「百年誌 大島東小学校」昭和50年発行より転記する。
――
M43・奥浜の新校舎へ全児童を収容。児童数320人、6学級編成。
S3・大島中尋常小学校の校旗を制定した。
S3・明治節制定され第一回祝賀式挙行。
S4・神宮式年遷宮奉拝式挙行。
S6・大津野窯元・神島人造肥料会社・白石島等へ3年以上船舶で旅行。
S7・修学旅行、5年以上岡山勧業博覧会、3年4年玉島、1年2年笠岡町。
S11・二宮尊徳像を建てた、F氏寄贈。
S15・教育勅語50周年記念式挙行。文部省の通達により昭和18年以後修学旅行中止。
S15・紀元2600年記念式典挙行。
S16・大島中国民学校と改称した。初等科6年、高等科2年とした義務教育8年延長したが、実施は延長された。
S17・二宮尊徳像を金属回収として供出した。
S18・二宮尊徳の石像を再建した。
S19・B25爆撃機が度々空襲し、授業を中断することが毎日のように続いた。
S21・斜面流下式コンクリートの製塩施設を造った。
S22・大島中小学校と改称。
S23・教育勅語、詔書等を返還した。
S23・戦災や食糧不足や引き揚げ等の子弟で児童数が増加した。
S25・大島東小学校と改称(新制大島中学校と謝りやすいので)
S26・学級編成を9学級とした。
S26・グランドピアノが寄贈された。
S29・校歌を制定した。
S32・学校給食をD型からC型に改めた。
S33・大島小学校付設大島東幼稚園が新設。
S38・修学旅行、1.2年福山市、3.4.5.6年岡山市。
S38・給食調理の燃料をプロパンガスにした。
S38・秋季遠足、1.2年早崎海岸、3.4年福井山、5年御嶽山。卒業旅行広島・宮島・岩国。
S39・学校給食をC型からB型にした。
S39・春季修学旅行、1.2年笠岡古城山、3.4年倉敷市、5.6年玉野市。
S39・教育用ナショナルテレビを取り付けた。
S40・秋季修学旅行、1.2年遥照山、3.4.5.6年岡山市。
S40・秋季遠足、1.2年大浦神社、3.4年津雲貝塚、5年御嶽山、6年広島・宮島・岩国。
S42・校旗を制定した。
S42・春季修学旅行、1.2年遥照山・金光教、3.4年吉備津神社・備中高松、5.6年水島工業地帯・岡山市。
S42・卒業旅行京都、奈良地方。
S44・笠岡市学校給食センター給食開始、B型(週4日)からA型(週5回)に変えた。
S44・日直・宿直を廃止した。

昭和11年度卒業写真
想い出
明治43年入学・男子
A先生は赴任後間もなく6週間現役として入営され、私たちのクラスへ軍隊からお便りくださった。
津雲貝塚が発見された大正4年の6年生の時、校長に引率されて見学に行きました。そのとき松枝惣十郎さんが羽織がけで説明してくださったのですが、当時羽織を着ているのは珍しく綴方に書いたところ、校長先生もおもしろいと思ったのか読めといわれ皆の前で読んだ記憶があります。
大正5年入学・男子
木綿の着物に草履だった。旅行の時は草履の新しいのを作ってもらった。
大正7年入学・男子
廊下に板木(ばんき)があって、始業の合図をし、終わりはチリン、チリンと鐘をふっていた。
服装はみんな着物だったが、1年上のKさんが6年で始めて小倉の洋服を着てこられた。靴は総ゴムだった。
大正15年入学・男子
2年の時にご大典があって、1週間旗行列に参加した。学校の前の海はきれいで、足に小魚がさわって泳いでいた。K先生は投網が好きでよく投っておられた。