しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

敬業館

2023年12月06日 | 学制150年

笠岡村に”寺子屋”は、推測だが5~10程度あったと思われる。
笠岡は寺の町だったので、文字通りの”寺子屋”も多かっただろう。

名代官として知られた早川八郎左衛門正紀の時代に、「敬業館」ができた。
四書五経など教える郷学だったので、現在に言うと中等教育(中学・高校)の一段高い学校だった。

 

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「岡山県教育史上巻」 

久世條教刊行 

代官は躬行実践を以て身を律し、屡々部民の啓蒙に奔命し、更に其の趣旨を徹底せしめんが爲、條を纏めて月毎に部民に諭した。 
これが『久世條教』である。
『久世條教』は早川代官の管下たる美作久世に流布したのみならず、常陸の代官岡田寒泉によつて刊行、其の管下七郡百八十二個村にまで頒布せられ、
此種著書の権威としてとして重きをなしたものである。

・・・

笠岡敬業館

笠岡住民の感激

久世代官早川正紀は、天明八年七月二十一日備中笠岡の陣屋をも支配することなり、其の教化的活動は久世同様に熱烈であった。
幕府は久世典学館の成績に鑑み早川代官を褒章し、支配所高二万石を加増した。
笠岡住民を感激せしめ、同年八月有志26名をして学問振興のため学館建設方を請願し、遂に笠岡八幡平に敬業館の完成を見るに至った。

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(笠岡市笠岡「敬業館」跡 2017.12.28)

 

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 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

『久世条教』を忘れるな

「どんなに貧しい家庭でも、母の乳房が二つあれば二人の子どもは養える。
子を殺すことは言語道断の悪事である」(『久世条教』)
奔走した一人の代官がいた。 
それが、江戸後期の名代官として知られる早川八郎左衛門正紀である。
彼が天明七年(1787)に美作(現、岡山県東北部)に赴任して間もなく村々の実情を見て回ったところ、
村人は三人目からは間引きをし、貧困者にいたっては 一人残さず間引きをしていた。
そこで天明九年に「赤子間引きの制札」を村々へ出 し、三人目から銭五○貫文の養育費を支給するとともに、
目付役による間引き監視 や連帯責任による処罰を行なうことを伝えた。


いっぽう、当時荒廃していた地域を復興させるため、寛政七年 作国久世に日本最初の教諭所「典学館」、
寛政一〇年笠岡に「敬業館」を設立して庶民教化に努め、さらに『久世条教』という啓蒙書を出版した。
本書には、堕胎・間引きを戒めた「洗子 を禁ず」の一条を加えて育児を奨励し、
農民を集めて月三回教論を行ない、正紀自身も春・秋二回に地域を巡回して民衆に説論した。


*早川正紀、江戸中・ 後期の幕臣。通称、八郎左衛門。 
関東の河 川工事を行ない、出羽・美作・備中・武蔵 国の代官として活躍した。 

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「井原・笠岡・浅口の歴史」 郷土出版社 太田健一 2009年発行

敬業館

江戸時代後期、武士や庶民の間に学問への欲求が高まった。
支配階層である藩士の教育を目的とする藩校が設立される一方、庶民が学ぶ郷学も登場した。
笠岡に作られた敬業館も庶民の学問への高い志によって造られた郷学である。
寛政九年(1797)、笠岡代官所石橋屋久右衛門他二十五名の連署で学館設立の請願書が出された。 
その内容は「在町之老若」に時々教諭の機会を設け、志ある者には家業の間に素読などを学ぶことができるようにというもので、
まさに庶民のための学校作りが目的であった。
建設費は学館建設を請願した人々の中の富裕層を中心に、銀二十貫目と三十両が集められた。
また運営費は建設費の余ったお金を貸し付けて、その利子を運営費に充てるとした。

笠岡村八幡平に教堂ほか三棟、約四 十坪の建物・敷地を持った敬業館が開設、翌年には町内有志から漢籍も寄附され、敷地も村有となるなど態勢が整い、教育の場が開かれた。
敬業館を語るうえで欠かせない人物が二人いる。
一人は当時の笠岡代官早川正紀である。
早川は天明七年(1787)久世の代官として久世村 (真庭市)に赴任、翌年には笠岡の代官も兼務となった。 
早川が久世に郷学典学館を設立したことを知った笠岡の領民は、笠岡にも学館をと代官所に請願を行った。
早川代官はこれを許可し、敬業館と名付けたという
もう一人は初代教授の小寺清先 (1748~1827)であ る。
笠岡の祠官であった清先は、早川に敬業館の初代教授に迎えられ、 四書五経を中心に講義を行った。
郷学の教授として長年庶民の教育に当たるとともに、笠岡の文化の向上に努めた清先は文政十年(1827)に死去、三男の廉之が二代目教授を継いだ。
さらに嘉永元年(1848)廉之の死去後その子完之が跡を継ぐものの、
慶応三年学館の維持が困難となり郷学としての敬業館は閉校、五十有余年の公教育の場は幕を閉じた。
しかし明治五年(1872)敬業校と名付けられた学校は、明治十年に改称して現在の市立笠岡小学校となり今に至っている。

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戦争期の桃太郎

2023年12月06日 | 学制150年

戦時中の子どものヒーローといえば、「桃太郎さん」や、無敵の「双葉山」や、忠君「楠木正成」。
今も変わらず日本中の子どもに親しまれているのは、桃太郎さんだけ。

現代では話は少し変わり、
「金銀珊瑚綾錦(きんぎんさんごあやにしき)」を持っての凱旋帰国でなく、元の所有者に戻したり、
鬼は改心して良い鬼になるようだ。

 

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(広島県福山市新市町「吉備津神社」 2023.11.29)

 

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「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行


A.戦争期の桃太郎

「サクラ読本」と呼ばれた1933(昭和8)年の「小学国語読本 巻一』(尋常科用)では、
22ページという1年生向きとしては大変多くのページをさいて、桃太郎を学習する内容となりました。
教科書がカラー版でさし絵も
1おばあさんの洗濯、 
2桃太郎の誕生、
3出陣、
4犬との対面、 
5猿、との対面、 
6鬼ヶ島の城門を猿薙が越える、 
7戦闘場面、 
8鬼の大将が謝る、
9凱旋、
と絵本教科書ともいうべき内容になりました。 

ちょうど満州事変後で日本が中国との戦争に入っていたので、桃太郎は、兵士を従え、
りりしく戦に立ち向かう大将みたいだと子どもたちが考えるようにされていったのです。

 

 

さし絵は鬼の顔がどう見ても欧米人の顔に似ています。 
アメリカやイギリスとの戦争に入っていくことを意識したのでしょうか。
そして凱旋する桃太郎を迎えるおじいさんやおばあさんは、日の丸の小旗を振っています。
まるで戦場から帰ってくる兵士を出迎えている光景です。 
こうして桃太郎は「八紘一宇」のスローガンの下で大東亜共栄圏 をつくる英雄として学習されるようになっていったのです。

 

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鳥取城”渇え殺し”は、飢えで死に、次いで栄養摂取で死ぬ

2023年12月03日 | 【史跡】を訪ねる

昭和13年の秋、兵糧を現地調達しながら、大別山脈を越えて、やせ細った日本兵がようやく漢口(現・武漢市)に入城した。
国際都市漢口の倉庫には、山と積まれた米があり、飢えた日本兵は腹いっぱいにそれを食べ「いっぺんに食べ過ぎて死んだものもいた」
と、父は話していた。

おば(父の妹)は満州から引揚時、
「葫蘆島から笠岡に帰るまでの間、食べたものは博多港でもらったオニギリ二つだけ。
それで家に着いて、食べようとしたら舅が兄嫁に”いっぺんに食べさすな!”と大きな声で言った」
と話していた。

その二つの話を思い出す記事が今日、新聞に載った。

 

・・・


兵糧攻めの生地獄

「歴史と旅」 昭和57年12月号 秋田書店 


秀吉の軍勢による鳥取城包囲網が完成したのは七月十二日。
こうして数ある戦国の戦史の中でも最も悲惨かつ凄惨な戦い「鳥取城の兵糧攻め」がはじまる。
兵糧さえあれば、確かに鳥取城は容易に落ちる城でなく、
秀吉はとにかく新たな兵糧の搬入ができない完全包囲態勢をしき、とにかく城中の食 糧が食いつくされるのを待った。
九月ごろからは兵糧も底をつき、草や木の皮などで飢えをしのぐというありさまとなり、
さらにそれらも食べつくすと馬の肉を食べ、ついに餓死するものも出るようになった。
特に鳥取城の戦いが凄惨だったのは、 そうして餓死した人々の肉を、まだ生き残っていた城兵が食べたということであろう。
こうした、
「生地獄」(いきじごく)
を目の当たりにして、さしもの剛将吉川経家も講和開城の和議交渉に入る決断 をした。
結局、十月二十五日、経家が切腹し、城兵の命は助けられ、城は開城したのである。 (小和田哲男)

・・・

 

山陽新聞 2023.12.3 (新聞記事)

鳥取城 兵糧攻め
飢餓後の多食で急死
歴史書から推察  医師ら論文

 

 

1581年の羽柴(豊臣) 秀吉による鳥取城(鳥取市) の兵糧攻めで、落城後に助け出された人たちが、かゆを大量に食べた後に死亡たのは、飢餓後の栄養摂取で起きる「リフィーディン グ症候群」と推察できるとする論文を、東京都立多摩総合医療センターの鹿野泰寛医師らのグループが2日までに発表した。
 鹿野氏は「教訓的な逸話として後世に残すべきだと考えた」と話す。

鳥取城の兵糧攻めでは、3カ月以上に及ぶ籠城戦で 極度の飢餓状態が発生。
城主の吉川経家が切腹することで戦いは終わった。
ただ 織田信長の伝記「信長公記」 や豊臣秀吉の時代の出来事まとめた歴史書「豊鑑」に
「城内から助け出された人たちが食物を食べたが、過半数がすぐに死んでしま った」「かゆをたくさん食べた者はすぐに死んだが、少し食べた者は問題なかった」といった記述があっ た。
リフィーディング症候群は、低栄養状態にある人が急激に栄養を摂取することで電解質異常やビタミン欠乏症などの合併症を起こす病気で、死亡することもあ る。
鹿野氏らは食事量の違いとその後の症状の関係などから、同症候群が発生していたと確認し、論文は米医学誌に掲載された。
鹿野氏は、現代でも低栄養状態の患者に摂取する栄養量を管理する必要があると説明するときに、鳥取城 の逸話を例に出すことがあるという。
「鳥取城の兵糧攻めは、医学界ではリフィ ―ディング症候群と考えられる事例として有名な逸話 だったが、英語で医学的な 論文化はされていなかった。
海外でも患者への説明 に利用できれば、文化的財産として価値がある」と語 った。

 

 

・・・

画像は2020.10.14・鳥取城跡

 

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尋常小学校唱歌・四学年「広瀬中佐の歌」

2023年12月02日 | 昭和の歌・映画・ドラマ


轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)
荒波洗ふ デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
「杉野は何処(いづこ)、杉野は居ずや」

船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)
呼べど答へず さがせど見えず
船は次第に 波間に沈み、
敵弾いよいよあたりに繁し

今はとボートに 移れる中佐
飛来る弾丸に 忽ち失せて
旅順港外 恨みぞ深き、
軍神廣瀬と その名残れど

・・・

母は、このことを自分で見てきたように小学生であった管理人に語っていた。
杉野はいずこ、杉野はいずや。
母が小学4年生は昭和5年頃。
広瀬中佐は軍神第一号だったので、
その後雨後の竹の子のように生まれた軍神とは、認知度も知名度も全く異なる。

母が習って5年後、昭和10年。
軍神広瀬中佐は歌だけでなく、広瀬神社も出来た。
日本は軍事国家から神の国へと転換し、
昭和の戦前では楠木正成と並んだ英雄として、いよいよ祀り上げられた。

 

撮影日・2013年2月21日 大分県竹田市「広瀬神社」

 

・・・
その昭和10年、軍神・広瀬中佐に関する座談会が文芸春秋社で決まった。
・・・・

 

   「歴史好き」  池島信平  中公文庫 昭和58年発行

K兵曹


昭和十年は、日露戦争三十年というので、国内でいろいろの催しが行われた。
わくわくするような軍国調が心理的にも、聴覚的にも、日本中に高鳴って来た。

日露戦争生残りの将軍たちの思い出ばなしが、新聞紙上、あちこちに連載された。
それぞれに 面白く、いまはじめて聞くような逸話もあって、わたくしは愛読したが、「何かが足りない」と いう気持は読後もずっと尾を引いていた。
「新聞」が大将、中将なら、こちらは下士官、兵卒でゆこうと思って、企画を出したら、編集会 議でパスした。
そこで日本の農村や町から、一銭五厘の召集令状で集められ、まだ見たことのな 異国の戦野で戦った「名もなき民」たちの戦争回顧録を集めることになった。

海軍でいこうというので、座談会の出席者をあちこち捜して回った。
旅順の閉塞隊に加わって、軍神広瀬中佐が戦死する時、すぐその前でボートをこいでいた下士官の名前と住所が分ったので、出席依頼に早速出かけて行った。
捜してた家は、川崎へんの工場街にある小さな長屋の一軒であった。

年齢不詳のおかみさんが現れ、
「ああ、おじいちゃんなら、いま仕事中で、もうじき帰ってくるから上って、待ってなさい」 といって、上りばなの三畳の部屋に通された。
小さなはだか電球が一つぶらさがり、にぶいあかりがついていたから、夕刻といってよい。

「おじいちゃんだよ」
大分待たされたが、そのうちに、戸口が開いて人が帰ってきた。
と、いわれるまでもなく、わたくしはふり向いたが······驚いたことに、それはチンドン屋さんであった。
サムライ姿のその人は、わたくしの用向きを聞き、
「ちょっと待って下さい、顔の白粉、落してきますからね」
わたくしは、アレヨアレヨである。旅順決死隊の勇士とチンドン屋さん――これがとっさに
一つに結びつかないのであった。


Kさん(戦艦朝日乗組み)、下士官で唐辛子屋...... (水雷の形が唐辛子に似ているので、当時 水雷科員のアダ名) きちんとすわり直した初老のこの人は、
ご商売とはちがったマジメな感 じの人であった。
ぽつぽつと口がほころびて、戦争のはなしになった。

「広瀬少佐が戦死された時、わたしはボートの一番をこいでいました。
すぐ目の前ですよ、 
少佐は元気で(みんなオレの顔見てげ)といって、沖へ沖へと舵をとっていましたが、
瞬間(ウーン)という声だか音だか分りませんが、
わたしが顔を上げると、少佐の首が見えず、真 赤な血が首元からふき上ると、胴体がコロリと海の中へ落ちこんだのを見てしまったのです。
はっと思って、オールをつかむと同時に、わたしは胸のあたりに生ぐさいものを浴びせかけられました。
これが広瀬少佐の血だったんです・・・・・・」

ショッキングな話を、実に淡々として話すのである。
「杉野上等兵曹は、色の黒い大男で、この人が艦に着任した時は、こんなオコゼみたいな顔の男
が、われわれの上官になったんじゃ、かなわないなと、みんな言ったもんです」

わたくしが座談会のことをもち出すと、
「座談会って、どんなものか知りませんが・・・・・・」
「戦争なんて、つまらんものですよ」
と、ポツンといった。
ここに醒めたひとがいる。
すっかり暗くなった裏町をたどりながら、わたくしは彼の最後の言葉のにがさと重みをかみしめていた。
旅順口閉塞隊勇士、K兵曹は、もうこの世にはいないであろう。
たった一回あっただけの人で ある。

・・・


広瀬武夫
(Wikipedia)
 

兵学校卒業後、日清戦争に従軍し、1895年(明治28年)には大尉に昇進。
1897年(明治30年)にロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。
1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。
3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。
撤退時に部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。
救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。
5日後、広瀬の遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるところをロシア軍によって発見された。
戦争中であったが、ロシア軍は栄誉礼をもって丁重な葬儀を行い、陸上の墓地に埋葬した。

日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には1935年(昭和10年)に岡田啓介(当時の内閣総理大臣)らと地元数百名の手により広瀬神社が創建された。
また文部省唱歌の題材にもなる。
明治末期に、銅像が国内に3体建立された。

・・・

 

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西井ウイメンズクリニック

2023年12月02日 | 無くなったもの(笠岡市)

場所・岡山県笠岡市中央町 
閉院・2023年12月末日(予定)
撮影日・2023.11.19

 

 

管理人は、茂平の産婆さんの世話によって産まれた。
子供二人は、(妻の地元で)井原市民病院で産まれた。
孫の三人は、笠岡の西井産婦人科(西井ウイメンズクリニック)で産まれた。

両親はたぶん、両祖母の自力で出産したと思われる。
永く出産は、母体にとって生死を分ける危険があったが、
産婆さんやお医者さんによって安全度や安産度が高くなった。

ところが、
産婆さんが、ほぼ消滅し、ほぼ全員が病院で産むようになったにもかかわらず、
出産は病気でない、という理由で”健康保険”が使えないまま半世紀。

その半世紀の間に、
医療責任や、その裁判沙汰、医療労働の長時間化
により医療現場はキツくなり、責任度は高くなった。

少子化傾向は止まず、
産科医院は減り、
出生率は下がるばかりだ。

今回の西井先生の閉院で、
岡山県の井笠地区では、産婦人科医はなくなる。
浅口地区は倉敷の病院で出産、
笠岡・井原地域は福山市の病院で産むように指導するそうだ。

 

 

 

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日生~小豆島航路

2023年12月02日 | 無くなったもの

場所・岡山県備前市日生町~香川県小豆島町大部
無くなった日時・2023年11月30日
撮影日・2010年2月7日(日生港)


日生(ひなせ)と小豆島大部を結ぶフェリーが廃止された。
航路廃止が数か月前に報道され、一度利用したいと思っていたが、
12月1日の新聞に最終便の写真ニュースが載り、ついに一度もしなかった。

観光の島・小豆島には岡山港、高松港、宇野港、姫路港、大阪港から多くの航路があるが、
大部港に着くのは日生からの航路だけだった。

 


NHKニュースによれば、
「新型コロナの影響で、利用者が大きく減少するなど、今後も回復が見込めないため」と 両備グループの瀬戸内観光汽船が発表したが、
他にも、
過疎化や高齢化などを背景に、利用者や物流量が減少。
燃料費も高騰した。
ことによる経営悪化と報道された。

 

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