しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ボール井原

2020年08月24日 | 昭和41年~50年

ニュー井原新聞・縮小版 昭和45年3月11日


「ボール井原」が発足


株式会社「ボール井原」の設立総会は、昭和45年3月9日井原商工会議所会議室で開かれた。
同会社は遊技場、ボーリング場、食堂喫茶の業務を行う。

井笠鉄道井原駅舎跡に建設される、井笠バスのターミナル二階に、ボーリング場「ボール井原」を開設する。
ボール井原は、約400坪の二階一面に18レーンのボーリング設備を施す。

最近では、商店にお顧客に対するサービスにまでとりいれられるほど、
折角招待した顧客を福山、笠岡方面にまで連れ出さねばならぬという。
一人でも多くの客を集め、多く売りたいという商店街の悲願の現象を見せてきており、
こういった観点からみるとき「ボール井原」の出現は甚大な顧客の吸引力となるばかりか、勤労者、青年・婦人、
また一般市民にとっても、清潔で明るい、健康と娯楽のセンターになることが確実視せられている。





写真はボール井原の完成予想図であるが、正面は現在の駅前通りで、階下約400坪の半分がバス発着場、半分がボール井原駐車場。
鉄道は近い将来廃止の予定だが、廃止が決まるまでは駅舎もこの中に入る。


なお井笠鉄道では、引き続いてこの建物の北側に、現在の井原駅前通りに向けてショッピングセンターの建設を計画しており、両三年を出ずして面目を一新、
岡山市における”天満屋付近”を想はすいん賑の日も間近いわけである。

◎資本金4.000万円(井笠鉄道と地元有志の折半出資)


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井笠鉄道の廃線問題

2020年08月24日 | 昭和41年~50年
井笠鉄道の鉄道事業は、昭和46年3月31日で終えた。


(2016.3.27 笠岡市山口・井笠鉄道祭にて)

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ニュー井原新聞・縮小版 昭和44年11月11日




井笠鉄道の廃線問題
全体では会社に同情的


井原市議会では、去る昭和44年9月29日井笠鉄道株式会社から、笠岡井原間鉄道の全面廃止について賛同方の申し入れがあったことについて11月5日全員協議会を招集。
井笠鉄道から関藤社長、北村専務、高浦常務ら会社首脳の出席を求め、第一回の話し合いを行った。
関藤社長から、最近の鉄道はバス、乗用車に顧客を奪われ、過去5年間の累積赤字は1億5千万円に達している。

一時はバスの収益によって鉄道の赤字を補填できたこともあったが、近ごろではこれも不可能な状況になった。
ついては笠岡井原間を廃止したいが、廃止と同時に井原笠岡(小田西経由)の運行系統を新設する。木之子、宮の端経由の井原笠岡線を新設する。
バス部門の拡充強化によって、これまで鉄道利用の沿線住民の不便解消に努める旨確約したといわれる。

年間3000万円になんなんとする赤字を背負い込んでいる会社側には、各議員とも等しく同情の声が強い。
強い反対運動をしている木之子地区住民の、ある程度の納得いく対案が示されれば、廃止に賛成はやむなしのようだ。


なお、井笠鉄道は大正2年に開業。
井原、笠岡、矢掛、神辺をつなぐ37キロの沿線地域の、産業、文化、福祉の招来に至大な寄与をしたが、
時代の趨勢には勝てず、昭和42年3月31日には矢掛、神辺線を廃止している。



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奥出雲たたら

2020年08月24日 | 令和元年~
奥出雲の「たたら」跡や「田部家」には、是非とも一度訪れたいと思っていた。
今回三瓶山に行くことになり、それを利用して現在は島根県雲南市吉田町の「たたら・田部家」に立ち寄った。

(訪問日・2020年8月19日)

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(田部家土蔵群)



奥出雲たたらの道を往く「歴史と旅」秋田書店 昭和59年12月号


明治になるまで出雲地方の鉄の生産量は全国の30%を占めていた。

豊かな財力で出雲御三家と称される絲原家、桜井家、田部家の歴代当主は出雲の山奥に文化の花を咲かせていた。





江戸時代の初期には千石船を何隻も所有し、安来港から大坂方面に販売し巨利を得ていた。
江戸中期からの松江藩統制下に入っても、鉄師筆頭頭の地位を占めている。






一つのたたらを経営するには木炭をつくる山林3.300ヘクタールが必要だという。
最盛期の田部家にはたたら7~8ヶ所あったというから、
田部家が日本一の山林王と呼ばれるのもうなずける。




田部家の中心になっていた菅谷高館(すがやたたら)は、吉田町の中心から4キロほど北に行った山間にある。
これは現存する高館としては全国で唯一のものだ。

高館ばかりでなく、元小屋(事務所)、米倉、鉄倉、炭小屋、長屋(従業員住居)など、
いわゆる山内(さんない)と呼ばれる高館を中心とした集落構造を今に残している貴重な遺跡だ。
高館は国の重要民俗資料に指定されており、かつての米倉には、大量のたたら用具が保存されている。
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