、むしろの上で手もみをする。
丸めこむように ていねいにもむ。
これをむしろに広げ、荒熱がとれるていどに天日で乾かし、平釜で煮る。
これを二、三回 くり返し、最後にほいろに入れてほうじる。
ほいろは木枠に渋紙を張ってつくり、火鉢の上につるして使う。
ふだん飲む番茶は、生葉をそのまま平釜で煎り、しんなりしたらもみ、さらに平釜で煎る。
途中もろぶた (浅い木箱)にとりながら、からからになるまで煎りあげる。
茶の木
茶の木はどこの家でも四、五本、畑のけし (境)に植えてある。
初夏から夏にかけて、大きな厚い葉をむしって、 大釜に湯をたぎらしたところへ入れ、一回ひっくり返したら打ち上げ、陰干しにする。
よく乾いたら袋に入れてとっておき、少しずつほうろくで煎ってほうじ茶にして使う。
茶
新茶は、五月下旬から摘みはじめる。 手先は、茶渋などでまっ黒くなる。
お茶の製法は家によって少しずつ異なる。
一般的には新芽をじかに厚なべで空煎りし、葉がしんなりしたら、茶むしろでもむ。
冷めたらまた空煎りしてもむ。これを三回くらいくり返し、日陰に広げて乾燥させる。
別の方法として、最初だけは新芽を蒸したりゆでたりし て、固くしぼってもみはじめる家もある。
ほどよく乾燥したら、焦がさないように、弱火で白い粉が吹くまでに気長に火を当ててから、缶に入れて保存しておく。
お仏飯と一緒に仏さまに毎日供えるお茶湯は、この新茶でつくる。

「江戸の食生活」 原田信男 岩波書店 2003年発行
江戸の茶
日本における茶の歴史は、酒に較べればかなり新しいものであるが、すでに奈良時代から茶と呼ばれるものが飲まれ、平安時代には畿内でも茶の栽培が行われていた。
しかし民間には普及せず、 鎌倉期になって禅僧が中国から移入したことで喫茶の風が広まった。
その後、民間にも普及していき、近世以前においても茶はかなり楽しまれていた。
嗜好品といっても、茶は酒やタバコに較べれば刺激性が弱いことから、比較的自由にのまれてはいたが、それでも近世社会に規制がまったくないわけではなかった。
法令として茶を禁じたものはないが、いわゆる“慶安の御触書”に「酒・茶を買のみ申間敷候、妻子同前之事」とあり、
支配者側からする農民の理想的な姿を示した百姓身持書で、
支配者側は農民が茶を楽しむことを好ましく思わず、贅沢で怠惰なイメージをもっていたことがわかる。
特に農民の女性の飲茶に関しては、一般通念としては否定的で、茶が農村に広まりつつはあったが、まだ 日常茶飯事にまでは至っていなかったことがうかがわれる。
