しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦時の女学生 「井原高校80周年誌」

2017年01月14日 | 昭和16年~19年
岡山県立井原高校80年「八十周年誌」より転記する。

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昭和19年7月高等女学校3年生は鉢巻をしめ防空帽をかぶり、胸に住所氏名と血液型を書いた布を縫い付けたモンペ服の上下に救急袋をさげたいで立ちで、市域の軍需工場へ工場動員された。
高屋織物では戦地へ送る蚊帳を織り、中国織物、井原興業の被覆部・織布部や三和被服・井原精螺の各工場へ配属された生徒は、納期が迫ると残業して、軍服や戦闘帽の手直しをして、針を持つ手に血がにじむほどの苦労を重ねた。
5年生は翌20年4月学徒動員として倉敷の万寿航空機製作所へ出かけ、ハンマー・鋲打などの訓練を受けて、やがて爆撃機の翼の組み立てに配属され、手に血豆をつくりながら頑張り、まもなく三交替制の厳しい労働を強いられていった。




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「山陽駅伝」は城見小学校の前を走る

2017年01月14日 | 昭和31年~35年
城見小学校に在学中の時、
学校の前の国道2号線を、毎年駅伝競走のランナーが走っていた。

駅伝の選手が学校の前を走る時は、授業を止めて全校生徒が選手を応援していた。
授業が中断されるので楽しみで、その日を待っていた。
当時の国道2号線はのどかだった。
車と言えば、バスやトラックが日に何台か通るだけ。
お医者さんが午後から往診にスクーターで通ったり、馬が荷物を引いていた。
道路はもちろん未舗装。
日本の道路は舗装率3%、アメリカは舗装率97%と勉強していた。


(「写真アルバム・福山市の昭和」より借用。
(写真は新国道を走っている、大会の最終回頃。)


駅伝の名称は「山陽駅伝」、下関をスタートして神戸がゴール。
今でいう、実業団駅伝だった。
大門方面から来て笠岡方面へ走っていた。
たぶん読売新聞が主催だったような記憶があり、その社旗を振って応援していた。
出場チームは各県対抗で全都道府県が出場する大きな大会。新聞のスポーツ欄に前日の記録や順位が載るので、城見小の前を走る日はだいたい分かっていた。

当日は学校の前に、1~6年生が小旗をもって道の左右に並んで選手が来るのを待っていた。
トップからドベまでは時間差があるので、岡山県の選手が走り去ったら学校に戻っていたような気がする。

自家用車が普及しだす頃、当然のことのように国道2号線を走る山陽駅伝は消えていった。
その頃、子供の噂話では
運動が得意な人は「盈進」から声が掛かり、特待生で入れる。
マラソンが得意な人は「興譲館」から声が掛かり、特待生で入れると言われたが、なんとなく実話と思っていた。
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明治時代の城見村の工場

2017年01月13日 | 江戸~明治
明治42年(1909)の工場状況に城見村がある。



(茂平阿浜の吉備焼・登り窯2016.10.12)


「井原市史紀要 井原の歴史第3号」より転記する。

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職工5人以上の工場(小田郡)
町村  工場数  うち原動機使用工場 職工数 うち男子
笠岡町   17   8        670   170   
金浦町   10   --        54    --   
矢掛町   6    2        66    25
城見村   3    --        15    15
合計    36   10        805   210  

10人未満の零細な工場は、町村ごとに特色があり、金浦町はすべて麦稈真田製造、城見村は窯業、矢掛町は酒造を中心とした飲食物である。

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大正時代の城見村の就労者

2017年01月13日 | 大正
小田郡の村では農業が軒並み80%台。
笠岡町が21%で、その以下の町村は小田・後月郡内に3村ある。真鍋、北木島、神島外村。
城見村の80%台は昭和30代までつづいたと思える。


「井原市史紀要 井原の歴史第3号」より転記する。

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小田郡・後月郡別本業者大分類表 大正9年(1920)

城見村・男  小田郡男平均   城見村・女  小田郡女平均

農業  81.7  57.0    87.6   73.69
水産業  1.1  5.4     0.2   0.1
鉱業  0.6  2.3     0   0.03
工業  6.2  13.9     8.6   15.6
商業  3.7  9.0     1.9   5.7
交通業  1.4  4.8     0.2  0.3
公務自由業  4.1  4.4    1.1   1.7
その他  0.6  0.6      --  --
家事使用人  0  0.01     --  --
無職              0.4  2.2
計   699  24.700    475  18.488


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2年弱で5人の岡山県知事

2017年01月12日 | 昭和21年~25年
敗戦後、衣食住そのすべが不足し国民はその日暮らしの有様だったが
地方行政も混乱の極みで、岡山県知事は数か月で交代していった。
いっぽう県議や市町村長も自らの公職追放問題を抱えていた。

以下「岡山県史」より転記する。

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終戦時における本県知事は、小泉吾郎であったが、一か月後に更迭され安積徳也が就任した。
しかし公職追放令該当者となり翌21年1月退職した。
内務部長西岡広吉が昇格就任した。同年10月福岡県知事に転任し、豊島章太郎が就任した。官選の最後の知事であった。
昭和22年4月西岡広吉が公選初代の就任した。

県会は、昭和14年以来任期延長のため改選がなかった。
昭和22年1月追放令に該当する議員24人が辞職した。残存議員は9名となった。
同年4月戦後初めての選挙では、議員53人のうち新人47人が進出し、経験者は元5人・前1人となった。


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城見小学校の遠足先

2017年01月12日 | 城見小・他校
管理人の記憶をたどると、下記。
お菓子をもっていけるのが嬉しかった。

1年・・遠足で吉浜天神。
2年・・遠足で大津野飛行場。
2年・・鉄道で福山(福山城から明王院へバス)
3年・・往路・徒歩で古城山、復路はバス。
4年・・鉄道で金光教。
5年・・鉄道で尾道千光寺。
6年・・春・鉄道で岡山 
6年・・修学旅行・鉄道で広島~宮島(泊)~岩国

※鉄道とは全て大門駅発。(城見小学校から大門駅まで徒歩)

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笠岡小の遠足・旅行先

2017年01月11日 | 城見小・他校
昭和戦前の遠足先を「笠岡小・百年史」から転記する。
資料は女子校しか残っていないようだ。

―――――

大正10・卒業記念旅行、南部小学校11校連合して伊勢神宮へ参拝(以後昭和17年までつづく)
大正10・女子校・・尋1.2年今井村、3.4年新山村桃山、5年以上高島神武天皇遺跡。
昭和2年・春季修学旅行。1.2年今井、3.4年横島、5年以上福山。
昭和3・春季遠足1.2年大砂止、3.4年横島、5年以上御嶽山(女子校)
昭和4・尋6岡山市、高等科天神へ卒業旅行(女子校)
昭和5・尋常科岡山、高等科今井方面へ卒業旅行(女子校)
昭和6・尋常科岡山、高等科神島方面へ卒業旅行(女子校)
昭和6・春季修学旅行 1.2年1丁目、3.4年横島、5.6年福山、高等科尾道(女子校)
昭和7・卒業旅行尋6.高2岡山市(女子校)
昭和8・琴平方面へ記念旅行(女子校)
昭和8・修学旅行 1.2年1丁目 3.4年道通神社 5.6年福山尾道(女子校)
昭和9・高等科、伊勢神宮参拝旅行(女子校)
昭和9・卒業旅行 尋6岡山市 高2神島天神(女子校)
昭和9・修学旅行 1.2年今井 3.4年北川 5.6年城見皿山 高1.2倉敷(女子校)
昭和10・卒業旅行 備中高松方面へ記念旅行(女子校)
昭和10・修学旅行 1.2年吉浜 3.4年井原 5.6年福山 高1.2尾道(女子校)
昭和12・修学旅行 1.2年吉浜 3.4年井原 5.6年福山 高1.2年高松方面(女子校)
昭和13・高等科参宮旅行出発(3日間、男女両校)
昭和13・修学旅行1.2年生1丁目 3年以上北川(女子校)
昭和14・高等科、青年学校尾道へ修学旅行(女子校)
昭和15・伊勢神宮参拝旅行
昭和15・修学旅行 1.2年1丁目 3.4年北川 5.6年倉敷 高等岡山(女子校)
昭和17・修学旅行 1.2年1丁目 3.4年金浦 5.6年高等科皿山(女子校)
昭和20・1・23 3.4年金浦方面 5.6年今井方面 高等科大井方面 鍛錬遠足をかねた、どんぐり蒐集を行う。(女子校)


(奉安殿前に整列する笠岡女子国民学校児童)

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笠岡の「青い目の人形」の運命は?

2017年01月10日 | 昭和元年~10年
昭和2年、日米親善のため12.000体の“青い目をしたお人形“が日本に届いた。
そのうち230体が岡山県の学校に配られた。
以前父と母に、青い目の人形配布の事を聞くと知らない・来ていないという返答だった。配布時期と両親の小学時代はほぼ重なる。

当時の岡山県の市町村数は400くらいと思える、単純に言えば昭和30年頃の市町村区域に人形一つ程度と予想される。

笠岡小学校100年史によれば、
「昭和2年5月12日 アメリカ人形展覧会開催(女子校)」と記載されている。
人形を贈られた学校は何処も盛大な展覧会・お披露目の儀式をしていたようだ。

それから70年後の調査によれば、98%が破棄されていた。
見つかったのは約300体。
(日本から返礼に送った「黒い目の人形」は、ほぼ全数がアメリカで保存されていた)


「青い目の人形」は、敵国の憎い人形となり。
昭和18・毎日新聞
仮面の親善使、青い眼をした人形 憎い敵だ許さんぞ
昭和18・読売新聞
米英撃滅敵愾心昂揚のため、アメリカ人形を焼棄

という風潮の中で、
焼かれたり
竹槍で突かれたり
海へ棄てられたりした。

笠岡女子学校の「青い目の人形」は、どのようにして何時の時、消えたのだろうか?
悲しい物語がありそうだ。

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昭和の学校史⑥大島東小学校

2017年01月10日 | 城見小・他校
「百年誌 大島東小学校」昭和50年発行より転記する。

――

M43・奥浜の新校舎へ全児童を収容。児童数320人、6学級編成。
S3・大島中尋常小学校の校旗を制定した。
S3・明治節制定され第一回祝賀式挙行。
S4・神宮式年遷宮奉拝式挙行。
S6・大津野窯元・神島人造肥料会社・白石島等へ3年以上船舶で旅行。
S7・修学旅行、5年以上岡山勧業博覧会、3年4年玉島、1年2年笠岡町。
S11・二宮尊徳像を建てた、F氏寄贈。
S15・教育勅語50周年記念式挙行。文部省の通達により昭和18年以後修学旅行中止。
S15・紀元2600年記念式典挙行。
S16・大島中国民学校と改称した。初等科6年、高等科2年とした義務教育8年延長したが、実施は延長された。
S17・二宮尊徳像を金属回収として供出した。
S18・二宮尊徳の石像を再建した。
S19・B25爆撃機が度々空襲し、授業を中断することが毎日のように続いた。
S21・斜面流下式コンクリートの製塩施設を造った。
S22・大島中小学校と改称。
S23・教育勅語、詔書等を返還した。
S23・戦災や食糧不足や引き揚げ等の子弟で児童数が増加した。
S25・大島東小学校と改称(新制大島中学校と謝りやすいので)
S26・学級編成を9学級とした。
S26・グランドピアノが寄贈された。
S29・校歌を制定した。
S32・学校給食をD型からC型に改めた。
S33・大島小学校付設大島東幼稚園が新設。
S38・修学旅行、1.2年福山市、3.4.5.6年岡山市。
S38・給食調理の燃料をプロパンガスにした。
S38・秋季遠足、1.2年早崎海岸、3.4年福井山、5年御嶽山。卒業旅行広島・宮島・岩国。
S39・学校給食をC型からB型にした。
S39・春季修学旅行、1.2年笠岡古城山、3.4年倉敷市、5.6年玉野市。
S39・教育用ナショナルテレビを取り付けた。
S40・秋季修学旅行、1.2年遥照山、3.4.5.6年岡山市。
S40・秋季遠足、1.2年大浦神社、3.4年津雲貝塚、5年御嶽山、6年広島・宮島・岩国。
S42・校旗を制定した。
S42・春季修学旅行、1.2年遥照山・金光教、3.4年吉備津神社・備中高松、5.6年水島工業地帯・岡山市。
S42・卒業旅行京都、奈良地方。
S44・笠岡市学校給食センター給食開始、B型(週4日)からA型(週5回)に変えた。
S44・日直・宿直を廃止した。


昭和11年度卒業写真

想い出

明治43年入学・男子
A先生は赴任後間もなく6週間現役として入営され、私たちのクラスへ軍隊からお便りくださった。
津雲貝塚が発見された大正4年の6年生の時、校長に引率されて見学に行きました。そのとき松枝惣十郎さんが羽織がけで説明してくださったのですが、当時羽織を着ているのは珍しく綴方に書いたところ、校長先生もおもしろいと思ったのか読めといわれ皆の前で読んだ記憶があります。

大正5年入学・男子
木綿の着物に草履だった。旅行の時は草履の新しいのを作ってもらった。

大正7年入学・男子
廊下に板木(ばんき)があって、始業の合図をし、終わりはチリン、チリンと鐘をふっていた。
服装はみんな着物だったが、1年上のKさんが6年で始めて小倉の洋服を着てこられた。靴は総ゴムだった。

大正15年入学・男子
2年の時にご大典があって、1週間旗行列に参加した。学校の前の海はきれいで、足に小魚がさわって泳いでいた。K先生は投網が好きでよく投っておられた。




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昭和の学校史④吉田小学校

2017年01月09日 | 城見小・他校
高等科の設置が早い。農業教育に力を入れていたようだ。

「百年史 吉田小学校 平成12年3月」より転記する。


(昭和36年3月卒業)

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明治32年・高等科4年制を併置し、吉田尋常高等学校と改称
明治40年・義務教育6年に延長される
昭和2年・学田8畝3歩を購入する
昭和3年・校旗制定
昭和4年・学田2反3畝を購入する
昭和10年・吉田実業公民学校を吉田村青年学校と改称する
昭和16年・吉田国民学校と改称する 吉田国民学校尾坂分教場と改称する
昭和22年・新吉中学校創立に伴って高等科を廃し、吉田小学校と改称する
昭和22年・ミルク給食を開始する
昭和25年・ミルク・おかず給食を開始する
昭和28年・校舎の一部を使用し吉田保育所を開所する
昭和29年・校歌の選定をする
昭和30年・吉田保育所新築 学校給食3回を開始
昭和33年・尾坂分校校舎移転 幼稚園舎新築落成
昭和38年・週5回の給食に移行する
昭和39年・スクールバス尾坂~本校間開通、4年生以上乗車。
昭和40年・尾坂分校を統合する

その他(思いで話)
昭和20年卒・・小学校の6年間で、写真は2年の時の紀元2600年式典1枚のみ。
昭和6年卒・・3年生まで尾坂分校に、4年生から本校に。班長指揮のもと1時間掛けて通学。帰りは遊びながら、家に着くのは夕方で、履物の藁草履は平均1日1足が破損します。
当時の教育は修身科が主体で、忠魂愛国・親孝行・忠孝は一つであると教えられた。
昭和20年卒・・・農作業の手伝い、山林の下刈り、神社へ必勝祈願、防空訓練、これらの間に学習していたように思う。

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