しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

九軍神・・・その2

2020年08月29日 | 昭和16年~19年
「軍神」  山室建徳著  中公新書 2007年発行



九軍神の葬儀

九軍神の葬儀は、四度目の大詔奉戴日である昭和17年4月8日に行われた。
特別に日比谷公園に式場を設けて、合同葬儀が挙行されている。
遺骨は無いから遺品を安置した砲車が先頭になり、遺族がこれにつき従った。
「市民は脱帽している、泣いている、みんな泣いている、どうして泣かずにいられよう、若くして散った真珠湾の華、殉忠壮美の九軍神の心根こそ一億国民感激の的なのだ。
『よくやって下さった有難う』という気持ちが胸底からぐんと突き上げてきてどうにも抑え切れぬこの涙なのだ」という涙の情景が広がった(東日4月9日)。
葬儀では嶋田海相嗚咽のため絶句いくたび。
永野修身軍令部長、東條英樹総理大臣らの弔辞が続いた。
一般市民群衆はその数実に十数万、感動の人群れはいつまでも立ち尽くしていたのだった。
この葬儀については、「東京日日新聞」古屋信子が、「読売新聞」に吉川英治が参列記を載せている。
古屋信子
「これが、もし米国や英国だったら花輪を山積みした柩車、表情たっぷりの人々、むやみと感情をそそる音楽、あらゆる芝居気の儀礼が劇的シーンを展開させたであろうに、
ーーーー
われら日本人は、違うのである。
だから,九軍人は此の国に生まれたのである。」
素朴な日本と表情豊かな米英という比較は、精神の日本と物質の英米という対比とそのまま重なり合う。
吉川英治
「神代も決して遠くはない。
今日もまた二千年の後には神代である。
岩佐中佐その他の軍神は、正に千載の後にまで、偉大なる幸と誇りと、そして国民のあいだに『死なざる生命』の訓えを遺している」のである。
九軍神は死んではいない。
和気清麻呂、楠公父子、吉田松陰、そして広瀬中佐や佐久間艇長らとともに、彼らは日本国民の中で生きている。
「もしこの諸魂の死ぬ日あれば、それは日本の土も枯れる日でなければ死なぬ」のだ。
「岩佐中佐、あなたは何という日本一の孝行息子なのだ」
こうして、国家への忠義と親孝行とが同じ意味あいを持つことになる。

自己犠牲がすべての行動の大原則となった。
自らの信奉する「正義」で、敵は叩き潰す「悪」であった。
九軍神は誰でも覚悟さえできれば似た行動をとれるはずである。
九軍神とその母親は、日本の男性と女性それぞれに対して自己犠牲の模範を示す存在となった。


最初の特別攻撃隊

九軍神には、これまでにない特徴があった。
これ以前の軍神の死はみな戦友たちに目撃されている。
九軍神の場合は状況がまったく分からず、遺骨もない。
はたして5隻のうち何隻が真珠湾侵入に成功し、何隻が魚雷を発射できたのか、どれほどの戦果があったのか、といった点が論じられることはなかった。
しかも、捕虜が出たために、潜航艇が何隻だったのかも当局は明言しなくなった。
戦果が検討されなかったのとは対照的に、九軍神の人となりや出撃直前の様子が掘り起こされ、大きな感激を呼び起こした。
極めて精神的に語られたのである。
九軍神は正式には「特別攻撃隊」と呼ばれた。
戦争末期に数千名の若者が命を捧げた特攻作戦のお膳立ては、すでに開戦時にできあがっていた。


シドニー湾攻撃

特殊潜航艇による攻撃は、昭和17年5月31日にも行われた。
その後戦死者は10名であったことを海軍省は発表した。
二度目の特別攻撃のため、一般に「軍神」と呼ばれることはなかった。

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