しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大正時代の城見村①生業

2017年01月22日 | 大正
大正時代の城見村のようすを転記する。

小田郡史(大正13年版)の城見村史より

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生業
本村は一般に農耕にて極めて僅少の商工者あるのみ。
農業は普通作にして傍ら果樹園芸除虫菊等の特用作物を栽培す。
副業としては麦稈及び真田紐製造養鶏等なり。

1・普通作物(大正4年調べ)
田 一毛作56町  二毛作27町


主要生産物
米 1567石 大麦4石 裸麦1936石 小麦496石
その他(栗、黍、蕎麦、大豆、小豆、そらまめ、ささげ、胡麻、甘藷。

特用作物
除虫菊は松浦岩蔵氏、明治25年東京学農社より種子購入栽培せし。

蚕業
明治22.23年頃より創起し、明治30年頃飼育せるもの10余戸を算せしが、麦稈青刈製造の勃興するにおよび跡を絶つに至れしが、やや養蚕に心を傾けんとする傾向あり。

家畜
牧畜は単に牛に止まり、農耕に供する為飼育するもの大部分。
家禽はほとんど鶏にして種類は多く、往昔より副業的に飼育し来たれり。

果樹園芸
本村の果樹栽培は殆ど大字茂平に属す。
大栽培に従事するものなし。

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明治維新と国家神道① 【福山市史】

2017年01月18日 | 江戸~明治
明治維新と敗戦で神社は二度大きく変わった。

「福山市史 下巻」より転記する。

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神仏分離
明治2年、神仏分離は全藩的に実施され、典式以下が回村して仏体改めを行った。
寺院にある妙見・弁天・大黒天・鬼子母神などの像はこれまでどおり寺院に管理させ、
神社の仏体および神体と称していたものはすべて寺院に引き渡し、鏡か幣帛(へいはく)を新たに勧請させて神体とし、祭典を行わせることとした。
また神社にある寺院は移転させ、以後は僧侶が入ることを厳禁した。

神道の国教化
明治3年、天皇崇拝中心の神道を国教化しようとする新政府は、伊勢神宮を頂点とする各社の社格を定めた。
官社(官弊社と国弊社)
府県社
郷社
村社
および無各社の5段階の社格がそれで
各郡に一郷社、ほぼ各村に一村社とした。それ以外は無各社とした。

氏子札と御札
政府の神社保護政策は、神道の信仰、民衆の教化というイデオロギー的任務を強制するだけでなく、民衆の直接的掌握という実質的役割を期待した。
その代表が「氏子調べ」であろう。
これは旧幕時代の寺請制度の継承で、神社をして戸籍制度を補完させ、全国民を神社の氏子として掌握しようとするものであった。
神社が、生国・氏名・住所・生年月日・父名を書いた札を発行したが、政府の意図に反し無理な段階であった。1年ほどで中止された。

キリスト教と教派神道
明治6年、諸外国からの批判の前に、キリシタン禁止の高札は撤去された。文明開化を標榜する政府としては、キリスト教布教を黙認せざるをえなかった。明治8年には信教の自由も保証された。
明治10年代、政府は神社神道を国家の祭祀として一般の宗教から分離し、国家神道として確立する政策をとるようなった。
この過程で幕末以来の民衆的新興宗教が教派神道として別派独立することが認められていった。

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寄島の通学船

2017年01月17日 | 城見小・他校
潮があれば山の道、潮が引けば海岸道。
これは瀬戸内地方ではどこにでもあった話。

茂平では水落や長瀬の段々畑に行くのがそうだった。
神島では畑の他に、お遍路さんの巡礼の道もそうだ。

ところが、寄島の三郎では
潮があっても海、潮が引いても海を渡っていた。

「寄島風土記」より転記する。なお、三郎は昭和50年頃陸地化した。

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寄島干拓により島が陸地と連結したことは、通学船に乗り海を渡って学校に通っていた児童生徒の喜びは格別で、家族の不安も一掃され、学校側も指導管理の問題が解消された。

冷たい冬の朝、襟巻で顔を包み、潮風に吹かれて1キロに及ぶ干潟をトボトボ歩いて海を渡り、堤防に辿り着いて上級生が下級生をいたわりながら、しばし焚火を囲んで暖をとり、隊列を正し学校に急ぐ子供たちを見て、大人は「三郎の子供じゃのー、可哀そうに」と同情の言葉で見送っていた。
潮の都合では朝5時ごろから渡らねばならぬ日もあった。帰りも干潮時には歩いて渡った。短い冬の日は昏れが早い。もう島の家には明りがついている。潮騒に追い立てられ、満ち潮に追いかけられての家路を急いだ子供たちであった。

潮が満ちている時には通学船に乗る。
島の子供全員が10人位乗れる櫓で漕ぐ小舟である。
暴風雨の時は欠航する。櫓は上級生が漕ぐ。波風がある時は不安におののき、命がけの通学であった。
その代わり波の穏やかな凪の日は安らぎと楽しさがあった。揺れる船に身を任せて談笑しながら山々の四季の景色を眺め、空行く雲に夢を乗せる日もあったであろう。


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行商人のこと

2017年01月17日 | 暮らし
行商人は毎日来る魚屋から、年に一度の置き薬屋までさまざまあったが
いつの頃からか消えた。
今は店にも行かずネット注文も増えた。
昨日は妻がアマゾンに注文した荷物が2度、宅急便で届いた。

「矢掛町史」より転記する。

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行商

魚の行商が最も多く、小田、中川、川面には笠岡の西浜から来ていた。また矢掛、美川、山田、三谷には富峠を越えて玉島、寄島から自転車やテンビン棒でかついで持ってきていた。
小間物の行商も地元の商人が小間物箱に入れて売りに来ていたが、女子が丸髷を結わなくなると来なくなった。
竹細工の箕や籠、熊手なども井原の七日市、美星町三山から田植え前にテンビン棒かついで売りにきていた。
反物、呉服は地元の矢掛や小田の商人が売りにきていた。
これらの支払いは現金か米などと交換した。

出買は、魚以外の食料品はほぼ自給できたし、日用品は村内の万屋で買うため、春秋の祭り前に、魚、乾物、日用品を矢掛や小田の商店街に買いに行く程度だった。
タンスなどの家具類は井原で購入し、農具類は小田、矢掛で間に合った。
出買の習俗としては正月三が日は財布の口を開けなかったし「トクンチ」といって自分の干支の日にも買物はしなかった。


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福山駅前の信号機【昭和36年】

2017年01月16日 | 初めてのこと
子供の頃、町といえば「笠岡」または「福山」を指した。
町が大きいので福山に行く方が多かった。

ある年の事、駅前の道を渡ろうとしたら「信号機」が付いていた。

信号機の事は知識としては知っていたが、見るのは初めてだった。
赤・青・黄の3色で、青なら渡れることも勉強して知っていた。

ところが、実際に信号機を前にしたら前に行っていいのか、だめなのかわからない。
というのは、例えば(当たり前のことだが)前を見れば赤、横を目れば青。
そのことが管理人にとって、二重信号に見えてしまった。汗・汗・汗。。。。。の状態となった。

思案に暮れて、結局は多数の人の後ろをついて渡った。
次にその信号を渡ろうとしたときは信号の見方が理解できてすんなりと渡れた(これも当然のことではある)。

福山駅前の信号機は昭和36年に付いたそうだ。忘れられない冷や汗だった。

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ついでに福山駅舎の喫茶店でのこと。

小学校の3年か4年の頃、祖父と福山に行った時、福山駅構内で祖父の知人に会った。
知人の方が駅舎にある喫茶店に入り、コーヒーを注文してくれた。
管理人はコーヒーを飲んだことがなく、しかも
店の中で、テーブルのうえに、皿にカップとサジがあった。
どうやって飲めばいいのか、さっぱりわからなかった。
ここでも汗・汗・汗。。。。
結局サジでコーヒーをすくい、音を出しながら飲んだような記憶がある。
今思い出しても、汗がでる。

駅舎の喫茶店は福山城の天守閣が建つ頃、撤去されたような気がする。
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「大津野のあゆみ」から城見村関連を抜粋する

2017年01月16日 | 江戸~明治
隣村である、広島県深安郡大津野村(現・福山市大門町)の郷土史本から
城見村に関連する事項を抜粋する。

大門町誌編集委員会「大門町誌 大津野のあゆみ」より転記。

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M17・8月大津波のため堤防破壊する。
M24・山陽鉄道笠岡~福山間開通。
M24・大津野村に4店の真田問屋が開業する。
M30・大門駅落成開業。
M39・城見村茂平に吉備製陶合資会社が発足。初代水川豊太郎。
M41・大津野村立大津野尋常高等学校と改称。歩兵41連隊が広島から福山へ転営。
M44・第一次塩田整理で、大津野塩田が全て廃業となる。

T9・旧国道2号線が大門を貫通する。以前は日和峠~横道~七隠れが本村の一等道。
T11・村内に電灯がともる。灯数500.
T11・村内の牛数123、豚27、鶏413。養蚕戸数50.
T12・山陽本線の複線化が広島まで開通。
T15・小学校に青年訓練所を創立。

S6・満州事変、この頃より大門駅より多くの若者たちが出征して行くようになる。
S10・青年学校創立。
S10・大津野小学校木造二階建て完成。女子青年団は、真田での収益金を寄付。
S11・忠魂碑が小学校の校庭に出来る。
S12・日華事変起こる。8/27大津野村に70名の召集令状くる。この頃より村出身者戦死の報が届くようになる。
S12・大津野村出征軍人家庭後援会創立。
S12・大日本国防婦人会大津野村分会創立。
S12・小学校に二宮金次郎の像できる。
S15・紀元2600年式典、加茂神社に碑建立。
S16・牛の首に海軍水上機乗員養成所ができる。
S20・4/18福山で初の空襲警戒警報。以後終戦まで93回、空襲警報28回。
S20・6月より米軍機グラマンの大津野航空隊襲撃が頻繁に始まる。
S20・7/2米軍機が大津野飛行場へ20機、30機と4度来襲。
S20・8/15正午、天皇陛下のラジオ放送により終戦。戦死者172名。村人航空隊の物資を山に隠す。
S20・11/2米軍福山に進駐、旧海軍宿舎が兵舎となる。約1.000名。

S21・3/23米軍に替わりオーストラリア軍400名進駐。
S23・神辺高校大津野分校設置。
S24・春日村、坪生村、引野村、大津野村の4ケ村組合立培遠中学校大津野分校発足。
S27・大津野小学校の校庭に「慰霊塔」建立。
S27・航空隊跡地へ保安部隊病院。
S29・培遠中学より独立して大津野村立大津野中学校設立。
S31・3月大門駅地下道完成。
S34・新国道2号線が大門駅南側へ着工する。
S35・貨物の取り扱い廃止となる。
S36・日本鋼管の福山進出決定。福山駅前に信号機が付く。松永塩田廃止。岡山~三原間電化開通。
S37・新国道2号線開通。農耕牛が姿を消す。
S38・大門駅前舗装工事完成。備後工業整備特別地区に指定される。
S41・福山製鉄所第一高炉火入れ。鳳中学校開校、大津野中廃校。広大水産・教育が東広島へ移転。
S42.・神辺高校大津野分校廃止。
S50・大門高校新設開校。福山大学開校。
S54・野々浜小学校新設。
S55・大門中学、福山女子高が開校。
S58・シャープ福山進出内定。


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昭和18・19年頃の岡山市民の生活

2017年01月16日 | 昭和16年~19年
「岡山市史 戦災復興編」から転記する。

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戦時中の岡山市民の暮らし
一・県の調査
昭和18年9月頃、企画院(昭和12年新設)から県民の生活などについて照査した。

食生活
憂いべく現象は、幼児・児童にして弁当を持参し得ざる者あり、甚だしきは他の者の弁当を盗み食いするものもままある。
衣生活
乳幼児の綿物の増配と農業者に対する衣料の質の向上を計る要あり。
住生活
保健的見地より改善指導すべき点多々あり。

二・市民生活
必要数が配給されず、必然的に闇取引が盛になった。
服装
戦時装服が強化されて男子は国民服にゲートル巻、女子は筒袖にモンペをはく軽装に統一された。
食物
麦混食など奨励していたが、それでも不足するので玄米食を奨励した。
代替主食
従来、米の不足を補うため、麦、麺類、小麦粉、パン、芋等を統合配給していたが、19年4月から加工大豆を配合することになった。
どんつく
メリケン粉に米糠、野草を混ぜて焼く
国民食堂
岡山市内に60ヶ所。一回の食事代は50銭、1円の2種。
電気
18年12月より一般電燈は制限強化。
映画館
1週1日の休日制をとる。
日曜・祭日の1日4回上映は3回にする。
10時閉店
定刻10時よりも幾分早く午後9時頃よりぼちぼち戸を閉めるかけ、10時には燈のない商店街を実現した。天満屋のエレベーター3台のうち、2台を金属供出した。
一戸一灯を厳守
大政翼賛会や合同新聞が「1戸1灯を厳守、電力を戦力へ活かそう」と呼びかけた。
ニュースが聞けない
点灯時間を引き締めたため、生活上いろいろ不便が来たし、何とか方法はつかぬかと民間から声が聞こえ始めた。

その他
旅行禁制
決戦に、暮も正月もない「止めてください勝つ日まで」
乗合馬車
19年10月市内に15人乗り乗り合い馬車が颯爽と登場した。区間は瓦町電車終点から福島バスの終点まで6キロ。現在バスが運行していると同じ、大雲寺町福島線の人絹道路を並木に沿うて走り、料金は40銭。
墓石も中止
19年6月石材工業者、庭師、植木師の決戦措置が岡山県で決まった。1年間休止する。県貨物、陸上小運搬組合、機帆船などでも1年間取り扱わぬこととした。

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【大正6年】宇野遊郭設置問題再燃

2017年01月15日 | 大正
戦後、工場誘致や大学誘致を地方は競ってきたが
戦前は、軍隊と遊郭の設置を競っていたようだ。

これは、大正時代の宇野のお話。

「岡山県史・政治社会」より転記

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宇野遊郭設置問題再燃   大正6年7月12日・山陽新報

備前宇野港の遊郭設置問題は多年の懸案にして、
大正元年港民50余名連署し県知事に請願書を提出し、その後村当局者よりも遊郭設立を必要を認め、稟請したるも気運至らず、今日まで許可を得ず。
近来同地の発展とともに又もや同問題起こり、宇野港同盟会にて総代2名にて県庁に出頭し、知事・警察部長に面接し遊郭設置の必要を迫り、公娼設置の許可を懇願することに決した。


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【大正6年】神島の密淫売

2017年01月15日 | 大正
神島外浦は工場景気にわき、警察に「ゴヤッカイ」になる人も増えていった。


「岡山県史・政治社会」より転記

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挙げられた売春婦  大正6年2月2日・山陽新報

岡山県下に昨年中検挙された密淫売は148人で、前年より97人増している。
これは神島亜鉛工場が出来たため笠岡署のゴ厄介になったものが増した訳で、他には余りたいしたことはない。
10人以上を検挙した署は、岡山・笠岡・水上・味野位なものだ。
検挙された淫売婦は検診の結果半分は梅毒患者なることが判った。

中には芸妓も大分加わっている訳で、検査問題が持上るも無理ならぬ。
けれども娼妓の如く省令が出る訳でなし、強制的にはいかぬ。


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井原技芸高等女学校

2017年01月14日 | 昭和11年~15年
母は井原女学校を卒業後、“技芸”に通っていたそうだ。
年数ははっきり覚えていないが、2年間程度だったような気がする。
母によれば、その頃はどこの町にも“技芸”と呼ばれる学校が多かったそうだ。
管理人が青年時代に、どこの町にも「ドレスメーカー女学院」とか「文化服装学院」があったが、それと似たような存在でなかったかと思う。

以下「井原市史Ⅱ」より転記する。

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大正15年、井原町助役のS氏の首唱のもとに創立された井原技芸高等学校は、昭和4年茂原茂を迎えた。茂原は郷党の意気に感じ長崎高商校長の職を退き、井原高等女学校に赴任した。
県立移管後に退職し、技芸学校校長となった。各教諭に専門家を網羅し、各生徒の個性に応じ親しみのある指導をしており、学校は内容、外観ともに立派となり保護者から称賛された。

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