縄文人の食べ物は、山の幸や海の幸を謳歌していたようだ。
広い国土に人口がたったの3万。
農耕が始まり人口は推定30万人になったようだ。
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「日本の風土食探訪 市川健夫 白水社 2003年発行
縄文人の食生活
木の実が主食だった縄文人
縄文人は海辺に住んでいた人びとを除くと食物摂取量の六割までが、野生植物であった。
縄文時代における主食は山栗・鬼胡桃・どんぐり(小楢・水楢の実)などの堅果類(ナッツ)であった。
このような木の実は、西日本の椎や樫の樹に代表される照葉樹林帯より、東日本のブナ・ミズナラ帯 が豊かであった。
そこで縄文の大遺跡は青森市の三内丸山遺跡、長野県茅野市の尖石遺跡のように、撫・水楢に代表される東日本の夏緑林地帯に存在している。
縄文時代日本列島でもっとも人口が多かったのは、温暖な気候で木の実の生産が多かった縄文中期(5.000~4.000年前)であった。
そのころの人口は30万と推定されているが、その2/3は東日本に暮らしていた。
楢などの落葉樹の結実は、その年の気候の寒暖、台風の有無などの気象条件によって豊凶差があった。
大量に採取した木の実は、水に浸して虫を殺した。
この作業を現代人は「虫殺し」といっているが、 天日乾燥した後、大地に穴を掘って貯蔵庫にしたり、屋根裏や火棚に貯えた。
山栗や鬼胡桃・撫の実は、タンニンが少ないのでそのまま食べられた。
栗は甘味があってうまいので、三内丸山遺跡では栗がすでに栽培されていた。
縄文農耕でつくられた作物
かつて、
縄文時代には農耕は行なわれず、弥生時代から稲作が始められたと考えられていた。
ところが、最も高度な農業である稲作が最初に出現するのではなく、
畑地でも容易に栽培できる蕎麦・大豆・牛蒡・荏胡麻などの作物から、縄文時代、既に農耕が始められていた。
島根県飯石郡頓原町は中国山地の山間部にあるが、ここから一万年前の蕎麦の花粉が発見された。
また四国山地の高知県高岡郡佐川町では、9300年前の蕎麦花粉が出土している。
これらの事実は 縄文草創期に蕎麦が栽培されていたことを意味している。
縄文時代の畑は常畑ではなく焼畑であったが、蕎麦・荏胡麻とともに、蕪や蘿葡が焼畑の適作物であった。
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