しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

じゃがいも

2024年03月14日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

ジャガイモは、もちろん栽培していたが、何か印象が薄いというか弱い。
サツマイモや里芋にくらべ地味。
サラダを食べるようになってから、やっとジャガイモが思い浮かぶ。

「三度芋」とか「弘法芋」とか呼んで収穫し、ヘードラを担いで運搬していたが、
あのジャガイモを母は何の料理に使っていたのだろう?

 

 

「日本の伝統野菜」宮崎書店 板木弘明 2015年発行


じゃがいも

日本には、江戸時代にジャガタラ(今のインドネシアの首都ジャカルタ)からやって来たオランダ人によって伝わりました。 
美しい花をつけるので、当初は見て楽しむための植物だったようです。
明治時代に、北海道の川田龍吉男爵という人がイギリスやアメリカから取り寄せたいもを作ったのがきっかけで、その後、北海道に栽培が広がりました。
日本ではじゃがいもの品種改良がさかんに行われています。 
ポテトチップスなどの加工向け品種もたくさんあります。


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

ジャガ薯
ジャガタライモともいう。
県内ではキンカ薯、弘法薯、二度薯、三度薯、ジャガ薯、馬鈴薯などという。
笠岡市吉田では主として弘法薯と呼んでいる。
春、秋の二季の他に初夏の候に一番多く収穫するが、種取り分といって秋にも収穫する。
主屋や納屋の土間隅などに、そのまま置いて保存していることが多い。


「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

ジャガイモ 
キンカイモとかコウボウイモ・三度芋ともいう。
煮物にしたり、醤油飯とか五目飯に入れる。

「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

ジャガイモ(馬鈴薯)
南米アンデスが原産。江戸時代初期オランダ人によって長崎に渡り、
「ジャガタライモ」と呼ばれました。
明治以降に栽培されるようになりました。
春先に出るのが新ジャガ。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葡萄(ぶどう)を食べる

2024年03月14日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

岡山駅で「マスカット娘」がいて青い粒の葡萄を売っているのは知っていた。
青い葡萄のマスカットを食べてみたいものだと、夢であこがれていた。


家では、葡萄を栽培していたので、その葡萄をよく食べた。
キャンベルとデラウェアを主に作っていた。
そのどちらも好きだった。
デラウエアが「種なしぶどう」に変ったが、
食べてみると、種があった。
「種小さいぶどう」が正しい?

父が毎年葡萄酒を作っていたが、いつの年か(昭和40年代)に捕まって(茂平の葡萄農家全員)からは
葡萄酒を造るのを止めた。

 

 

 

・・・・


「江戸の食生活」 原田信男 岩波書店 2003年発行


甲州葡萄
先の『広益国産考』は、蜜柑に続いて葡萄を挙げ、「ぶどうは甲州より作りて多く江戸へ出しふ事おびたし。
わづかの屋敷内に作りても相応に益となるものなり」と記している。

もともと葡萄には薬効があり、中国の本草書に取り上げられていることから、「倭名類聚抄」、
『伊呂波字類抄』や『医心方」などに、エビカツラもしくはエビカツラノミとして記載されている。。
薬用であった葡萄が、おそらく作物として栽培されるようになるのは、やや遅れて中世も後期の ことで、江戸時代になって広まったものと思われる。

近世前期には甲州勝沼の葡萄が当地の名産として、広く知れ渡っていた。
なかでも甲州葡萄の名産地は、勝沼宿と上岩崎村・下岩崎村・菱山村で、勝沼宿の荷問屋から神田の青物市場専用問屋に直送されていたが、
幕末には勝沼産以外の葡萄が大量に江戸へ移入されるようになった。
しかし勝沼産は独自の評価を得ていたようで、水菓子問屋が、勝沼以外の甲州葡萄や他国のものは取り扱わないこととするので、確実に勝沼産の葡萄をまわしてくれるよう願い出ている。
もともと、こうした甲州葡萄は幕府への献上用で、その余りを販売する許可を与えられて、先の水菓子問屋たちが扱っていた。
維新後は、殖産興業政策の下で葡萄生産に力が注がれた。
そして明治10年には、勝沼に葡萄酒製造所が設立されて、日本におけるワイン醸造の嚆矢となったのである。

・・・

 

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行

果物の王様、葡萄

人類の歴史の中で最も多くつくられてきた果実は葡萄で、年間7000万トン近い生産高を誇っていた。
1980年代からオレンジ類(日本の蜜柑も含まれている)の生産が伸びて、葡萄の生産は減って第二位となったが、それでも6050万トン台を維持している。

ワインの歴史は古く、旧約聖書にも出てくる。 世界の葡萄の生産量の3/4は、ワイン・ブランデー・ジュースなどの加工飲料に向けられている。
これに対して、日本のは加工用に向けられるのはその一割にすぎない。

古くから日本の山野の至るところに山葡萄が自生し、人間と野生動物の格好の食物になっていた。 
葡萄の栽培は文治2年(1186)、平安末期に甲斐国岩崎(現在の勝沼町)で、自生の甲州種葡萄 をつくったことに始まるという。


わが国の葡萄園の仕立て方をみると、棚作りが一般的である。
一方棒作りは、青森県津軽平野や北海道の十勝平野の葡萄園に見られる程度である。 
世界的にみると葡萄栽培は棒作り、垣根作りが一般的である。

 

・・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

葡萄
日本には12世紀に中国から渡来した葡萄を甲州で繁殖させたのが甲州葡萄だといわれている。
大粒な優良な葡萄は明治以降の出現である。
岡山市津高の篤農家・山内善男、大森熊太郎両氏は明治19年に硝子室を建設し、北アフリカ産のマスカット・オブ・アレキサンドリアの栽培を始めた。


・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葡萄(ぶどう)を作る

2024年03月14日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

ブドウ作りはすっかり変わった。
粒が大きくなり、
傘つきから、今はハウス栽培が主流。
昭和40・50年代にタバコ畑からブドウ畑に変わったケースが多いように感じる。

父母が作っていたブドウは、
零細で、傘なし、キャンベルとデラウェアが主だった。

・・・

ブドウ作りは手間がかかるのか?
手伝うことが多かった。

冬は袋作り(桃・枇杷・葡萄)。
春のデラウエアのジベレリンに漬ける。
夏秋の集荷前の房から悪い粒を落とす作業。


葡萄畑に行くと、棚で栽培しているので中腰になる。
手伝いが終わると、いつも腰がいたくなっていた。

 

 

 


(父の話)

・・・・

葡萄はよう(品種が)変わる。

2000・12・17


・・・

茂平の葡萄は「きゃん」と「デラ」がおもじゃった。

ネオマスカット
(茂平には)なんぼかネオマスを植えとった人がおるけど、ようなかった。


コールマン
まぁさんがコールマンやっとるけど、一軒だけなんで値よう買うてくれん。
買うほうは量がなんぼかいる。
変わったものをおいとくと、いちいち説明ばぁせにゃあならん。


2001年7月23日

・・・

 

ブドウ畑の棚
(葡萄畑はコンクリート柱をたてらかせ、番線を張りそれに枝をはわす)

柱を立て、それぇハリガネを
ハリガネは主なとこは太いのをし、間にゃあ細いのをしょうた。強いけい朽ちて切れることはなかった。
作る時は骨がおりょうた。

木はええようにつくれば20年でももつ。


2001・2・11


・・・・

キャンベル

ウチにもキャンはようけい植えとった。

ありゃぁえかった。
病気にゃあ強いし。

 新涯の畑にキャンを植えとったら、早ぅでる。
ほれじゃけぃ、ボニに出るけぃえかったのぅ。

おいしゅうのうても、値がえかった。
果物は出る時期によるけぃのう。

袋は底を空けて。


2001年7月23日

・・・

花が咲いたらアブランコがくる。葉へ。葉を食う虫じゃ。
食わさんように予防して葉を保つ。

せいから実も食う。実を食わわさんように予防する。せいだけのことじゃ。
(袋掛けをしないと)やっぱり色が違う。掛けといたほうがけっこうな。


2001・2・11

・・・


茂平のぶどうは、何故すくなくなったのだろうか?)

茂平もようけい植えとった。
せいが、わりかた安ぃ。

あほうらしい、安いけえ作らんようになった。

2002年8月24日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする