しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡の中学校の制服が変わる

2024年03月15日 | 令和元年~

笠岡の中学校の制服がやっと変わるそうだ。
今日(2024.3.15)の山陽新聞に載っている。

中学生を見るたびに、この制服はいったい、いつまでつづくのだろう?
いつもそう思いながら見ていた。

今の制服ができた頃の中学生は、
頭にシラミ、
顔や手にイボ・ヒビ・ニキビ、
身体に蚤(ノミ)、
腹に蟯虫や回虫、ハラはいつもすきっ腹。
そういう時代から身につけている服。

いくらなんでも,制服は変えなければいい、というものではない。
変えない理由は、訳もなく、だらだらつづいたのだろう。


四半世紀前、男子生徒の髪の毛もそうだった。
だらだらと、丸坊主を強制してきたが、各地で裁判が起こりそうになって、急に長髪を認めた。

笠岡市に限ったことでないが、
教育関係者は、時代への対応があまりに遅いように思う。

 

・・・

山陽新聞  2024年3月15日


笠岡市内の公立8中に新制服


2024年度から新たなデザインの制服を導入する。 
性の多様性などに配慮した統一デザインとし、
トップスは男女ともにブレザー、
ボトムスはスラックスやスカートなど生徒が自由に選ぶことができる。


ネクタイとリボンは色やデザインが学校ごとに異なる。 
原則、新1年生から 導入し、3年間の移行 期間を設ける。

・・・

 

 

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葡萄酒を作る

2024年03月15日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

ものごころがついた時から、父は葡萄の季節の恒例のように「葡萄酒」を造っていた。

父の造る葡萄酒は子供も飲むことがあった。
お祭りや行事の時、祝いの日に飲んでいた。
甘酒を飲む感じで、アルコール分が少なかった。

酒好きの祖父は、焼酎と共に、父の葡萄酒も毎日のように飲んでいた。


時代が高度経済成長期になり、安全な飲食や、納税(当時とごさん10.5.3と呼ばれていた)が求められる時代となり、
それが茂平の農家にもおしよせた。
茂平名産の珍菓・干しイチジクは保健所から禁止され、
葡萄農家は税法違反で捕まった。

 

・・・

(父の話)

葡萄酒で捕まる

(密造していた葡萄酒が・・・・密造の意識は無いが・・・)長ぅおぃといたら醗酵してき、アルコール度が高おなってくる。
そしたら罰金くうた。3000円じゃったけぃのう?!

作ったのは隠しとったんじゃじゃけぃど、じいちゃんが飲むけぃ出しとったら。
来たら探すんじゃけいのう、台所を。

飲んだやつを見られてのう、罰金くうた。

(田舎で葡萄酒を調べると)ぼっこうでるんじゃ。
ウチがやられる、はるおさん方がやられる。
ぶどう作りょうる人は、なんぼうかこしらえる。


2000・10・8

 

「台所に敗戦はなかった」 魚柄仁之助 青弓社 2015年発行

 

つくりませう!葡萄酒

「家の光」1932年 (昭和7年)9月号(産業組合中央会) 
96ページにこのような記事が掲載されておりました。
葡萄酒と果実酒、桑実酒、水飴が同列に並べられており、その横にははっきりと「自家製法」と書かれてますね。
ご指導くださるのは東京府立園芸学校の西清蔵先生ですから、これはどう見ても果実やその加工・醸造など の専門家でありましょう。
当時の家庭での自家醸造を知る手がかりとなる資料だと思いますので全文掲載します。 
天然葡萄酒混成葡萄酒、人工葡萄酒という分類を見ますと、日本で「葡萄酒」と言われている飲み物がどのような作り方をされたものだったのかが見えてきますね。
作り方に関する記述を見ましても、かなり専門的に書かれています。
収穫時は「成熟したものを晴天続きの午後に収穫すれば、糖分は多い」というアドバイスをしていますね。
発酵してもアルコ ール度数は五パーセントくらいにしかならなかったと思われます。
これは今日でも同じで、自家でビールやワインを醸造するときにも麦や葡萄を仕込んだところに砂糖を加えて糖度を高くなるように調整します。
また葡萄酒を仕込む「発酵桶」のガス抜き方法や葡萄の皮が浮いてこないようにするための注意点なども、 「ご家庭の」レベルを超えております。 
婦人向けに作られた生活雑誌で自家醸造方法をここまで詳しく述べたものは見たことがありません。
今日の日本の常識でとらえますと「密造を勧めているのではないかっ!」でありましょうが、ところが1932年においてはこの葡萄酒造り、合法であったと考えられるんですね。


敗戦からちょうど一年たった1946年 (昭和21年)の雑誌「主婦と生活」 八月号に掲載されていた「調味料の新工夫」の一コマですが、
ここに甘味料としてこの葡萄酒の作り方が掲載されていました。
こちらはいたって原始的で大雑把なものであります。 
イラストのような広口の甕で造りますと発生したガスで栓が吹っ飛ぶことはないでしょうが、ショウジョウバエがワンサカになりましょうね。
「冷たい場所におきます」とありますが、何日くらいかの記述がありません。 
ただ、「持味の甘味がでてきます」ということなので、たぶん仕込んでから 二、三日ではないでしょうか。
七日から十日も置きますと発酵が進んで持ち味の甘さがなくなってしまいます。 
ここに書いてあるように二、三日で「漉して瓶に」取る・・・・・のはいいんですが、この段階ではまだ発酵してますから、 きっちりフタをしたら栓が吹っ飛ぶでしょうね。

 

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サラダを食べる

2024年03月15日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

学校を卒業した姉は、仕事と花嫁修業を同時に始めた。
福山駅近くの料理学校に、仕事の帰りに、週1回通った。
そのおさらいで、日曜日に、習った料理を家で作った。

その時に、初めて「サラダ」というものを食べた。
初めての料理だったので名も知らなかったが、「サラダ」という名を知った。
じつは、そのとき
「サラダ」よりも「マヨネーズ」の方が珍しかった。

というのは、
姉は「サラダ」を作るよりも、「マヨネーズ」を作る方に時間や手間暇を要した。
卵を泡立てる姉に、
「何をしょうるん?」
「マヨエーズをつくりょん」
で、その日
「サラダ」と「マヨネーズ」を同時に知って、同時に食べる日となった。
それは、高校三年生の時だった。


それから数年した後、「ドレッシング」という調味料を知った。日本は急成長していた。

 


「ニッポンの主婦100年の食卓」  主婦の友社  2017年発行

高度経済成長期が残した遺産の一つは、「家庭料理」かもしれません。
戦前まで、多くの日本人はごはんでカロリーをとり、季節の野菜を「ばっかり食べ」していました。
食事は喜びではなく、生きるためのルティーンワークだったのです。
戦後、国の主導のもと、日本各地 栄養状態の改善運動が始まりました。 
保健所などが「肉やチーズを食 べよう」「油でいためよう」とさかんにアピール。
とはいえ主婦たちは、 肉、乳製品、油といったなじみのない食材をどうしたらいいのか悩みます。
それに呼応するように、主婦雑誌やテレビの料理番組は、さまざまな洋食の作り方を紹介します。 
非常に手の込んだものもありました。
昭和初期の洋食ブームとの違いは、この時期の主婦はみな実際に作り、子どもたちが大喜びで食べたことです。 
「たとえ食べたことがなくても、レシピどおりに作ればおいしい料理ができたんです。
料理は、主婦にとってわかりやすく成果の出る家事でした」(阿古さん)


サラダ

キユーピーマヨネーズが発売されたのは大正14年、
日清サラダ油が発売されたのは大正15年。
大正末、サラダの時代が幕をあけました。
昭和に入ると「主婦之友』でも「サラダは夏の栄養食としてふさわしい」「簡単で日本人に合う」と礼賛し、 色とりどりのサラダを紹介していま す。
しかし、
し尿を肥料として使っていた当時、野菜に回虫の卵がついているおそれがあり、生で食べる習慣は根づきませんでした。 
ゆでた野菜をマヨネーズであえた、ポテトサラダなどに限られていたとか。
サラダが一般家庭で作られるようになったのは高度経済成長期。
各家庭に冷蔵庫が行き渡るまで待つ必要がありました。

 

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