芋畑で掘った芋はヘードラで荷車に運んだ。
ヘードラがもっとも運んだ物は芋類だった。
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(ヘードラ 「城見のあゆみ」から)
サツマイモは、あまりに日常過ぎた作物だった。
そして、それを食べて「おいしい」と思って食べたことは今まで一度もない。
うまいと思ったのは、鹿児島のいも焼酎だけだ。
(鹿児島県鹿屋で「薩摩大海」、あれを毎晩飲んでいた)
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「日本食物史」 江原・石川・東四柳 吉川弘文館 2009年発行
さつまいもは、コロンブスがアメリカ大陸からスペインに持ち帰ったとされ、
日本には、慶長11年(1606)に琉球へ伝わったものが、宝永2年(1705)に薩摩に伝わる。
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「日本の伝統野菜」 宮崎書店 板木弘明 2015年発行
さつまいも
飢饉のときに
人々の命を救った
暑い気候を好み、やせた土地で育つのが特徴のさつまいもは、17世紀の初めに中国経由で琉球(現在の沖縄)に伝わると、
そこから、種子島や薩摩(現在の鹿児島)に広がり、南九州で栽培されるようになりました。
18世紀になり、江戸の蘭学者である青木昆陽がさつまいもの栽培を全国に広めたため、
度重なる飢饉のときにも、さつまいもは多くの人々の命を救うこととなりました。
日本では品種改良がさかんに行われ、現在では昭和60年以降に作られた品種が多くなっています。
さつまいもの父
「青木昆陽」
成功させたのが青木昆陽です。
全国で作られるように なったことから、農民たちは「甘藷先生」とよぶようになりました。
亡くなってからは「いも神さま」として敬われるようになったそうです。
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「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版より
サツマ芋
サツマ芋・イモ・琉球芋・カラ芋・唐人芋などと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩からサツマ芋を取り寄せて普及し、その遺徳は芋代官と呼ばれた。
荒地、開墾地もけっこう育ち、豊凶が少なく、税の対象にもならなかった。
熱帯作物で腐りやすいので、いも壷を床下に大きな竪穴を掘り小麦藁を立て,底にはスクモを敷きサツマ芋を並べ、そのまた上にスクモを入れていた。
こうして年中食べる分を入れておいた。
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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
薩摩芋
サツマイモ、イモ、琉球芋、カライモなどと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩から薩摩芋を取り寄せて普及に努めた。
笠岡市には芋博物館があった。
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(いも代官さま・井戸平左衛門 「笠岡市郷土館」 2023.10.14)
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「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行
サツマイモ(薩摩芋・甘藷)
原産地・メキシコ、ガテマラ
アメリカからヨーロッパに渡り、
日本には中国から宮古島に渡ったのが始まり。
九州南部で栽培され「薩摩の芋」として全国に定着した。
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「聞き書 広島の食事」 神田三亀男 農山漁村文化協会 昭和62年発行 その2
さつまいも
さつまいもは、伝来以来、島の人口増をもたらしたといわれるほどで、水田の乏しい島の主食をまかなった。
「島のいも食い」ということわざは、昔の食生活を端的にいいえている。
広島県のある農事調査の記録に「沿海ノ畑地及ビ島嶼ハ地味乾椿ニシテ、従前ハ大小豆、粟及ビ蕎麦等ヲ作ルニ過ギザリ。
甘藷伝来シテ之ヲ栽培シ、混炊シテ常食トナス」と、島の食生活を報じている。
さつまいもは、寛文年間(1661~1673)に安芸 国竹原の村上休廣が、琉球から竹原に持ち帰っている。
安芸郡蒲刈の鎌田孫右衛門は、宝永七年(1710)、 大三島から移入した。
また明治33年、「七福芋」をアメリカから入れたのは、安芸郡矢野の久保田勇次郎である。
さつまいもの常食は、享保年間から昭和初期まで続いている。
大正初期以来、経済の好転もあって、麦、米食がかなり進むが、
島しょでは依然としてさつまいもが重要な主食、副食となったことに変わりはない。
食べ方は、いも飯、いも粉だんご、いもそば、いもうどん、いも菓子などで、煮たいもは朝昼のごはんの補い、間食として食べる。
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「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行
野菜・芋類
どこの家でも自家用野菜や芋類を栽培する畑を家の近くに持っていた。
一年中畑を遊ばせることなく、四季折々の野菜が計画的に栽培された。
夏野菜は梅雨明けごろから最盛期を迎えた。
初夏から初秋まで、ナスや南瓜、タマネギ、カンピョウの煮 物、キュウリの酢の物、ナスやキュウリ、白瓜の浅漬けなどが作られ、毎回の食事に登場した。
そして、西瓜は暑さ凌ぎになくてはならないもので、甘くておいしいものであった。
トマトも大正初期あたりからあったが、まだまだ珍しいものであったという。
盆明けには夏野菜を片付け、人参、大根、ネギ、白菜、水菜、ワケギ、春菊、カブなど、秋から冬にかけ ての野菜の種を播いた。
とくに、大根は一年中の漬物や切り干し大根に加工されるため、たくさん栽培された。
夏野菜同様に、煮物、お浸し、汁物、漬物などに調理・加工した。
芋類としては、ジャガイモや里芋を煮材として栽培した。
ジャガイモは夏と冬の二回の収穫があり、サツマイモが主食の代用として利用されたのに対し、ジャガイモは一年中副食として煮物にした。
また、里芋は 秋から冬にかけての煮材の中心であった
この他にも、菜種やシソ、ラッキョウ、梅、胡麻など、たいていの物は栽培していた。
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