「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤 吉川弘文館 2001年発行
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北前船
地乗りと沖乗り
中部瀬戸内の航路は、中世までは陸地沿いの「地乗り」(じのり)が主流であった。
江戸時代になってしだいに「沖乗り」航路が用いられた。
(陸地沿いでなく倉橋島や因島の南側を通る)
(鞆から下津井までは従来どおりで、白石と高島の間を通る)
それまで櫓漕ぎが主流であったのに対して、木綿帆を用いることで帆走能力が向上し、一気に沖合をすすむことも可能となった。
西廻り航路の発達
「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。
幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。
酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後
西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。
やがて年貢米だけでなく各地のさまざまな特産品も大坂に集まり、大坂から桧垣廻船や樽廻船で江戸に回送されるという構造ができあがっていく。
塩飽の廻船は幕府御用船として寛文から元禄にかけて栄えた、のち特権的地位を失った。
年貢米に代表される領主的流通が中心とされるが、後期には広範な商品生産の展開を背景とした商品流通のうねりが押し寄せてくる。
たとえば、畿内・瀬戸内地域にひろがる綿作地帯では大量の魚肥を必要とし、従来の干鰯(ほしか)のほかに北海道産ニシンの〆粕(しめかす)などが求められた。
初夏、あるいは秋に蝦夷地の産物を積んで西廻り航路を瀬戸内海にやってきた北前船は、船頭の裁量で積み荷の米・ニシン・数の子・〆粕・昆布などを各地で売却し、大坂でひと冬越したのち翌年春には、大坂周辺あるいは瀬戸内各地の塩・砂糖・紙・木綿・古手・甘藷などの産物を積んで北国に向かう。
また大坂・瀬戸内各所の廻船も北国・蝦夷地とを結ぶ交易に進出していく。
九州・中四国と大坂を結ぶ廻船もいっそう盛んに往来した。
港町と遊女
主要な港町には例外なく遊女屋があった。
御手洗の場合も、
町の成立とともにその活動が始まり、江戸時代後半にはつねに100名程度の遊女がいて町人口の2割から1割を占めていた。
「船後家(ふなごけ)」の商売。
船に女性を乗せて各地の港を訪ね、商売がうまくいくところに居着くやり方。
あちこちの港町にすばやく遊女屋が成立するわけである。
遊女たちの境遇は、前借り給銀と引き替えに差し出す茶屋奉公人請状の内容通りで、
年季の間はいかなる事情があっても勤めを逃れることはできず、主人の考えひとつでいつどこへ移されても、またどこでどのような病気で果てようとも、何ら異議を唱えられないものであった。
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段々畑
後世「白砂青松」と称される瀬戸内海の代表的景観は、膨大な燃料需要による自然の可容力を越えた林野利用の生み出したものであり、環境破壊の先進地という一面も有している。
綿糸紡績業
綿製品の輸入をおさえ日本の綿糸紡績業の育成をめざした明治政府は、官営紡績所の建設、紡績所企業者への資金貸付などで実現をめざした。
1888年倉敷紡績所、93年に福山紡績所、・・・
98年には西大寺・笠岡・松山・宇和・淡路・阿波・小豆島などの紡績所が営業しており、有数の綿糸紡績地帯を形成していた。
1880年代綿作は外国品におされて衰退した。
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花栽培の島
岡山県真鍋島は、昭和20年代後半、花の島として一躍有名になったことがある。
昭和26年から県の指導で6戸の農家が花の栽培にのりだした。
阪神地方に出荷したところ、飛ぶように売れたことから、栽培地が増え、またたくまに全島にひろがった。
しかし、
真鍋島の成功はほかの地域にもすぐ波及した。
笠岡半島や香川県の塩飽諸島、荘内半島でも花つくりが盛んになり、手強い競争相手になったのである。
海上距離が長い分、真鍋島は、競争上、不利な立場にあった。
それでも需要の増大に支えられて、瀬戸内海の島々と互して花つくりを発展させていった。
ところが1980年代末から沖縄から空輸による花が入ってきた。
沖縄では路地栽培である。
航空運賃と暖房費のコスト競争になったが、軍配は沖縄にあがった。
石の島の盛衰
花崗岩地帯の瀬戸内海は、古くから石材の宝庫であった。
近代に入っても、
岡山市沖の犬島は大阪築港の石の供給地として栄えたし、
国会議事堂は広島湾の倉橋島、徳山沖の黒髪島の石が使われた。
戦後に入っても、石材業は、瀬戸内の「石の島」にとって重要な収入源、雇用機会の場であった。
北木島も石材の島である。
人口別では、
農業1.200人
石材業600人
水産業122人
となっており、生産額では
鉱業12800万円
農林業4200万円
水産業300万円で、石材業の比重の高さが知られる。
1960年代にはドリル・火薬・運搬重機が導入され、
産出力ば飛躍的に増大した。
折からの高度経済成長で、「石の島」は活気づいた。
北木島では海面下75mまで掘り進められた。
しかし、
1970年代後半になると、中国などからの安い輸入石で状況は一変する。
安い輸入材に対抗できず、石切り場はつぎつぎに姿を消す。
北木島では最盛期127ヶ所あった丁場が6ヶ所になった。
今は石の加工が主となった。
加工場は島内に60ヶ所あり、年間総生産額は200億円にのぼる。
その中で北木石は1割弱である。
輸入石は福山・水島になどに陸揚げされ、そこからトラック便である。
北木島へは笠岡港からフェリーでやってくるが、それならばと、笠岡湾を埋立てた工業団地などに移転したのである。
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北前船
地乗りと沖乗り
中部瀬戸内の航路は、中世までは陸地沿いの「地乗り」(じのり)が主流であった。
江戸時代になってしだいに「沖乗り」航路が用いられた。
(陸地沿いでなく倉橋島や因島の南側を通る)
(鞆から下津井までは従来どおりで、白石と高島の間を通る)
それまで櫓漕ぎが主流であったのに対して、木綿帆を用いることで帆走能力が向上し、一気に沖合をすすむことも可能となった。
西廻り航路の発達
「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。
幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。
酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後
西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。
やがて年貢米だけでなく各地のさまざまな特産品も大坂に集まり、大坂から桧垣廻船や樽廻船で江戸に回送されるという構造ができあがっていく。
塩飽の廻船は幕府御用船として寛文から元禄にかけて栄えた、のち特権的地位を失った。
年貢米に代表される領主的流通が中心とされるが、後期には広範な商品生産の展開を背景とした商品流通のうねりが押し寄せてくる。
たとえば、畿内・瀬戸内地域にひろがる綿作地帯では大量の魚肥を必要とし、従来の干鰯(ほしか)のほかに北海道産ニシンの〆粕(しめかす)などが求められた。
初夏、あるいは秋に蝦夷地の産物を積んで西廻り航路を瀬戸内海にやってきた北前船は、船頭の裁量で積み荷の米・ニシン・数の子・〆粕・昆布などを各地で売却し、大坂でひと冬越したのち翌年春には、大坂周辺あるいは瀬戸内各地の塩・砂糖・紙・木綿・古手・甘藷などの産物を積んで北国に向かう。
また大坂・瀬戸内各所の廻船も北国・蝦夷地とを結ぶ交易に進出していく。
九州・中四国と大坂を結ぶ廻船もいっそう盛んに往来した。
港町と遊女
主要な港町には例外なく遊女屋があった。
御手洗の場合も、
町の成立とともにその活動が始まり、江戸時代後半にはつねに100名程度の遊女がいて町人口の2割から1割を占めていた。
「船後家(ふなごけ)」の商売。
船に女性を乗せて各地の港を訪ね、商売がうまくいくところに居着くやり方。
あちこちの港町にすばやく遊女屋が成立するわけである。
遊女たちの境遇は、前借り給銀と引き替えに差し出す茶屋奉公人請状の内容通りで、
年季の間はいかなる事情があっても勤めを逃れることはできず、主人の考えひとつでいつどこへ移されても、またどこでどのような病気で果てようとも、何ら異議を唱えられないものであった。
・・・・・・・・・・・
段々畑
後世「白砂青松」と称される瀬戸内海の代表的景観は、膨大な燃料需要による自然の可容力を越えた林野利用の生み出したものであり、環境破壊の先進地という一面も有している。
綿糸紡績業
綿製品の輸入をおさえ日本の綿糸紡績業の育成をめざした明治政府は、官営紡績所の建設、紡績所企業者への資金貸付などで実現をめざした。
1888年倉敷紡績所、93年に福山紡績所、・・・
98年には西大寺・笠岡・松山・宇和・淡路・阿波・小豆島などの紡績所が営業しており、有数の綿糸紡績地帯を形成していた。
1880年代綿作は外国品におされて衰退した。
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花栽培の島
岡山県真鍋島は、昭和20年代後半、花の島として一躍有名になったことがある。
昭和26年から県の指導で6戸の農家が花の栽培にのりだした。
阪神地方に出荷したところ、飛ぶように売れたことから、栽培地が増え、またたくまに全島にひろがった。
しかし、
真鍋島の成功はほかの地域にもすぐ波及した。
笠岡半島や香川県の塩飽諸島、荘内半島でも花つくりが盛んになり、手強い競争相手になったのである。
海上距離が長い分、真鍋島は、競争上、不利な立場にあった。
それでも需要の増大に支えられて、瀬戸内海の島々と互して花つくりを発展させていった。
ところが1980年代末から沖縄から空輸による花が入ってきた。
沖縄では路地栽培である。
航空運賃と暖房費のコスト競争になったが、軍配は沖縄にあがった。
石の島の盛衰
花崗岩地帯の瀬戸内海は、古くから石材の宝庫であった。
近代に入っても、
岡山市沖の犬島は大阪築港の石の供給地として栄えたし、
国会議事堂は広島湾の倉橋島、徳山沖の黒髪島の石が使われた。
戦後に入っても、石材業は、瀬戸内の「石の島」にとって重要な収入源、雇用機会の場であった。
北木島も石材の島である。
人口別では、
農業1.200人
石材業600人
水産業122人
となっており、生産額では
鉱業12800万円
農林業4200万円
水産業300万円で、石材業の比重の高さが知られる。
1960年代にはドリル・火薬・運搬重機が導入され、
産出力ば飛躍的に増大した。
折からの高度経済成長で、「石の島」は活気づいた。
北木島では海面下75mまで掘り進められた。
しかし、
1970年代後半になると、中国などからの安い輸入石で状況は一変する。
安い輸入材に対抗できず、石切り場はつぎつぎに姿を消す。
北木島では最盛期127ヶ所あった丁場が6ヶ所になった。
今は石の加工が主となった。
加工場は島内に60ヶ所あり、年間総生産額は200億円にのぼる。
その中で北木石は1割弱である。
輸入石は福山・水島になどに陸揚げされ、そこからトラック便である。
北木島へは笠岡港からフェリーでやってくるが、それならばと、笠岡湾を埋立てた工業団地などに移転したのである。