しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

セブンイレブンハートインJR笠岡駅店

2024年03月10日 | 無くなったもの(笠岡市)

場所・岡山県笠岡市笠岡・JR笠岡駅構内
駅内移転・最終営業日・2024.3.6
撮影日・2024.3.4
 

セブンイレブンハートインJR笠岡駅店は無くなったのではなくて、駅内移転。

 

笠岡駅の待合所にあった「セブンイレブンハートイン」は2024年3月6日で終了した。
同じ日に、
同じ駅構内に移転した。

今日(2024.3.10)笠岡駅に行ったら移転していた。
元の店は厚い壁で隠されていた。

 

・・・

 

2024年3月6日移転オープンした「セブンイレブンハートインJR笠岡駅店」

 

撮影日・2024.3.10

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おさふねサービスエリア

2024年03月10日 | 無くなったもの

場所・岡山県瀬戸内市長船町長船
全館建て替えの為・最終営業日・2024.5.6
撮影日・2022.4.24

 

「おさふねサービスエリア」は、無くなるのでなく、全館建替えする。

 

国道2号線沿いで、岡山県で一番有名なドライブインが「おさふねサービスエリア」。

新幹線を見る。
吉井川を眺める。
温泉に入る。
食事をする。
土産物を買う。
ドライブ休憩する。
で、人気のドライブイン。

その大きなドライブイン「長船サービスエリア」が全館建替え工事をするそうだ。
リニューアルオープン時期は2026年予定。

新しい「おさふねサービスエリア」は楽しみだ。
笠岡からはちょっと遠いので、たびたびの訪問はできないが、
再開を期待して待つ。

 

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トウモロコシ

2024年03月10日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

笠岡や岡山県・広島県では、トウモロコシのことを「ナンバ」と言う。
ナンバは子供のおやつだった。

サトウキビやユスラウメやビービーと同じで、
親が子の「おやつ」ために植えていた。

食べ方は今と同じで、茹でたのを、実の部分だけ丸かじりしていた。
見た目も美味そうで、ナンバが嫌いな子はいなかった。

 

 

小学校の高学年か、中学生になった頃、学校で
「トウモロコシは穀物で、飼料である」と習ったが、
飼料の意味が理解できなかった。
牛や馬やニワトリは、家から出た物、作った物を食べていたから。

その頃、父が養鶏を始めた。
そのエサを、農協で紙袋を何袋か購入するようになった。
紙袋を閉じた糸を抜くと、ナンバと粉が混ざったものが出てきた。
それでやっと、”飼料”を理解出来るようになった。

 



「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

トウモロコシ
米・麦とともに主食としても食べられる世界三大穀物。

 

「食の歴史と日本人」  川島博之  東洋経済新報社  2010年発行

穀物の輸入

1960年代にはいると大量のトウモロコシがを輸入することによって、
庶民も日常的に肉を食べられるようになった。

日本人は、敗戦による混乱期だけでなく、戦前においても肉をほとんど食べていなかった。
特に、農村部での消費量は少なかった。

日本には草地がほとんんどないから、放牧によって肉を生産することができなかった。
また、当時は冷凍技術もそれほど発達してなく、肉を大量に輸入することも難しかった。
輸入した飼料穀物を用いて肉を食べたいという願いは短時間で叶えられた。
化学肥料により、米国のトウモロコシ生産量が大きく増えたことが挙げられる。
米国はトウモロコシの輸出先を探していた。

当時の農林省が副業として農家に畜産を奨励したことがある。
昭和30年代に、農民は都市住民に比べて貧しくなっていた。
農林省はその対策として、
農家の庭先で牛や豚を飼育させて副収入を得させることを考えた。

輸入したトウモロコシで肉を作ることは、米国、日本の農民、消費者のすべてにとって都合がよかった

肉を十分に食べられるようになったことにより、国民の栄養状態は大きく改善された。
その結果、戦前において国民病とされた肺病や脳溢血により死亡する人は大幅に減少した。
これは医療水準の向上と共に栄養改善があったればこそ達成されたものといえよう。
昭和10年に46.9歳であった男子の平均寿命は、平成20年には79.3歳になった。



 

 

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サツマイモを作る

2024年03月10日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

芋畑で掘った芋はヘードラで荷車に運んだ。
ヘードラがもっとも運んだ物は芋類だった。

 

(ヘードラ 「城見のあゆみ」から)

 

サツマイモは、あまりに日常過ぎた作物だった。
そして、それを食べて「おいしい」と思って食べたことは今まで一度もない。
うまいと思ったのは、鹿児島のいも焼酎だけだ。
(鹿児島県鹿屋で「薩摩大海」、あれを毎晩飲んでいた)

 

 

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「日本食物史」  江原・石川・東四柳  吉川弘文館 2009年発行


さつまいもは、コロンブスがアメリカ大陸からスペインに持ち帰ったとされ、
日本には、慶長11年(1606)に琉球へ伝わったものが、宝永2年(1705)に薩摩に伝わる。

 


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「日本の伝統野菜」 宮崎書店 板木弘明 2015年発行

さつまいも

飢饉のときに
人々の命を救った

暑い気候を好み、やせた土地で育つのが特徴のさつまいもは、17世紀の初めに中国経由で琉球(現在の沖縄)に伝わると、
そこから、種子島や薩摩(現在の鹿児島)に広がり、南九州で栽培されるようになりました。
18世紀になり、江戸の蘭学者である青木昆陽がさつまいもの栽培を全国に広めたため、
度重なる飢饉のときにも、さつまいもは多くの人々の命を救うこととなりました。
日本では品種改良がさかんに行われ、現在では昭和60年以降に作られた品種が多くなっています。


さつまいもの父
「青木昆陽」
成功させたのが青木昆陽です。
全国で作られるように なったことから、農民たちは「甘藷先生」とよぶようになりました。
亡くなってからは「いも神さま」として敬われるようになったそうです。

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「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版より


サツマ芋
サツマ芋・イモ・琉球芋・カラ芋・唐人芋などと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩からサツマ芋を取り寄せて普及し、その遺徳は芋代官と呼ばれた。
荒地、開墾地もけっこう育ち、豊凶が少なく、税の対象にもならなかった。
熱帯作物で腐りやすいので、いも壷を床下に大きな竪穴を掘り小麦藁を立て,底にはスクモを敷きサツマ芋を並べ、そのまた上にスクモを入れていた。
こうして年中食べる分を入れておいた。


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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

薩摩芋
サツマイモ、イモ、琉球芋、カライモなどと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩から薩摩芋を取り寄せて普及に努めた。
笠岡市には芋博物館があった。

 

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(いも代官さま・井戸平左衛門 「笠岡市郷土館」 2023.10.14)

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「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

サツマイモ(薩摩芋・甘藷)
原産地・メキシコ、ガテマラ
アメリカからヨーロッパに渡り、
日本には中国から宮古島に渡ったのが始まり。
九州南部で栽培され「薩摩の芋」として全国に定着した。

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「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行 その2

さつまいも

 さつまいもは、伝来以来、島の人口増をもたらしたといわれるほどで、水田の乏しい島の主食をまかなった。 
「島のいも食い」ということわざは、昔の食生活を端的にいいえている。
広島県のある農事調査の記録に「沿海ノ畑地及ビ島嶼ハ地味乾椿ニシテ、従前ハ大小豆、粟及ビ蕎麦等ヲ作ルニ過ギザリ。
甘藷伝来シテ之ヲ栽培シ、混炊シテ常食トナス」と、島の食生活を報じている。
さつまいもは、寛文年間(1661~1673)に安芸 国竹原の村上休廣が、琉球から竹原に持ち帰っている。
安芸郡蒲刈の鎌田孫右衛門は、宝永七年(1710)、 大三島から移入した。
また明治33年、「七福芋」をアメリカから入れたのは、安芸郡矢野の久保田勇次郎である。 
さつまいもの常食は、享保年間から昭和初期まで続いている。
大正初期以来、経済の好転もあって、麦、米食がかなり進むが、
島しょでは依然としてさつまいもが重要な主食、副食となったことに変わりはない。
食べ方は、いも飯、いも粉だんご、いもそば、いもうどん、いも菓子などで、煮たいもは朝昼のごはんの補い、間食として食べる。

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「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

野菜・芋類

どこの家でも自家用野菜や芋類を栽培する畑を家の近くに持っていた。
一年中畑を遊ばせることなく、四季折々の野菜が計画的に栽培された。
夏野菜は梅雨明けごろから最盛期を迎えた。
初夏から初秋まで、ナスや南瓜、タマネギ、カンピョウの煮 物、キュウリの酢の物、ナスやキュウリ、白瓜の浅漬けなどが作られ、毎回の食事に登場した。
そして、西瓜は暑さ凌ぎになくてはならないもので、甘くておいしいものであった。
トマトも大正初期あたりからあったが、まだまだ珍しいものであったという。
盆明けには夏野菜を片付け、人参、大根、ネギ、白菜、水菜、ワケギ、春菊、カブなど、秋から冬にかけ ての野菜の種を播いた。
とくに、大根は一年中の漬物や切り干し大根に加工されるため、たくさん栽培された。
夏野菜同様に、煮物、お浸し、汁物、漬物などに調理・加工した。

芋類としては、ジャガイモや里芋を煮材として栽培した。
ジャガイモは夏と冬の二回の収穫があり、サツマイモが主食の代用として利用されたのに対し、ジャガイモは一年中副食として煮物にした。
また、里芋は 秋から冬にかけての煮材の中心であった
この他にも、菜種やシソ、ラッキョウ、梅、胡麻など、たいていの物は栽培していた。


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