しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「天空の城」に登る 相方城

2023年12月20日 | 「天空の城」に登る

相方城
場所・広島県福山市新市町

 

 

備後地方(広島県の東半分)では知られた山城だが、
広島県全域ではそれほどでもなく、中国地方となると無名に近い山城。

だが芦田川沿いの絶壁に築かれた、戦国時代の城跡に立つと、脚はふるえるほどに危険な場所に石垣の遺構が残る。

岐阜県の犬山城は木曽川沿いに建ち”日本ライン”を構成した城跡だが、
相方城も芦田川とで”備後ライン”と呼んでいい。

 

広島県史跡 相方城跡 (さがたじょうあと)
標高191mの通称「城山」の山頂を中心にして、東西約1000m、南北約500mの範囲に城郭遺構が分布する大規模な山城である。
芦田川を挟んで正面に見える亀寿山城 (標高139m)を本拠地として備後南部に勢力をもっていた国人領主の宮氏や、
相方城より南の地域を本拠地としていた宮氏一族などにより16世紀前半には、中世山城として整備されていた。
天文21(1552)年に宮氏が滅んだ後は、有地一族が出雲国や備後国北部などに給地替えされるまで、 相方城を拠点に当地を支配していた。
その後は、毛利氏の直轄城となり、東方備えを目的とした近世城郭として整備され、
関ケ原の戦い (1600年) による毛利氏の撤退によって相方城は廃城となった。

1995年1月23日広島県史跡指定
広島県教育委員会・福山市教育委員会

 



訪問日・2023.12.20

 

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孝女・津留の顕彰碑

2023年12月19日 | 江戸~明治

場所・岡山県井原市七日市町・孝津公園


今もつづく「春の褒章」「秋の褒章」は明治10年頃制度化されたようだ。
表彰や勲章は、体制の安泰に一定の効果があり
江戸時代から孝子・孝女はお殿様や為政者からご褒美をもらっていた。

 

笠岡近辺では、
浅口郡大島村柴木の孝子・甚助が有名であり、井原には孝女・津留がいた。

 

・・・

講談社の絵本  

孝女といえば、なんといっても、歌にも映画にもなった”孝女白菊”

・・・

 

庶民教化活動 孝子伝の刊行
各藩は、孝子をはじめとする忠臣・義士・貞女などのいわゆる善行者を表彰するという方策がとられた。
江戸時代においては「孝は百行の本」といわれ、孝は「五倫五常」の道を代表する最も重要徳目であった。
孝行なる者、法令に忠実に従う者、質素で勤勉なる者などは支配者の期待する人間であった。
一方、幕府は、寛政元年全国各地の為政者に対して、孝行または奇特なるもの褒美ありしは、記録あるかぎりは「孝義録」の資料集めを始めた。 
これらの孝子伝には、酒飲みの父親にも身を粉にして尽したとか、いやな病人の看病をいとわなかったとか、孝行の概念が誰にもわかるような、具体的な事例をとおして紹介されている。
これらの孝子には藩主から、金・銀・銭・米等 が褒賞としておくられている。


孝子頸彰
岡山県内でもこうした孝子伝の刊行と、地域によっては孝子の顕彰碑が建てられている。
孝子をはじめとする善行者の表彰は、明治に入ってからも県知事などによってしばしばおこなわれた。
表彰状と賞品が手渡され、各町村はそれを名誉なこととしたのである。

井原市出部の孝女佐藤津留は七歳にして父を喪ったが、病床の母を看病するかたわら一心に働き、食物はまず病気の母に与え残りを自分がたべたという。 
津留が成長して結婚話が起きても、母親に孝養ができないというので断わったというもの。
明治八年県令から表彰された。
昭和五年になって石碑が現在の井原市に建立された。
なお、津留の話は昭和初期後月郡教育会によって編さんされた副読本にものせられている。

「岡山の教育」   秋山和夫 岡山文庫 昭和47年発行

・・・

孝津公園 訪問日・2023.12.18

・・・

 

「ふるさと探訪 出部の史跡」 いずえ地区まち協 平成30年発行

 

七日市町の日芳橋手前の道を100mほど南下した道路の右手に「孝津公園」がある。
これは、母に孝養をつくした孝女津留にちなみ名づけられたものである。

佐藤津留碑(法学博士男爵 阪谷芳郎題額) には、
興譲館長 山下秋堂の次のような碑文が刻まれている。
孝女佐藤津留は、弘化2 (1845)年七日市に生まれた。幼い頃父を亡くし、母と姉と3人で暮らしていた。 
母と姉は病弱なため、津留は7歳の時から姉を励まし、母の看病に尽くした。 
近所から食べ物をいただくと、津留はまず母にささげ、次に姉にすすめ、残りがあれば自分が食べていた。 
津留の手厚い看病のお陰で母の病気も少し良くなったので、姉は近くの村へお嫁に行った。 
その後は田畑を耕し、一人で養っていた。 
晴れた日には、前のはふご(わらで作ったかご)に母を乗せ、後ろのはふごには農具を乗せ、天秤棒で担いで田畑に行きのあぜの木陰に母をおろし、時々会話して 母の心を慰めながら田を耕した。 
夜は母の枕元にすわり背中をなでたり、 肩をもんだりした。 母が眠った後は、静かに糸車を回し、夜遅くまで糸をつむいで家計を支えた。 
津留が年頃になった時、周囲の人々が養子を迎えるよう勧めたが、 母の孝養が思うようにできないと断った。
明治18(1885)年1月、 岡山県令(今の県知事) は、津留の孝心をたたえ、褒賞金を贈り表彰した。 
明治23(1890)年6月、母の病気が重くなり、 津留は十日余り、ほとんど寝ないで看病した。 母は多年の孝養に感謝しながら78歳でなくなった。
明治24(1891) 年津留の孝心の素晴らしさがついに宮中にまで知られ、 緑綬褒章 (親孝行など特に優れた人に与えられる賞) を賜った。 
そして、 時の文部大臣、井上毅は、津留の孝養に痛く感激し、 彼の文章が女学校の教科書に掲載されると、その孝養は全国に知れわたった。
津留は大正15(1926)年3月11日、82歳で亡くなった。
昭和5 (1930)年1月、地元の有志の人たち は、津留の孝心を永く後世に残すため自然石の基壇 (高さ210cm) の上に佐藤津留碑を建立した。

「ふるさと探訪 出部の史跡」 いずえ地区まち協 平成30年発行

 

・・・

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十七瀬川栄吉の墓

2023年12月19日 | 江戸~明治

場所・岡山県井原市西江原町

井原市西江原町に十七瀬川の墓があった。
笠岡市金浦にもあるので、同じ力士の墓だと思った。

 

ところが、
家に帰って調べると、
金浦にあるのは

・・・

「孫たちに語りつぎたい金浦」 金浦地区まち協・金浦公民館  平成25年発行


十七瀬川龟之助力士
寛延2年 (1749) ~ 天明7年 (1787)
本名 内山亀之助
享年 38歳
墓所 笠岡市金浦西浜墓原
「相撲の史跡」によると、「西浜で過ぎたるものが3つある。
夜灯、庄屋に、十七瀬川」とうたわれ、「小田郡誌」に巻酒樽を片手にて捧げ瀧飲したと伝い、墓は十七瀬川常用の煙管一本を換金して建てたという。
安永2年10月 東3段目
江戸番付
安永3年8月 安永7年7月
安永7年7月 天明6年8月
幕内東前頭12枚目 東前頭19枚目 東前頭19枚目 西前頭47枚目
大阪相撲西幕尻限りで死亡。 


・・・・

井原市の墓は、
十七瀬川栄吉の墓
で、
墓石の裏側には、「慶応四年戊辰三月建」が刻まれている。
たぶん力士で、二代目十七瀬川と推測される。

ここ100年間、またはそれ以上の間井笠地方から関取の相撲取りは出ていない。
そもそも力士になった人すら聞かないが、江戸時代にはお相撲さんになった人がいたようだ。

 

 

撮影日・2023.12.18

 

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エンジェルスの大谷選手

2023年12月14日 | 無くなったもの

今朝(2023.12.14)の新聞に、MLBドジャースの背番号17のユニフォームが載っている。

日本時間の今朝の8時からドジャーズ入団会見が行われる。
日本でも、
新聞のテレビ欄を見ると、(テレビ東京を除いて)各局とも朝のワイドショーで中継する。

今日から、エンジェルスの大谷選手は過去のこととなった。

 

・・・

大谷選手が大好きなOくん。
毎日、この赤いシャツを着ていた。
(2021.7.28 岡山県真庭市にて)

 

・・・・

スポニチ [ 2023年12月14日 02:45 ]
ドジャース・大谷翔平 入団会見は日本時間15日午前8時 フリードマン編成本部長が同席

ドジャースは12日(日本時間13日)、
大谷翔平投手(29)の入団会見を米西部時間14日午後3時(同15日午前8時)に本拠地ドジャーススタジアムのセンターフィールドプラザで開催することを発表した。
アンドルー・フリードマン編成本部長が同席する。

ドジャースは11日に10年契約で大谷と契約したと発表。
スポーツ界史上最高の総額7億ドル(約1015億円)の大規模契約だが、
総額の97%が契約期間翌年から後払いの異例の契約となっている。

・・・

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「きけわだつみのこえ」

2023年12月09日 | 昭和20年(終戦まで)

「菊と刀」  ルース・ベネディクト  現代教養文庫  昭和42年発行

あのちっぼけな飛行機を駆りわれわれの軍艦目がけて体当り自爆をする操縦士たちは、精神の物質に対する優越をものがたる無尽蔵の教訓とされた。
これらの操縦士たちは「カミカゼ特攻隊」と名づけられた。 
「カミカゼ」というのはあの、十三世紀のジンギスカンの来寇の時に 、その輸送船を蹴散らし転覆させて日本を救った神風の意味である。

・・・

・・・

「きけわだつみのこえ」  日本戦没学生の手記  東京大学出版会 1952年発行

上原良司

慶應大學學生。昭和二十年五月十一日陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納の米國機動部隊に突入戦死。二十二歳。

遺書

生を享けてより二十數年何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。
溫き御両親の愛の下、良き兄妹の勉勵に依り、私は楽しい日を送る事ができました。
そして稍もすれば我儘になりつつあつた事もありました。 
この間御兩親様に心配をお掛けした事は兄妹中で私が一番でした。
それが何の御恩返しもせぬ中に先立つ事は心苦しくてなりません。
 空中勤務者としての私は毎日々々が死を前提としての生活を送りました。
一字一言が毎日の遺書であり遺言であつたのです。
高空に於ては、死は決して恐怖の的ではないのです。
この儘突込むで果して死ぬだらうか、否、どうしても死ぬとは思へませんでした。
そして、何か斯う突込むで見たい衝動に駆られた事もあり ました。
私は決して死を恐れては居ません。
寧ろ嬉しく感じます。
何故なれば、懐しい龍兄さんに會へると信ずるからです。
 天國に於ける再會こそ私の最も希ましき事です。
 私は明確にいへば自由主義に憧れてゐました。
日本が真に永久に続く爲には自由主義が必要であると思つたからです。
之は馬鹿な事に見えるかも知れません。
それは現在日本が全主義的な気分に包まれてゐるか らです。
併し、眞に大きな眼を開き、人間の本性を考へた時、自由主義こそ合理的になる主義だと思ひます。
 戦争に於て勝敗をえんとすればその國の主義を見れば事前に於て判明すると思ひます。
 人間の本性に合つ た自然な主義を持つた國の勝戦は火を見るより明かであると思ひます。
 私の理想は空しく敗れました。
人間にとつて一国の興亡は実に重大な事でありますが、宇宙全体から考へた時は實に些細な事です。
 離れにある私の本箱の右の引出しに遺本があります。
開かなかつたら左の引出しを開けて釘を抜いて出し下さい。
 ではくれぐれも御自愛の程を祈ります。
 大きい兄さん清子始め皆さんに宜しく、
 ではさやうなら、御機嫌良く、さらば永遠に。

                 良司
御兩親樣              

・・・

 

 

 

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三八式歩兵銃

2023年12月08日 | 昭和16年~19年

日本陸軍兵士が持つ銃は、日露戦争から第二次大戦まで変わることなく使用された。
そのことに米軍は呆れたのであろう、空から宣伝ビラ(伝単)でまき散らした。

 

・・・
三八式歩兵銃

「日本軍事史」吉川弘文館 2006年発行

三八式歩兵銃は一発撃つたびに槓桿(こうかん・レバー)を動かして空薬莢を輩出するという操作が必要であったのに対し、
米軍はそれがいらない半自動小銃・M1小銃を採用していた。
「相手は自動小銃、撃ちあいをしていたらこちらは負ける」
「ジャングルがあり、これを隠れミノに敵に近づき、油断しているところを突撃攻撃して、さっと退くから戦争になっていた」


・・・

「三八式歩兵銃」(センデンビラ)

諸君の使って居られる三八式歩兵銃は明治三十八年の日露戦争当時新鋭兵器として村田銃に代わって初めて戦線委に登場したのはご承知の通りであります。
然しこれは四十年前の事であります。
その後、各国は競って科学の研究に没頭し科学兵器に一大進歩を見たことは世界各国の知るところであります。
然るに諸君が自動小銃に対し●●式の小銃で闘はねばならないのは何故でせうか。
若し諸君の敢闘精神に米軍と同様な新鋭兵器を以って闘ったらレイテ島の様な悲惨を見ずにすんだかも知れません。
いくら精神力でも三八式歩兵銃ではどうしてコンソリの五〇〇キロ爆弾に喰ってかかることが出来ませうか。

・・・

・・・


(Wikipedia)
三八式歩兵銃
日清戦争で主に使用された村田経芳開発の十三年式・十八年式村田単発銃に代わる、
有坂成章開発の近代的な国産連発式小銃である三十年式歩兵銃は、1904年(明治37年)から翌1905年にかけて行われた日露戦争において
、帝国陸軍の主力小銃として使用された。
三十年式歩兵銃自体は当時世界水準の小銃であったが、満州軍が中国大陸の戦場で使用してみると、
同地が設計時に想定した以上の厳しい気候風土であったことから不具合が頻発した。
このため、有坂の部下として三十年式歩兵銃の開発にも携わっていた南部麒次郎が中心となり本銃の開発が始まった。
あくまで三十年式歩兵銃をベースとする改良であったため、銃自体の主な変更点は機関部の部品点数削減による合理化のみであり、
また防塵用の遊底被(遊底覆、ダストカバー)の付加や弾頭の尖頭化(三十年式実包から三八式実包へ使用弾薬の変更)を行っている。
この改良は順調に進み、
本銃は1905年(明治38年)の仮制式制定(採用)を経て、翌1906年(明治39年)5月に制式制定された。
部隊配備は日露戦争終戦後の1908年(明治41年)3月から始められ、約2年ほどで三十年式歩兵銃からの更新を完了している。

本銃の初の実戦投入は第一次世界大戦(青島の戦いなど日独戦争)であった。
以降、三八式歩兵銃は日本軍(海軍にも供与)の主力小銃としてシベリア出兵、満洲事変、第一次上海事変、日中戦争(支那事変)、張鼓峰事件、ノモンハン事変等で使用されている。

・・・・

 

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12月8日、米英へ宣戦布告

2023年12月08日 | 昭和16年~19年

日清戦争以来、日本は満州の利権に強く拘り、拡大していった。
その結果、満州事変を自ら起こし、
その数年後には支那事変をも自ら起こし、日中全面戦争となった。
米英より、
せめて「満州事変」前を求められたが拒絶、昭和16年12月8日の対米英開戦となった。

 

・・・

「軍国日本の興亡」 猪木正道  中公新書 1995年発行

東条英機内閣は、ハル・ノートを最後通牒だと受けとめた。
「満州事変前の状態へ、日本を逆戻りさせることはできない。
撤兵しては、英霊にあいすまない」
として、開戦を決意した。
当時の日米の国力には、気が遠くなるほどの格差があった。
「日米蘭の経済封鎖が持続する場合、日本は”ジリ貧”におちいることになる。
特に石油は昭和17年7月ころには貯蔵ゼロ皆無となり、海軍は全くその機能を喪失するに至るであろう。」
ジリ貧を避けるために開戦するというのである。

・・・

(「歴史街道」 2021・9号)

 

・・・

「アジア・太平洋戦争」  吉田・森共著  吉川弘文館 2007年発行

 

戦争目的

昭和16年12月8日、
開戦の日に天皇の名で発表された宣戦の詔書では、
英米などによる対日経済制裁の不当性を強調し、自衛のためにやむを得ないという位置づけである。
しかし、同夜に情報局次長はラジオ放送で、
「アジアを白人の手から、アジア人自らの手に奪ひかへすのであります」、
とむしろアジアの解放にあった。

危機感の高めるときは自存自衛の面が強く叫ばれ、
情勢の好転する場合には大東亜新秩序の建設こそがが、この戦争の目的といわれた。
「アジア・太平洋戦争」 吉田・森共著  吉川弘文館  2007年発行


反米キャンペーンの立遅れ

米英による支配からアジアを開放するという戦争プロパガンダは行われたが、
白色人種対黄色人種、
西洋対東洋、というキャンペーンは政府により抑制された。
日本はドイツ、イタリアと同盟関係にあったからである。
また、反米的な戦時プロパガンダが本格化するのも昭和18年に入ってからのことである。
米英音楽の演奏が禁止され、横文字の看板撤去、英語の雑誌名や会社名の改名などが行われる。
有名な「鬼畜米英」という刺激的な表現が新聞に登場するようになるのも、翌昭和19年に入ってからのことである。

 

「大東亜共栄圏」の建設

これまでは中国に進出して「東亜新秩序」を建設することが日本の目標とされていきたが、
「大東亜共栄圏」へと舵が切られた。
この「大東亜共栄圏」は、イギリス・フランス・オランダの植民地になっているマレー・インドシナ・東インドを「独立」させることによって建設される建前になっていた。
だが、
その頂点に日本があって共栄圏全体を指導するものと考えられていたことはいうまでもない。
「民族解放」の題目は、しょせん日本による支配を糊塗するためのものにすぎないようにみえる。
だが、日本が東南アジア支配を正当化する理屈として、なぜ「民族解放」を選んだのかという点はやはり重大である。
ヒトラーは、ドイツ民族生存のために不可欠な「生存権」を確保するとう名分のもとに中・東欧に侵攻した。
日本は第一次大戦後の脱植民地と民族自決の流れに便乗した。
すなわち欧米宗主国から「独立」させたアジア諸民族の支持を集め
日本の指導を受けれさせることが可能であると計算されたのである。
ようするに、「民族解放」のスローガンは単にアジア支配のうわべを飾る美辞麗句だったのではなく、
「独立」の意味をゆがめて解釈することによって、日本の建設する新たな帝国を支える基本原則となることを期待されていたのである。


大東亜省


「大東亜共栄圏」内の諸民族は日本の戦争遂行に協力し、
国防資源の開発を中心とした総力決戦体制の構築という目的に奉仕すべきものとされたのである。
東郷外相はこの厚顔な政策に猛反対した。
東郷自身、「大東亜共栄圏」における「独立」が主権国家間の対等平等の関係を意味するものではなく、
日本の指導を前提とすることを認めていた。
「独立は名のみにして実は属国視せらるるものと信ぜしめ、其の結果帝国に対して不信、疑惑と共に不満の念を抱かしめ。。。」
結局、9月1日、東郷外相は辞任に追い込まれた。
 


「大東亜戦略指導大綱」


昭和18年5月30日の御前会議で決定された「大綱」では、
ビルマ・フィリピンを独立させる方針が定められている一方、
「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定し
重要資源の供給源として開発ならび民心の把握に努む」
という条項が盛り込まれた。
石油をはじめとする資源豊富な英領マレー・ボルネオと、オランダ領東インドは日本の領土とするという意思が臆面もなく表明されたのである。
ビルマは対英戦争を遂行するうえで好都合な場所であり、
フィリピンは以前から宗主国アメリカに独立を約束されていた。

ところで「民族解放」を突きつめて行けば、朝鮮や台湾の地位の問題に突き当たる。
これに対処して、特に朝鮮の独立を防ぐためにも、
朝鮮の日本への同化が急がれねばならなかった。
悪名高い「皇民化政策」は、
日本の植民地支配時代に一貫しておこなわれたものではなく、
戦時下に本格化したものである。
さらに44年4月からは、「内鮮一体の具現」という名目の下で徴兵制が施行されている。

 

大東亜会議と「大東亜共同宣言」


1943年11月に開かれた大東亜会議は、重光にとっては、
「大東亜共栄圏」の意義と正当性を内外に闡明にし、アジア諸民族の協力をとりつける重要な場であった。
参加国が平等に一票を持つような機構は日本の指導を妨げるという反対が出て退けられた。
独立を求めるアジア諸民族と、日本の指導を当然とする国内的要求のバランスをとった宣言を採択した。

 

・・・

「ライシャワーの日本史」 エドウィン・ライシャワー  文芸春秋社 1986年発行

第二次世界大戦の発端

第二次世界大戦の発端は一九三七年の日中の衝突にあるので、
一九三九年のヨーロッパでの開戦や一九四一年にアメリカがその両方に参戦したことではなかった。

日本軍部の対外政策には一つ根本的に間違った思いこみがあった。
日本軍部はみずからが盲目的愛国心に身を委ねる一方で、近隣諸国からは欧米の圧政からの救出者として歓迎されるばかりか、
彼らが日本を盟主とする東アジア支配におとなしく盲従して、何も不満をもたぬはずだと思いこんでいたのである。

しかしナショナリズムの波は急速に広がっていた。
とくに中国ではその勢いは激しく、朝鮮半島や満州での植民地支配の現実はもはや日本人をヨーロッパ人やアメリカ人よりも魅力ある主人とは思わせなくなっていた。
日本帝国が大きくなっていくにしたがって、中国人の抵抗も激しいものとなっていった。
東アジアに侵略し、一大帝国を築きあげようと野心にかられた日本は、世界史的にはいささか遅きに失していた。
十九世紀における列強の帝国主義的進出のようにことは容易には運ばなかったのである。

・・・

 

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兵隊

2023年12月07日 | 昭和16年~19年

兵隊は戦争の要員なので、戦争が無い時は兵は一定数以上は必要なかった。
父はよく、「まんが悪い」とこぼしていた。
日中戦争が勃発した年が徴兵検査の年齢だった。
それは父と同じ生まれの人は、ほぼ全員そう思ったに違いない。
この年から検査合格者は、全員兵隊に召集された。

・・・


「美星町史」


徴兵検査

小田郡の各村々は笠岡の貫閲講堂を検査場としていたので
当地の受検者は全員、検査地に宿泊し、翌日の検査に出場した。
その検査場には、村長は勿論、
在郷軍人分会長・小学校校長・青年学校長も列席して行われ、
それは厳格そのものであった。
大体一日に三~四ヶ村の数え年二十歳の青年を対象に行われた。
検査官は岡山聯隊区司令部の職員で、下士官・軍医将校・徴兵官で構成されていた。
検査内容は身長・体重・胸囲・視聴力・肺活量・四肢・性病などで、
受検者は初めから終わりまで、ふんどし一つの裸で臨み、
軍隊式の厳格な号令と返答、態度で実施されたのである。
すべての検査終了後、徴兵官の面前に立って、
甲種、第一乙種、・・・の宣告を受けて終了となる。


召集


戦争がおきると召集令状によって、入隊していた。
その内容は日時と場所の指定をして、至上命令であった。
召集者は一定の日数(三日ないし七日)の間に見廻りの整理を行い、
婦人会からの千人針なり、「祝出征」の幟などを作ってもらい、
組や親族の宴会にも出席し、あわただしい日を送る。
出征当日は氏神様に参拝し、見送りの人達の「万歳」の声に送られて出かけたのである。
村人は涙一つ流されず、「おめでとうございます」と挨拶する他になかった。

 

千人針

出征軍人への最高の贈り物は千人針で、布不足の時でもこれだけは手にいれることができた。
最初は、長さ1mくらいのサラシ木綿に赤で千個の点を打ったものであったが、
後には、それに虎を大書した布や「必勝」と書いた布が用いられた。
また、5銭銅貨を縫い付けて、「死線を越える」の意味をこめたものであった。
女一人一針で、寅年の人は年齢の數だけ小さな結び目をつけた。
これを作り上げる活動を、婦人会が引き受けて「武運長久」を祈りながら、
村中廻り隣村へも出かけて行った。
子どもを背負って、薄い重湯を入れた瓶をさげて、モンペに地下足袋の粗末な出立ちで足を棒にし、
山坂越えて歩き、でき上りは氏神様へお供えして祈り、あらためて、当人に差し上げた。


出征

出征の当日には、氏神様の前に子供から老人まで、大勢集まって、日の丸の小旗を振りながら出征兵士を送る歌を唄って門出を祝った。
若い母親の背中で父を見送っている乳児を見ても、村人は涙一つ流されず、
「お目出とうございます」と挨拶する他になく、慰めの言葉は言えなかった。
一方では、八幡巡りの老若男女が、弁当を腰に杖をついて行く姿が目に入り、
また、どこからともなく小学生の歌声がきこえて

必勝祈願の朝参り 天皇陛下のおん為に
死ねと教えた父母の 赤き血潮を受けついで
心に必死の白タスキ かけて勇んで突撃だ

何ともいえない息のつまりそうな一ときであった。

・・・

(昭和13年・父の出征記念写真)

 

・・・

「ビジュアル日本の歴史 116」

「戦陣訓」

捕虜になるくらいなら死を選べ!
日本を自決に追いやる「戦陣訓」

日中戦争が長引くくにつれ、兵士の士気が低下して軍紀は退廃。
戦場での掠奪、暴行などの非行が続出した。
そこで陸軍省は、1941年(昭和16年)1月8日、「戦陣訓」を全軍に示達、
軍人として守るべき道徳と戦場で特に戒めなければならない心がけを説いて軍紀の粛正を図った。
しかし、中には次のような一節もあった。
~名を惜しむ~
「常に郷党家門の面目を思ひ・・・その期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」。
この戦陣訓が示した精神論と捕虜の絶対否定は、敗れた兵士に「自決」と「玉砕」の選択肢しか与えず、失わなくてもよかったはずの多くの命を散らすことになった。

 

・・・

「あの日、あの味」 月刊望星編集部 東海大学出版部 2007年発行

兵隊と食べもの  伊藤桂一

軍事用語で兵食というのは、兵隊の食べもの、兵員のための食糧ということです。
古来、軍事に関する限り、兵食はもっとも重要な意味を持ちました。

軍事用語で兵站(へいたん)というのは、兵用の宿泊施設のことで、同時に食糧の心配もします。
軍事行動する時は、まず食糧をどう補うかを考え、できれば宿泊のことも考えます。
今次大戦では、日本軍は戦力、戦闘、行動力に重点を置き、兵食の問題を重要視しませんでした。

私は日中戦争に7年間、一兵士としてつきあいましたが、
補給は現地でとれ、という命令をよく受けました。
つまり軍そのものは補給を行わないということです。
私が中国山西省で戦ったころ、この土地は黄土の山岳地帯、山の砂漠です。
出発時に3日分の食糧は持ちますが、5日、6日となりますと行く先々の集落から食糧を入手するしかありません。
砂漠だから水の補給(集落の井戸)にも苦労しました。
でも、中国だからまだよかったのですが、ニューギニア、ビルマ、フィリピンなど南方で戦った人たちは、戦死よりも飢餓死で多く死にました。
食糧がないので空腹から病気にとなり、そのまま死んでいきます。
軍の指導部は兵力の行動を図上戦術で考え、その行動ができるかどうかを考えませんでした。
最後は皇軍の戦闘精神で戦えと考えていました。

兵力が作戦で動くときは、弾薬、食糧を同時に考えます。
これを補給線といいますが、
この補給線を絶たれると、部隊はほっておいても自滅せねばなりません。

ビルマでのインパール作戦では、食糧の全く絶えたままの戦いの中で、多くの将兵が死傷しました。
軍司令部はこの困難を、ただ図上で計画し、一人として現地を具体的に歩いた人はいませんでした。
信じられないことですが、南方戦はほとんどこのような図式で戦われています。

 

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「アジア・太平洋戦争」 吉田・森共著  吉川弘文館  2007年発行
 
女性兵
 
戦局が悪化すると、大規模な兵力動員がおこなわれ、「老兵」や、体力の劣る兵士の占める割合が急速に増大しただけでなく、
幹部そのものの質も低下した。
昭和14年で中核である「大尉」「少佐」は約60%の欠員をみた。
 
1945年6月に公布された「義勇兵役法」は、17歳から40歳までの女性を義勇兵に服させることを決めた点で画期的で、
軍の指揮下に入り女性にはじめて戦闘員としての役割が与えられた。
しかし編成される前に、日本は敗戦の日を迎えた。
 
実際に、新潟県五十沢村の事例で見てみると、女性隊員は14歳から40歳までの「未亡人又は独身者」に限定されていた。
イギリスやアメリカでは、補助部隊であるとはいえ女性の部隊が創設された。
ソ連では第一線の戦闘部隊でも女性兵士が活躍した。
 
日本では女性兵士は実現しなかった。
米英と比べ「男は前線、女は銃後」というジェンダーの力学が強く作用しているといえるだろう。
 
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まえからわかっていたこと

2023年12月07日 | 昭和16年~19年

「菊と刀」  ルース・ベネディクト  現代教養文庫  昭和42年発行


まえからわかっていたこと

日本は勝利の望みを、アメリカで一般に考えられていたものとは異なった根底の上に置いていた。
日本は必ず精神力で物質力に勝つ、と叫んでいた。
なるほどアメリカは大国である、軍備もまさっている、しかしそれがどうしたというのだ、
そんなことは皆はじめから予想されていたことであり、われわれははじめから問題にしていないのだ、と彼らは言っていた。
そのころ日本人は、日本の大新聞『毎日新聞』で、次のような記事を読んだ。
日本の政治家も、大本営も、軍人たちも、くり返しくり返し、この戦争は軍備と軍備との間の戦いではない、アメリカ人の物に対する信仰と、日本人の精神に対する
戦いだ、と言っていた。
真珠湾奇襲のずっと以前から公認されていたスローガンであった。
軍国主義者であり、かつて陸軍大臣であった荒木大将は、『全日本民族に訴う』というバンフレットの中で、
日本の「真の使命は皇道を四海に遍く弘布し宣揚することである。
力の不足は れわれの意に介するところではない。何故に物質的な事柄に気を使う必要があろうか」

彼らはたえず、安心や士気は要するに覚悟の問題にすぎないと言っていた。
どんな破局に臨んでも、それが都市爆撃であろうと、サイパンの敗北であろうと、フィリッピン防衛の失敗であろうと、日本人の国民に対するおきまりのせりふは、
これは前からわかっていたことなんだから、少しも心配することはない、というのであった。 

明らかに、お前たちは依然として何もかもすっかりわかっている世界の中に住んでいるのだと告げることによって、日本国民に安心を与えることができると信じたからであろう。
しかしこうなることは前から百も承知していたことであって、必要な手筈は日本はアメリカ爆撃機の行動半径内すっかりととのっている」。
「敵は必ずわれわれに対して陸・海・空三軍の連合作戦をもって攻勢に出てくるであろうが、これはすでにわれわれの計画中に予定されていたことである」。
爆撃によって国内戦線の日本人の士気を沮喪させることは不可能である、
「なぜなら彼らはすでに覚悟しているから」と確信していた。
アメリカ軍が日本の都市の爆撃を開始したころ、航空機製造業者協会の副会長は次のような放送を行なった。
「ついに敵機はわれわれの頭上に飛来して参りました。
しかしながらわれわれ航空機生産の事に当たっております者は、かかる事態の到来することは常に予期してきたところでありまして、これに対処する万全の準備をすでに完了致しております。
したがって何ら憂慮すべき点はないのであります」。

すべてが予知され、計画され、十分計画された事柄であるという仮定に立つことによってのみ日本人は、一切はこちらから積極的に欲したのであって、決して受動的に他から押しつけられたのではないという、彼らにとって欠くことのできない主張を持続することができたのである。
「われわれは受動的に攻撃されたと考えてはいけない、積極的に敵をわれわれの手もとへ引き寄せたのだと考えなければならない」。
「敵よ、来るなら来い。
われわれは「ついに来たるべきものが来た』と言う代りに、むしろ「待ちに待った好機が到来した。
われわれはこの好機 の到来したことを喜ぶ』と言うであろう」。

またラジオの報道によれば、アメリカ軍がマニラ市中に突入した時、
山下将軍は「ニッコリ笑って、敵は今や我が腹中にあり、と言った・・・・・・」
「敵がリンガエンに上陸した後まもなく、たちまちのうちにマニラをおとすことができたのは、
これひとえに山下将軍の戦術の結果であり、将軍の計画通りに事が運ばれたのである。
山下将軍の作戦は目下引き続き進行中である」。

言い換えれば、負ければ負けるほど事はうまく運んでゆく、というのである。

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12/8 学童

2023年12月07日 | 学制150年

 

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「尋常小学校ものがたり」 竹内途夫 福武書店 1991年発行


一石二鳥の馬糞ひろい

毎週木曜日の登優時、道路に散乱する牛の糞を、部落ごとに拾い集めて登収する行事であった。
この作業は道をきれいにすることと、ほった馬薫や牛葉を、学校の実習や野菜園に肥料として利用することの、一石二鳥のねらいがあった。
トラックはめったに見かけなくて、 もっぱら牛の力による荷車に頼ったから、道路にはいつもその糞が散乱し、蠅が群がって悪臭を放っていた。
この糞は、道路沿いの田畑の持ち主が、自分の田畑に取り込むのであるが、朝早ければ葉は無事で、村中の道から拾い集められた糞は、学校の堆肥舎に山をなした。
不況に喘ぐ村では、道端の馬ひとかけらも無駄にしなかったから、今日は子供が馬を拾う日だと気づくと、わざわざ早起きして糞を掻き集める始末屋もいた。
またこの反対に、子供のためにわざわざ二、三日も前から掻き集めた糞を道端に置いておく奇特家もいた。
こういうことは、今の常識からすれば理解できないかもしれないが、当時ではこれが当然だった。
たとえば、部落ごとにある公会堂や役場、お宮などの公共設備の便所の読み取りは、ただで奉仕することはできなかった。
希望者が多く競争になっ た。
早い者勝ちでは不公平であるから、入札制をとるのが普通だった。
度々の入札は煩わしいので、年の初めにその年一年間の汲み取りを入札で決めていた。
このひろいの作業は、原則として子供の登校する道路に限られていたが、量が少ない時は他の道順を選ぶこともあった。

 

奉安殿

運動場の東側に隣接した水田を埋めたてた敷地に、建坪三坪ぐらいの鉄筋コンクリート造りで建てられ、その頃では珍しかった手動式の鉄のレャッターがついたモダンなものだっ た。
この奉安殿は村の酒造家が、千円という大金を投じて建立寄贈したものと聞かされていた。
正方形の敷地は、周囲に土塁を巡らし、土塁の上には榊に 似た木の生垣が設けてあった。
内庭には石英の白砂が一面に敷き詰められ、植え込みの黒松の翠がこれに映えて、運動場の賑わいをよそに、森厳幽寂とまではいかなくても、いかに神々しい別世界を作っていた。
ふだんはこの聖域に立ち入ることはできなかった。
月に二、三回、高学年の女の子が身を清め心を正して清掃に奉仕したが、作業はすべて厳冬を除いて素足で行なわれ、無駄口を聞くことはできなかった。 
なぜ女の子だけが当番になったのか。たぶん神に仕える神子の例に倣ったものであろう。

 

非常時日本の教育
国のため、大君のため

昭和六年九月に満州事変が勃発してからは、学校教育も、それまでの国家主義的傾向がますます強まって忠君愛国の軍国主義教育がより鮮明になってきた。
満州事変が関東軍の画策した陰謀だったことを知ったのは、ずっと先の戦後のことであるが、当時の一般の者がそんな軍のからくりを知ろうはずもなく。
校長以下全教師全児童が支那軍の暴虐を憎み、断固膺懲の鉄槌を下すべしと力んだ。
暑ければ、炎熱地を焦がす満州の将兵の苦闘を偲んで耐え、寒ければ酷寒零下三十度の満州の広野に戦う兵士の辛苦思って耐え抜いた子供たちであった。
天皇や国家に対する意識の高揚も、この事変を機にますます盛んになった。
何事につけても国のため、大君の御ためが罷り通った。
学校の諸行事に日の丸と君が代はつきものだったが、
これに皇居の遥拝と、皇軍将兵に感謝の黙疇が加わり、最後は必ず「大日本帝国万歳」が三唱された。

・・・

 

「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行


国民学校

昭和十六年「国民学校令」が公布され、明治以来広く市民に親しまれてきた小学校の名称が 「国民学校」に改められた。
国民学校令の第一条に「国民学校 は皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を為すを以て目的とす」とあり、
この目的に向かって教育内容も大きく変革していっ た。
国民学校は初等科六年、高等科二年とし、その上に一年の特修科を認めた。
初等科の教科は国民科、理数科、体鍊科及び芸能科で改められたが、高等科はこれに実業科が加わった。
「国民学校の教育理念に基づき授業内容も大きく改められたが、従来の修身の授業内容に「礼法」を加え、国語には従来の「読方」「綴り方」 「書方」のほか「話方」が加わった。
国民学校の教科書は、低学年向けには色刷りの絵が多くみられた。
教育上の苦心がみられるが、内容は当時の社会情勢や思想を反映し国家主義的色彩が濃かった。
また軍関係からの要求もあり、軍事的傾向も強く現れている。


児童の名誉標章 
戦争に向かって
昭和十三年、国防目的のために国の全力を発揮できるよう人的、物的資源を統制し運用するという「国家総動員法」が発布され、
翌年には「青少年学徒二賜ハリタル 「勅語」を下賜、この年発行の東京市錦華尋常小学校の校報には「名誉標章に就いて」と題し次のように記載 されている。
「昭和十四年元旦を機して今事変出動軍人の児童たちに名誉標章を配布して胸間に佩びさせることにした。
円形の青地に輝く日章旗を描いた。 
この名誉標章を制定した趣旨は、出動軍人の子弟であることが一見してわかるようにするためである。
 (中 略)これをつけている児童は学校においては模範の児童となり、
家庭においては孝子、近隣の手本となって流石皇軍勇士の家庭に育つだけあって見上げたものだと賞賛されるようにとの念願からである」
そして、昭和十五年の紀元二千六百年を契機に一段と戦時体制が強まった。


終戦

小学六年生の時に終戦を迎えたがそれ以前は教室に入るにしても、 
「何年何組、何のだれそれが何々先生に用事があって参りました」 と入り口で名乗って入らなければ ならない。
軍隊と同じ様な教育は訓練そのもので、また登校時は班長を先頭に二列縦隊になって校門をくぐり、奉安殿に向かって整列最敬礼してから教室に入った。
何かにつけ厳しい教育体制化の中にあって、校則に反するようなことは当たり前だがひとつもできない気風だった。
冬の体育の時間には、裸足で雪の上を走らせられ、アメリカ軍のB29爆撃機を模した絵を板に描き、離れたところからB2に向かって雪玉を投げ、当たるまで何回も雪玉を握っては投げた記憶がある。 
昭和二十年八月十五日、天皇陛下の「終戦の詔書」の玉音放送は正午だった。
私は家にあったラジオを家の前の道路に出し陛下の玉音を待った。 
放送の内客は子どもには理解できなかったが、戦争が終わったと母が話をしていたのを覚えている。
当時は雑貨であった家業も商品不足のため、少しだけあった財産を売っての暮らしが始まった。
その日から数日後、学校へ登校すると勉強道具をすべて持って体操場に集合するよう言われた。
すべて持って行くと板の間に正座させられ、カバンの中の本やノートをすべて出すよう指示があり、戦争や軍に関係する絵や文字を硯ですった墨で消すように命令された。 
何が何だか分からないが、生徒全員が黙々と作業していた。
いわゆ墨塗り本で、墨で手が真っ黒になって作業していたのを思い出す。
戦争に負けたことはなんなのかも分からず、先生からは全く説明された覚えもない、子ども時代の記憶に残っているシーンである。 
軍国主義一辺倒の社会と教室の空気は敗戦後は日毎に民主主義へと変化していった。

 

・・・

「美星町史」
学童の生活

小学校では、敵国の肖像画を書いて、長針を突き刺し「打ちてし止まん」と朱書きしたポスター等を
教室や廊下にはり付け、校門の入り口にわら人形をしつらえて竹槍をそなえ、気合をかけて刺殺したりして敵愾心を養い、
又、朝礼の時、「海ゆかば・・」の短歌を朗読し、必勝の祈りをして教室に入った。
戦争末期になると、青年学校男生徒は次々に戦地にかりたてられ

昭和20年2月、女性徒は軍需工場に徴用され飛行機の部品を作るところで3ヶ月間働いた。
工場では早朝から機械に取りくみ、夜は午後10時に工場長が廻ってこられ「ご苦労様」おわれて終わりのベルとともに機械が止まった。
夜具も極端に粗末で、裏表の判らないセンベイぶとんで12時ごろ、床に入れば、空襲警報の発令で防空頭巾をかぶり、
服装を整えてそのまま夜を明かしたことも度々であった。

・・・

 

 

 

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