しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

広島の原爆投下・・・その2

2020年08月06日 | 昭和20年(終戦まで)
おじ(母の弟)は15才で海軍飛行予科練習生を受験し、合格。
昭和19年4月出征、昭和20年10月に復員した。

おじが予科練時代の話で、嗚咽がもれるように話す時が三度あった。

一・予科練の合格時の母の表情
二・特攻兵に選ばれた時
三・原爆の雲を見た時


(昭和19年、松山予科練のおじ・まだ16才)


談・2003年3月16日

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昭和20年8月6日朝8時15分 、広島県豊田郡安浦町(現在は呉市)


安浦で、その時なにをしに登っとったのか覚えておらんが。
安浦の海兵団におる時、高い山じゃあないが。80メートルくらいじゃろうか、その山の上にあがっとった。

広島の方向から黒い煙がなぁ。
真っ黒ぃ煙が。
「広島の燃料タンクがやられとる。」そう、思ようた。

野呂山の方が赤いのも見えた。
真っ黒い煙はごうごうごうと上にあがってのう。
すごっかた。そりゃあ、のう。

それから10分くらいしてから「B17」じゃろうか?「B29」か?どっちか知らなぁ、大きょう見えた。
低空でなぁ。
ゆっくり帰るんじゃ。4~5メーターの大きさに見えた、下から見ると。
ゆっくりスピードを落として、それが原爆を落としたんじゃ。

すごかった。そりゃあ。
ぐっぐっぐっ上がりょうた。



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広島の原爆投下

2020年08月06日 | 昭和20年(終戦まで)
おじ(母の弟)は安浦海兵団に所属し、その時偶然安浦の丘にいて、真っ黒い雲がぐんぐん上がっていくのを見た。安浦からでも赤い炎が見えたと話していた。
「広島の兵器庫が爆撃を受け爆発した」と兵同士で会話をしていそうだ。

義父(妻の父)は海軍兵で、被爆した2日後に広島に救助に行って悲惨な現状を見た。
その義父の具体的な話を聞こうと思つていたが、その前に亡くなってしまった。




(2018.5.3)




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「広島県史 近代2」

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原爆投下 

8月7日15:30 大本営発表
1・昨8月6日広島市は敵B29少数機により相当の被害を生じたり。
2・敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり。

8月7日仁科芳雄博士は書簡で、
「今度のトルーマン声明が事実とすれば我々『ニ』号研究の関係者は腹を切る時が来たと思う」。

8月8.9.11日内務省防空総本部
「待避号壕は極めて有効であるから頑丈に補修すること」
「軍服程度の衣類を着用していれば火傷の心配はない」

8月10日
大本営は原爆であると確認を得た。(終戦まで)発表はしない。

8月10日 日本政府はスイスを通じて
アメリカに新型爆弾は毒ガス以上の残虐性をもつものであり、その使用を中止の抗議文を渡した。

8月14日 海軍技術研究所
本部長の結論、日本中の物理学者を信州の地下壕に集め日本でも原爆を作り米国へ投下する。


8月16日 読売新聞
我々は敵を恨みその非人道を鳴らすよりも新兵器を発明した彼らの技術力を「敵ながら天晴れ」として
強い敵を賞揚してきた我らの武士道的精神をもって鷹揚に認め、我らがこれを有さなかった非力を憾みとすべきである。


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福山城御水門跡

2020年08月06日 | 無くなったもの
場所・広島県福山市三之丸町  「福山城外堀舟入状遺構」
無くなった日時・2008年
撮影日・2008.4.18


福山城はお掘にボラが住むと歌われた。



ここに二重櫓と御水門があった。






瀬戸内海が福山城下町を通りお城の外堀へつづいていた。


父は果物を船に積んで木綿橋まで運んでいた。
つまり昭和まで、福山城下に木綿橋までは水路(海路)がつづいていた。



瀬戸内海が福山城に突き当たるのが福山城外堀の「御水門」、
ボラが住んでいたのは、この南外堀と御水門ふきんと予想される。









この発掘中に福山市民から「福山駅前水辺公園プロジェクト」が起こった。


外堀を生かした駅前広場をつくるもの。
市民10万人の署名が集まったが、行政はほぼ無視して、遺構は再び地下に埋まった。







文化財の保護、それがしかも市を代表し象徴でもある福山城の遺構。
それを生かした街づくりに率先して旗を振るのが福山市長の務めだが、まったく機能しない人だった。

福山市の、観光代表の鞆の浦も架橋を造って景観破壊を率先したが、広島県知事などの反対でどうにか阻止できた。

文化財を生かすことは無縁の市長だった。福山の悲劇だ。


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福山城東外堀遺構

2020年08月06日 | 無くなったもの
場所・広島県福山市城見町 
無くなった日時・2005年
撮影日・2005.4.29 「福山城東外堀跡発掘調査現地説明会」


福山城は明治の初期には、「日本10大名城」にも価するする大城郭だった。
しかし令和の今では、「日本50大名城」の範囲だろう。


その理由は、広大な内堀・外堀が何一つ残っていないから。






逆に言えば、ことごとく壊してきた。













これほどの城郭遺構が残っていても、
工事を一時停止で発掘調査、
調査が済むと、この福山城の東外堀は永久に消えてしまう。










福山市は、そうゆうことを明治から平成時代まで、何度も繰り返してきた。
何度も広大な城郭を取り壊し続けてきた。











何故か、無傷で残った本丸だけは
各種、史実に関係ない再現や再建に熱心な福山市行政だ。






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笠岡での「ミズノオープン」~全英への道~

2020年08月06日 | 無くなったもの(笠岡市)
場所・笠岡市鋼管町 JFE瀬戸内海ゴルフ倶楽部
無くなった日時・2017年
撮影日・2017.5.25


年に一回、笠岡市がテレビの全国放送の舞台になった。
それが~全英への道~ミズノオープン。




管理人にとっては「ウサギ追いしかの山」がテレビに映るので、毎年楽しみだった。
4日間の日程で、うち1回は見に行っていた。






もっとも話題を呼んだ大会は、人気絶頂の石川遼選手が出場した時。
すごい人気!
とくに中年女性!

黄色い声援が、遼くんを追いかけていた。







遼くん以外にも、毎年有名選手が出場し見ていて楽しかった。
地元のブースも笠岡市と福山市の名産品が並び知った顔に会えていた。




この年(2017年)が最後になりさみしかったが、
2020年には女子の大会が決まっている。
「第53回日本女子プロゴルフ選手権大会コニカミノルタ杯」が9月10日~13日。

新型コロナウイルスで大会中止にならなければよいが。







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追記・2021ミズノオープンは笠岡で開催された。
新聞を見て初めて知った。
新型コロナ対策で無観客で開催された。
(2021年5月31日記)

ミズノオープンのHPより↓
2021.05.30「~全英への道~ミズノオープン」は、17アンダーでJ・パグンサン プロが優勝しました。
この大会で与えられる全英オープンの出場権は、J・パグンサン プロ、永野 竜太郎プロが獲得しました。


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