しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

サツマイモを食べる

2024年03月08日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

サツマイモのフカシイモは間食の代表というより、大代表だった。
おやつといえば、フカシイモ。
腹が減ったといえば、フカシイモだった。

フカシイモは戸棚の皿に、”商品切れ”という状況は一度もなかった。
大人も子どもも、おやつ・副食・常備食・よーめしで、家族の必需品だった。
イモは、どこの家にも穴を掘った芋床に保存していた。

・・・

まんが雑誌の漫画に
「焼き芋」を買う、町の少女がいた。

町の人は、お金を出してまで、焼き芋を買うのだろうか?
それを食べて「おいしー」というのは本当だろうか?
ちょっとしたカルチャーショックのようなものを感じた。

 




「矢掛町史」 矢掛町 昭和55年発行

畑どころでは米の代用によく食べた。
また、第二次大戦中、砂糖の代用にイモヨウカン、イモアメを作った。
サツマイモの利用法には、
フカシイモ
イモ粥
煮つけイモ
イモ飯
揚げイモ
などがある。

 

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

サツマイモ
サツマイモは大切なご飯の足しであった。
どこの家でも三畝も四敵も芋を栽培し保存した。 
冬の寒さで傷む(腐る)ので、納屋や下の間の下に穴を掘って芋床(芋釜)を作り、芋を山のように入れて、間にすくもを入れて保存した。
三月を過ぎると気温が高くなり、そろそろ傷みが心配になった。
ゆでたサツマイモは、お茶漬けのご飯の代用や夜食にもなった。
とくに戦時中にはサツマイモ、ジャガイモ、南瓜は人々の命を支えた大切な主食であった。



岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行


てんぷら
サツマ芋は蒸し芋・煮つけ芋・揚げ芋(芋の天麩羅)などのほか、
カンコロといって、輪切りにして蒸し、干す (日生町頭島・大多府島、吉永町神根本・備前市鶴山・笠岡市神島・真鍋島など)。
備中西南部の地方では、朝食はサツマ芋の蒸し芋であった。 
新見市豊永や草間でも、ご飯を食べる前には、ご飯のシタシキにまず、サツマ芋を食べた。

「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版

サツマ芋
サツマ芋・イモ・琉球芋・カラ芋・唐人芋などと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩からサツマ芋を取り寄せて普及し、その遺徳は芋代官と呼ばれた。
荒地、開墾地もけっこう育ち、豊凶が少なく、税の対象にもならなかった。
熱帯作物で腐りやすいので、いも壷を床下に大きな竪穴を掘り小麦藁を立て,底にはスクモを敷きサツマ芋を並べ、そのまた上にスクモを入れていた。
こうして年中食べる分を入れておいた。

 


「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行 その2


いもは日常の食べもので、生いもは蒸しいもの形で最も多く食べられ、いもに麦、または米を混ぜたいもごはんやいもがゆもつくられる。
いもを干してつくるかんころは小豆やささげと煮て、おけじゃにする。


(母の話)

芋あめ

芋あめは売りにきょうた。
たくみさんのとこで。戦後神戸から帰ってきて。
おばさんは「テンプラはどうですか?」いうて売りにきょうた。

おじさんは自転車でトウフを売りにきょうた。
トウフは朝作って、それから芋飴をつくりょうた。

 2002年10月14日



 

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お産の食事

2024年03月08日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

女性の出産は、長く妊婦も生まれる子も、双方とも生死を掛けた面があった。
そのため、さまざまな禁忌が存在し妊婦の負担を一層増していた。

さらに、田舎の農家の嫁は、農業をしながら大家族の雑用までこなしの半奴隷状態。
お産となれば、”産まれる間際まで仕事をしていると安産”という言い伝えか、実態かで、
(「ぎりぎりまで畑にいた」と母も言っていた)
体力、気力とも限界での出産だったようだ。

 

「鴨方町史」 鴨方町 昭和60年発行

お産


妊娠中には日常生活の上で、さまざまな忌み慎しむことがあった。
妊婦が死人に触ったり、葬式に出会ったとき、最初に手を当てた同じところに黒アザや青アザのある子が生まれ、 火事を見ると赤アザのある子が生まれるという。
これは町内はもちろん、県下でも広くいわれている俗信で、これを防ぐには、常に帯の間か懐に鏡を表に向けて入れておくとよい。
妊婦が幕をまたぐと難産する。
女は普段でもまたぐものではない。
妊婦の家でクドを 塗るとイグチの子が生まれる(日原鴻ノ巣など)。 薪を逆さまにくべると、さか子が生まれる(森迫など)。
食べ物についてもやかましくいわれ、妊婦がタコを食べるとイボのある子や骨のない子が生まれ、 
タマゴを食べると毛のない子が生まれる。
ブドウを食べるとブドウ子が生まれるなどといった。
そのほか、肉を食べるな、柿を食べるな、油物は悪いなど、こうした禁忌は、現在でもかなりいわれている。

昭和二十年代後半か三十年代前半のころまでは、自宅(婚家)で産む人がかなりいたという。
ところで、昔のお産は「暗いところがええ」といって、産室には納戸があてられ、
たいていは骨を上げてムシロを敷き、その上に灰布団を敷いてボロを敷いた。
お産は座ったまま産むいわゆる座麗で、ブッケがつく(産気づく)と産室へ入った。
産むときは恵方に向き、火燵の櫓につかまって、後ろから姑かトリアゲさんが産婦を抱えた。
昔はこのとき、天井からぶらさげた産綱を握って力んだといわれる。

 

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

お産

子どもは嫁いだ家で産む。
産室には納戸(奥まった薄暗 い部屋)が使われる。 
ふつうは畳の上で産むが、家によっては畳を上げてむしろの上にあくた (やわらかいわらくず)を敷き、
さらにその上に綿なしの布団やぼろ布を敷き、 やぐらごたつを支えにしてお産をする。 
産婦が産気づくと体力をつけるのと、「すべり出る」「つるつる生まれるように」との願いから、そうめんや生卵を食べさせる。
陣痛で痛くて食べる気もしないが、食べておかなければという気持で食べる。
産を早めるといって、ほおずきをつぶして湯をかけて食べさせる人もある。
あく布団(灰を詰めた布団)を敷く家もある。
あく布団は汚物と一緒にすてられるので衛生的でもある。
豊田郡豊田村では、昭和のはじめころから助産婦を職業としている人がいるが、一般には経験のある近所のおばさんをとりあげばあさんとして頼み、
お産の世話と、産後一週間くらい、赤ん坊に産湯をつかわせにきてもらう。
女の子の場合、家によっては器量よしになるようにと、産湯を使うときに生卵を溶いて、それで顔を洗ってやる。 
また山仕事に行って、うるしなどにかぶれないようにと、 産湯に汁わんなどの漆器を入れたりもする。


産婦は、ずいき (里芋の茎を干したもの)の入っただんご汁を一週間くらい食べる。
おなかがゆるんでいるので少しずつ一日に七回くらいに分けて食べる。
これを食べると 悪血が早くおり、乳の出がよくなる。
産後三日以内にちぬ(黒鯛)の吸いものを食べると古血を流すといわれる。
高価な魚なので買えない人もいる。
おかゆややわらかく炊いた雑煮、麩の味噌汁も食べる。
青魚は「吹き出ものがする」といって食べさせない。
油揚げもいけない。
漬物も浅漬はだめで、古漬や味噌漬を食べさせる。
倉橋村では、漬物は、たくあんの塩出しをして 味噌漬にしたもの以外は食べてはいけないという。
食べものではないが、産後は置き薬の中将湯を煎じて飲ませる。
からだが温まるし耳鳴りや頭痛にもよく効き、血をしずめるという。 
家になくなれば隣りに借りに行ってでも飲ませる。

子どもが生まれて二、三日すると、親類や隣り近所は「子喜び」に行く。
産着の手とおしやもちを持って産室を見舞い、祝いをいう。 
もちは一日 (二升)くらいをひらもち(白もち)とあんもちの二とおりにして持って行く。
ひらもちは産婦に、あんもちは家族のためである。
あんは塩あんである。


出生から初誕生までの食事
ごこうとうぶ飯
赤児が生まれてはじめて口にするものは、まず母乳のように思われるが、世羅郡では、母乳を飲みはじめる前に、 
ごこうを綿にしませて吸わせる風習があり、これを飲ませると胎毒が消えるという。 
ごこうは、ふきの根を乾燥して粉にしたものを、かんぞうと一緒に煎じてつくる。 
大正ころまでは全県下にこの風習があったようである。

母乳が出ないときには、もち米の粉や玄米の粉を炊いて、どろどろにして飲ませる。
また「うぶ飯」といって、広島市付近では生まれるとすぐごはんを炊いて、なますをつくり、産神に供えて祝う風習がある。
このときは人々を招くようなことはしないが、産婆さんには酒をすすめ、必ず山盛りにしたごはんを食べ てもらう。
産婆さんは、ごはんをいただく前に、赤児に食べさせるまねをし、えくぼができるようにと、はしで赤児 の両ほおを軽く押す。

 

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砂糖を食べる

2024年03月08日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

小学校の時、校長先生が「虫歯の日」などの朝礼で、
甘い物を食べると、虫歯になるからほどほどに、というような話をしていた。
だが、
校長先生にいわれなくても、砂糖がはいった甘い物を食べることはほとんどなかった。

ナンキンやサツマイモが戦時中、砂糖の代わりの役目をしたというけど、
砂糖は高価で、
庶民は高度経済誌長期が始まるまで、ずっと砂糖はもったいないモノであり、贈答品であったような気がする。

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

砂糖
江戸時代末期になってサトウキビが作られ、砂糖の製造が始まった。
大正時代までは黒砂糖、昭和になって白砂糖をも買うようになった。
紋日のほかはほとんど用いなかったものである。


「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

砂糖 
たいていの家で、子供の間食用にサトウキビを植えていた。
軸を噛み、甘い汁を吸った。 
第二次世界大戦後には一時、サトウキビを作り、絞ってもらって砂糖にした。
第二次世界大戦前には、白砂糖と黒砂糖があり、
あんこ用には黒砂糖を使うことがあり、鮨の具には白砂糖を使った。
柏餅などには、あんこの代わりに黒砂糖を入れ、まるめるものもあった。
白砂糖は箱に入れ、三斤箱・五斤箱などとし、贈答品と しても用いられた。

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

サトウキビはサトウギといい、根から抜いて押し切りで一節ごとに切る。
歯で皮を むき噛む。
甘い汁を吸い、かすを吐き出す。トウモロコシは蒸したり、熱のなかに入れて焼く。醤油をつけることもあった。

 

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行


砂糖・油
また、砂糖は高価なもので、甘いものはご馳走であった。
油は普段はめったに使うことはなかったが、祭りのサツマイモの天ぷらなどを作る際 には購入して使用した。

 

 

「日本食物史」  江原・石川・東四柳  吉川弘文館 2009年発行


近世の食生活 日本料理の完成と普及
南蛮文化の渡来と明との交流

砂糖の輸入 
近世は江戸時代が中心となるが、信長の上洛から、徳川幕府が成立するまでの約30年間は、近世初頭として扱われることも多い。
ここでは、甘味と辛味文化をもたらした南蛮貿易による影響を中心にとりあげる。

砂糖は、奈良時代、胡椒とともに薬として中国より伝来した。 
天平勝宝六年(七五四)、来日し 唐僧鑑真の船積みに「胡椒、蔗糖、石蜜、蜂蜜、甘藷」(『唐大和上東征伝』)などがみえる。

 
しかし、その輸入量が増加するのは、近世初頭以降である。
明国より通商権とマカオでの居住権を 得たポルトガルは、マカオを足場に日本での布教活動を続け、いっぽうで元亀元年(1570)、長崎を貿易港と定め大型の船を寄港させた。

豊臣秀吉は外国貿易に統制を加えるため、朱印状を発給し、許可制をとった。
朱印船により 中国より輸入された飲食物は、砂糖、葡萄酒である。
その後、
江戸時代、砂糖が大量に輸入されていた。


大量の砂糖輸入に対し、金・銀・銅の流出を防ぐために、 八代将軍吉宗は国内産砂糖を奨励した。 
砂糖製法を中国の書から学び、「砂糖製作記』(1797)、 『甘蔗大成』(1837頃完)などが著述された。
全国の総生産量は明らかではないものの、薩摩藩などから大坂へ運ばれた。

 

 

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