しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

力道山来る

2020年08月22日 | 昭和31年~35年
ニュー井原新聞によると、プロレスの王者・力道山が井原に来たことがある。
その頃、繊維・織物の景気がよかったのだろうな。

マンモス鈴木やジャイアント馬場やアントン猪木の名がない。アリリカ修行中かな。


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ニュー井原新聞・縮小版 昭和33年 12月21日


愈々22日午後2時から
世界のプロ・レス王者
力道山一行来たる
於井原市精研高校校庭

世界プロ・レスリングの王者力道山、東冨士、タニー・シルス、豊登、スタンレー・コワルスキーの一行30余名は、愈々22日
午後二時から井原市精研高校校庭で、竜虎相打つ肉体の激突を展開。
プロ・レスファン待望の世界的大試合を、生々しく眼前に繰り展ける。
主催は日本郷友連盟井原市郷友会、井原市力道山後援会(代表井上勘市氏)であるが、
井原市内所在各種団体の後援を得て、白熱的近畿を盛り上げている。
入場料は当日700円。
前売券一等500円、二等400円、三等300円となっている。


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大相撲井原場所

2020年08月22日 | 昭和26年~30年
子供の頃、笠岡に行くと西ノ浜の葦の原(現在のホリディ付近かな?)、海と土砂が交わる草むらを差して
「あそこに相撲が来た」というようなことがあった。

「ニュー井原新聞」によると昭和29年と31年に大相撲井原場所が興行されている。
当時は一門別に興行している。
29年の”双葉山一門”とは立浪一門のことだろうか?
31年の”東京大相撲”とは、何を指すのだろう?

福山のとんど祭りにも毎年相撲が来ていた。
場所は、現在の「バラ公園」。
当時は、4月の初旬は備後や備中をまわっていたのだろう。

(下記の29年は広告、31年は記事)

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ニュー井原新聞・縮小版 昭和29年4月1日

日時 4月1日
場所 井原市大正橋上手河原
井原市制記念
双葉山一門
大相撲
前売券 150円 当日 200円
勧進元 井上勘一

後援
井原市制祝賀協賛会
太陽館後援会
井原市観光協会
井原市未亡人会


ニュー井原新聞・縮小版 昭和31年3月31日

東京大相撲
4月7日に変更

横綱吉葉山ら
180余名の、東京大相撲は4月6日と予定されていたところ、4月7日に変更。
井原町大正橋際河原で興行される。

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風船爆弾の矢掛小田工場・・・その1

2020年08月22日 | 昭和16年~19年
福島県いわき市に住んでいた頃、地元の新聞に風船爆弾の記事が載ることがあった。

いわき市の勿来海岸は海水浴が盛んだが、戦時中には
その海辺から風船爆弾が打ち上げられた。
汽車に乗った人は海辺側の窓を閉め、目隠しも降ろして、勿来海岸を通過していたそうだ。


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「浜街道を行く」 朝日新聞社 昭和54年発行 より転記。


勿来海岸は美しい白砂の浜が弓なりにつづく。
夏には数十万人の海水浴客が押し寄せる、東北の湘南である。

太平洋戦争の末期、米本土攻撃に風船爆弾が考案された。
大きな風船に爆弾をつけて飛ばし、遠く太平洋を越えてアメリカ大陸で爆発させようというわけだ。
敵側ですでに原子爆弾が開発されているころ、牧歌的というより悲壮感がある。

風船爆弾は、いわき地方で生産される和紙を、コンニャク玉ののりで何枚も張り合わせてつくった。
工場は植田にあったという。


・・・・・・・


詩集「木箱の底から」 川内久栄著 コールサック社 2013年8月15日発行


毎朝 軍の将校から
絶対しゃべるなの訓示を受け
べとべとのコンニャク糊と
あつい蒸気の中へ突入していった
給料をもらった記憶もない

和紙を貼り ちょっとでもウキの気泡があると不合格
にじむ血
花押になり 模様が浮き出ると不合格
ウキを針の先でつぶし
コンニャクノリをぬりつぶした

”つくってもつくっても もっとつくれ
腰痛を訴える 関節が腫れあがる
足のむくみ 異常を認めてもらえない
学徒のひとりやふたり死んでも生産達成させるぞ”

和紙を張りつめた風船爆弾

原子爆弾は毎年語られる
風船爆弾は伝えられない

・・・・・・・


「総動員の時代」 著者・岡山15年戦争資料センター 吉備人出版 2006年発行



津山市の「風船爆弾」製造工場

風船爆弾は、和紙をコンニャク糊で何層にも張り合わせてつくった気球に爆弾を吊り下げたもので、
高度8.000mから10.000mまで上げて冬季偏西気流に乗せ、太平洋を60時間から70時間で横断させ、アメリカ本土を攻撃する兵器である。

4キロ焼夷弾二個と15キロ爆弾一個を吊り下げて飛行するには、直径10mの気球を作ればよいことがわかった。
こうして1943年に「ふ号」兵器は実現のメドがたち、1944年を迎え気球紙の生産、原紙の張り合わせ、気球制作が軍の命令で開始された。

楮(こうぞ)とコンニャク糊の確保ができないので、10万個から15.000個の目標に変更された。

できるだけ薄く規格通りの寸法にすかれた紙は、工場に送られコンニャク糊で五層に張り合わせて気球の外皮(球皮)に加工される。

次いで気球を製造する工程にすすむ。
この作業は直径10mの気球に圧搾空気を入れてガス漏れの試験ができる大きな空間が必要となる。
そのため、東京では日劇・国技館・浅草国際劇場などが使用された。

真庭郡落合町栗原でも玉皮を加工していた。
徴用された女性20人ぐらいが作業していた。
栗原地区が選ばれた理由は、コンニャクの産地だった。空き倉庫があった。

風船爆弾は秘密兵器なので、球皮の生産にも機密保持が要求され、工場関係者にも詳しくはわからない。
それだけに敗戦になると証拠を隠滅し、関係書類はすべて焼却された。
経緯・コンニャク糊の入手先、生産実績などは不明である。
戦後工場は取り壊された。

こうして焼夷弾と通常爆弾を吊り下げた風船爆弾は、1944年11月から1945年4月まで千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の海岸基地から放球された。
約9.300個であった。
戦後アメリカ側の資料によると、到達したもの287件、オレゴン州で6人被害した。

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