しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「奥の細道」卯の花に兼房みゆる白毛かな  (岩手県平泉)

2024年08月13日 | 旅と文学(奥の細道)

兼房は高館で、義経夫婦が自害したことを見届けた。
その後、館に火を放ち、壮烈な最期を遂げた人。

そのことは【義経記】に記されているが、
現在では架空の人とされている。

 

 

 

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旅の場所・岩手県西磐井郡平泉町 ” 世界遺産” 毛越寺(もうつうじ)   
旅の日・2019年6月30日           
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

・・・

「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


曽良は増尾十郎兼房の奮戦の有様を想像していた。
兼房は初め大納言久我時忠の臣であったが、時忠の娘が義経の正妻となったので乳人役であった兼房は義経の臣となった。
高館最後の日に、泣く泣く義経の妻子を刀にかけ、館に火を放ち、
長崎次郎を死出の道連れにして猛火に飛びこみ、壮烈な最後をとげた。
六十三歳の老齢であった。
折から咲き乱れる卯の花を見ると、白髪をふり乱して奮戦した兼房の姿が、髣髴と眼前に現われてくる。
そこでこういう句を作った。

卯の花に兼房みゆる白毛かな  曾良

卯の花を白毛に見立て、幻想的な趣向、芭蕉の句の余韻・・・をひびかせているといえるかも知れない。

・・・

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「奥の細道」夏草や兵どもが夢の跡  (岩手県平泉)    

2024年08月12日 | 旅と文学(奥の細道)

源義経は子どもの頃のヒーローだった。
大人になってくると、兄頼朝が義経を排除した理由もよくわかってくる。
それでも義経はヒーローでありつづける。
それが平均的な日本人の義経への思いであり、
そして今も、義経の死後800年とつづいている。

この句の「兵ども」とは、義経および藤原三代の栄華を指している。

・・・

 

三代の栄耀一睡の中にして、
大門の跡は一里こなたに有り。
秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。
先づ高館にのほれば、北上川南部より流る々大河なり。
衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落人る。
康衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。

さても義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢となる。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」
と、笠打敷きて、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛かな  曾良


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旅の場所・岩手県西磐井郡平泉町「高館」  
旅の日・2019年6月30日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

夏草や兵どもが夢の跡


芭蕉は五月十三日、一関より平泉におもむき、
高舘・衣川・衣の関・中尊寺・光堂・和泉が城・桜川・桜山・秀衡屋敷跡などを見物しているが、
その際の高舘における感懐をまとめた作である。

・・・

 

・・・

「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


今高館にのぼってみると、夏草がのび放題にぼうぼうと茂っている。
それは修羅の巷を思わせるような乱雑な感じである。
ここは昔兵どもが功名を立てようと奮戦して、失敗に終った夢の跡である。
広く考えれば、この平泉に居を占めて、栄華を誇った藤原氏の夢の跡といえるかも知れない。
功名も栄華も結局一場の夢にすぎない。
悠久な自然に比べると人間のしわざはまことにはかないものである。
芭蕉はこういう感慨をこめて、

夏草や兵どもが夢の跡

という句を作った。 
杜甫の詩「春望」に、
国破 山河在
城春草木深
感時花濺涙
とうのがある。
全くその通りであると、時刻のうつるのも忘れていた。


・・・

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「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行

夏草や兵共がゆめの跡

『おくのほそ道』としてまとまった「紀行」を論ずるのはあとにして、まずこの名句に触れてみたい。
 義経の一党も藤原家の人びとも、功名も栄華も今はなくなって、 一場の夢となった。
なつ草が茂るという現実の出来事は毎年繰り返されて続いているが、人事はすぐ消えてしまう。
人事、つまり義経や藤原家の夢である。

人びとの夢と、ひらがな漢字混用のなつ草とでは人間の栄華のあとのほうが強く表現されすぎていて、
つまり歴史の出来事が強すぎてなつ草が弱い。 
夏草や兵共が夢の跡
そこで、「なつ草」を漢字の「夏草」にしてみると釣り合いがとれる。
表現のすごさは、「夢」を「ゆめ」というひらがなにしたことにある。

 

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


夏草や兵どもがゆめの跡


「夏草や」とくれば、多くの日本人がこの句を思いうかべるほど、広く知られている。
東北線の平泉駅で下車して、義経の居館があった北上川を見おろす高館という丘へ向かう。 
標高六七メートルの低い丘へ登ると、雑草が生えた広い河原をへだてて青い山々が見え、「夏草や」の句碑が建っている。

詩人杜甫の「国破れて山河あり、城春にして草木深し」からの引用である。
最後の部分を「城春にして草青みたり」と変えた。
広い草原の河原は、かつては藤原一族の邸宅があ ったところだ。
丘をさらに登ると、義経堂があり、義経像が祀られている。
義経はこの高館を居館とし泰衡の軍勢に襲われて討ち死にした悲劇の武将で、芭蕉は義経をことのほか敬愛していた。

『ほそ道』の旅で圧巻となる平泉へは、五月十三日(陽暦で六月二十九日)の一日だけ、 一関からの日帰りであった。


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「奥の細道」松島や鶴に身をかれほとゝぎす   (宮城県・松島)

2024年08月12日 | 旅と文学(奥の細道)

”松島”は、はっきり言って瀬戸内海地方に住む人にとっては、景勝地ではない。
普通の景色。

だが日本では古くからの名勝地であり、
芭蕉もたいへん旅の楽しみにしていた場所。
しかも、眺めにあまりに感動して句を詠めなかった。
奥州の入口、白河の関でもそうだった。
感動して句が出ない。

そのへんに俳聖と称される芭蕉先生の、親近感のある人間性を感じる。

 

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旅の場所・宮城県松島町  「日本三景松島」
旅の日・2019年7月1日                
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


松島や鶴に身をかれほととぎす

「鶴に身をかれ」といったのは、あるいは曽良が自分に向って言い聞かせた言葉かも知れない。
鶴に身を借りて、この松島湾の上を飛び廻ったら、どんなに楽しいことだろうと、心ひそかに思ったかも知れないのである。
とにかく「鶴に身をかれ」という言葉からして、松島の大景がくっきりと浮びあがり、そこに鶴を点することによって、
塵界を遠く離れた仙境にまで想像の翼をひろげることができる。 
観念的な何といえばいえるだろう。
しかし芭蕉は曽良の句としてこれを高く評価した。
芭蕉も句を案じて見た。
何らしいものができないことはなかったが、それは自分で満足するようなものではなかった。
夜も更けてくるので、句は断念して床に就こうとしたが、すばらしい風景が目の前にちらちらしてなかなか寝つかれなかった。

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


仙台から塩竈へ行く途中の塩竈街道の奥に「おくのほそ道」という旧道があり、これは 三千風が調査して名づけた古道であった。 
仙台市岩切の東光寺から東への道が「おくのほそ道」だが、いまは泉区から通じるアスファルト道路になっている。
そのさきの多賀城は、 奈良時代に蝦夷鎮圧のためにおかれた国府跡で、朝廷の基地であった。
芭蕉が涙が落ちるばかりに感動したという壺の碑は、格子窓の覆堂に包まれて南門跡に建っている。
一説に は偽碑といわれる。
そのあと、塩竈神社、松島へ行き、瑞巌寺は「のこらず見物」した。

松島は『ほそ道』の序文で「松嶋の月先心にかゝりて」と書いている。芭蕉が一番行きたかった地である。
「旬が浮かばず眠ろうとしたが眠れない」と告白している。
あまりに絶景のために句が生まれない、という。
それで、曾良の句として、

松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす

を書き留めたが、芭蕉の吟である。
松島では、鶴の姿に身をかりて鳴き渡ってくれ、ほととぎすよ、というよびかけで、
松に鶴は付合いである。


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「奥の細道」あやめ草足に結ばん草鞋の緒   (宮城県多賀城市)

2024年08月11日 | 旅と文学(奥の細道)

仙台で出会った画家の加右衛門という人は、親切を絵に描いたような人で、風流心もある人だった。
仙台を発つとき、お金持ちでない加右衛門は、気持ちのこもった手土産を呉れた。
芭蕉にとって理想的とも言える想い出の町と人となった。

 

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旅の場所・宮城県多賀城跡  
旅の日・2019年7月1日          
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

名取川を渡って仙台に入る。
あやめふく日也。
旅宿をもとめて、四五日逗留す。
ここに画工加右衛門と云ふものあり。
聊か心ある者と聞きて知る人になる。
この者、「年比さだかならぬ名どころを考置き侍れば」とて、
一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるる。

あやめ草足に結ばん草鞋の緒

<中略>

壺碑(つぼのいしぶみ) 市川村多賀城に有り。
つぼの石ぶみは高サ六尺余、横三尺斗。苔を穿ちて文字幽也。

・・・

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


五月四日(陽暦六月二十日) 岩沼に武隈の二木の松を見て、夕方仙台にはいった芭蕉は、
画工加右衛門と知合いになり、宮城野の歌枕を案内してもらったが、
その上、仙台を立つ前夜には 「ほし飯一袋、わらぢ二足」をもらった。

折から端午の節旬なので、家々の軒には無病息災を祈ってあやめ草がかざしてある。
私は紺の染緒の草鞋をもらったので、この草鞋の緒を結んで、前途の無事を祈りながら旅立つことにしよう、の意。
「あやめ草」は、端午の節句に風呂に浮かべる菖蒲のことで、花菖蒲の類ではない。
「紺の染緒」はマムシがきらって寄りつかないという。いずれも無事を祈るという点で共通性がある。

 

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


あやめ草足に結ばん草鞋の緒

「あやめ」は花菖蒲やはなあやめではなく、端午の節句に軒端にふいたり、しょうぶ湯にしたりする菖蒲である。
花の色は黄緑色であって紺色ではない。
葉に芳香がある。
折から端午の節句なので、家々では軒端に菖蒲をふいている。
自分は住むに家もなく、行雲流水の身であるから、いただいた草鞋の紺の染緒に菖蒲を結んで、邪気を払い、
道中の平安を祈ることにしましょう、といって感謝の気持をあらわしたのである。

芭蕉は加右衛門に会えたのが何よりも嬉しかった。
芭蕉は日光の宿で仏五左衛門という無知無分別な人に接して感銘したが、この加右衛門も朴訥な人柄であった。
紺の染緒のついた草鞋だの干飯だの海苔だのを持参し、これから行く先々の名を絵にかいて贈ってくれたりした。
価にしたら何ほどの品物でもなかったが、真情がこもっているので有難かった。

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「マンガ絵ぶたまつり」

2024年08月11日 | 無くなったもの

場所・岡山県高梁市川上町地頭
最終回・2024年8月10日
撮影日・2014年8月23日

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漫画の町・川上町で毎年開催されていた「マンガ絵ぶた」が中止になるそうだ。
今朝の新聞に載っている。

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2024年8月11日「山陽新聞」社会面
絵ぶた 最後の夏
高梁でまつり 高齢化、作りて減

「マンガ絵ぶたまつり」(実行委主催)が10日、高梁市内であった。
地元住民団体の力作が夏の宵を彩る、旧岡山県川上町時代の1995年に始まった人気イベントは
製作メンバーの減少で今年で幕を閉じることが決まっており、関係者に惜しまれながらフィナーレを飾った。

青森県の「ねぶた」を模した絵ぶたは高さ3~4Mで、木や針金の骨組みに和紙を貼り、
表面に描いた絵を内側からライトで照らしている。 
”ラストイヤー" は会場のマンガ絵ぶた公園一帯に「名探偵コナン」や「ドラえもん」など6基が登場し、
観衆から大きな拍手が起きた。
まつりは旧川上町の商工会員を中心に創設。
しかし、近年は住民の高齢化で絵ぶたの作り手が減り、実行委が来年以降の開催は困難と判断した。
山本弘修委員長(66)は「長年続けられたのは地域の誇り。
皆さんの記憶にとどめてもらえればうれしい」と感慨を込め た。(小川正貴)

・・・

一度しか見に行ってないが、

「まんが絵ぶた」は楽しいイベントだった。

 

 

まず人が楽しい。川上町の人々が歓迎してくれる。

会場が楽しい。絵ぶた広場は大観衆だが混まない。

絵ぶたが楽しい。東の青森、西の川上町(←ほめ過ぎか?)、とにかく楽しい。

 

 

 

大迫力の「絵ぶた」が眼前で見える。

 

 

 

パレードが終わったら成羽川に花火が打ち上げられる。

 

 

 

川上町出身の歌手・葛城ユキさんも2年前に亡くなった。

 

(この年は8/9が大雨のため順延された)

 

・・・

「絵ぶた」が中止になってしまうと、川上町の存在感がさみしくなる。

こういう事が日本全国の地方都市で起きていると、つくづく感じる。

 

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「奥の細道」笠島はいづこ五月のぬかり道   (宮城県笠島)

2024年08月11日 | 旅と文学(奥の細道)

西行法師も訪れ、一句を残している笠島。
雨とぬかり道で、ここまで来ながら、笠島を断念した芭蕉。
その芭蕉の残念さが、読むこちら側まで伝わってくる。

 

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


笠嶋やいづこ五月のぬかり道

中将実方の塚のある笠島はどの辺だろう。
ぜひ行って見たいと思うのだが、このぬかり道ではどうにもならない、
残念なことであるというのである。
「笠嶋や」は後になって「笠嶋は」と改めた。 
「や」 も「いづこ」も疑問の意があり、それが重なり過ぎて、旬が重くなる。
それに「笠嶋や」ではせせこましい感じであるが、
「は」とすると何となくおおらかで余韻があるように思われたのである。

この句にはさまざまな感慨がふくめられていた。
その一つは藤中将の塚をどうしても訪ねてみたいという懐古的な気持である。
もう一つはぬかり道をとぼとぼと歩いて疲れきった現実の気持である。 
この二つの入り乱れた気持をユーモラスな気持でかぶせているのである。 

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旅の場所・宮城県宮城郡  
旅の日・2019年6月29日              
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

笠嶋はいづこさ月のぬかり道

五月四日(陽暦六月二十日)陸奥国名取郡増田(いま宮城県名取市)のあたりで、
笠島を訪ねたかったけれども、
「此の比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐる」
に際して詠んだ句。
「笠島」は藤原実方の塚や道祖神社、西行ゆかりのかたみの薄のある村里で、
芭蕉は是非とも行ってみたいと思っていた。
しかし、折から五月雨(梅雨) の季節で、ぬかる悪路、それに疲れてもいるので、
どの辺が笠島なのだろうかと、遙かに見やるだけで通り過ぎた。

・・・

 

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「奥の細道」風流の初めやおくの田植歌  (福島県白河市)

2024年08月10日 | 旅と文学(奥の細道)

かつて福島県いわき市に住んでいた。
いつか地元紙に県内で一番多い句碑は
「松尾芭蕉の”風流の初めやおくの田植歌”で、その数は22~23碑である」
という記事が載ったことがある。

松尾芭蕉の句碑は、全国に約4.000碑あるそうだ。
笠岡への来歴はないが、もちろん笠岡市にも芭蕉の句碑はある。

この”風流の初めやおくの田植歌”は、さすがに福島県にしか建っていないだろうな。
しかも、福島県の関東寄りの地に限定だろう。

 

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旅の場所・福島県白河市白河城と阿武隈川(東北新幹線車窓)  
旅の日・2022.7.10                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


風流の初やおくの田植うた

白河の関址を越えて陸奥国にはいった芭蕉は、四月二十二日須賀川に相楽等躬を訪ねた。
「白河の関いかがこえつるや」と聞かれて芭蕉が示したのがこの発句で、
等躬・曽良と続けて三吟歌仙を巻いている。 

季語 は「田植歌」で夏五月。歌枕巡歴とい う風流行脚で、最初に聞くことのできた陸奥の田植歌は、
まことに興趣深く、風流なものであったよ、の意。

・・・

 

「日本の古典11・奥の細道」 世界文化社 1975年発行

須賀川 

とかくして関を越えて行くうちに、阿武隈川を渡った。 
左に会津の鍵が高く、右に岩城・相馬・三春の庄があり、
この国と常陸・下野の国との境界を作って山が連なっている。
影沼というところを通ったが、今日は空が曇って ものの影が映らない。
須賀の駅に等鰯という者を尋ねて、四、五日留められた。
彼はまず「白河の関はどんなお気持で越えられましたか」と問うた。 
「長旅の辛労で、身心ともに疲れ、その上風景のよさに魂を取られ、懐旧の情に断腸の思いで、 
はきはきと心も思いめぐらしませんでした。


風流のはじめや奥の田植うた

(白河の関を越えて、みちのくに足を印した私たちにとって、
みちのくでの最初の風流は、鄙びた田植唄を聞くことであった。)

何も詠まずに越えるのもさすがに無念なので、こんな一句を作りました」


・・・

 

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「奥の細道」かさねとは八重撫子の名なるべし  (栃木県那須野)

2024年08月09日 | 旅と文学(奥の細道)

「奥の細道」にはときに、小さな物語りのような紀行文がある。
なかでも那須野で出会った小娘の話と、越後の宿で会った遊女の話はしみじみとした味わいがある。

那須野の少女はその情景が目に浮かぶようだ。

 

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旅の場所・栃木県那須塩原市 
旅の日・2018年8月4日(車窓)                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


那須野は北に那須岳、西に高原山、東に八溝山にかこまれた広野で、狩猟の地として知られていた。
道というほどのはっきりした道はなく、それも縦横にわかれているのですっかり途方に暮れてしまった。
そのうち草を刈る男を見つけた。
「この馬を貸してあげよう。
乗ってさえおればよい。馬がとまったら、そこでおりて、こちらに向けて尻っぺを一つぶってください。
馬はひとりでにここへ帰ってくるからな」

芭蕉を乗せた馬は、ぼくぼく歩いて行った。
いつのまにか子供がふたり現れて、芭蕉たちのあとについてきた。
ひとりは小娘で、かわいらしい顔をしていた。
曽良が名前を尋ねると「かさね」と答えた。


かさねとは八重撫子の名なるべし   曽良


広い野原を通りぬけて、馬はぴたりと足をとめた。
芭蕉は馬からおりた。
そして馬に向って、「御苦労だった。ほんとに助かりましたよ」
と、人にものをいうように、お礼をいった。
そして草刈男の好意に報いるために、馬の駄賃を鞍壺に結びつけて、その首を野原の方へ向けて、尻を二つ三つ叩いた。
馬は満足したような様子で、いま来た道を帰って行った。

小娘のかさねのことは、いつまでも芭蕉の印象に残っていた。
翌年たまたま知人から名付親を頼まれて、その子にかさねの名を与え、これに因んで一文を草した。


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「奥の細道」剃捨てて黒髪山に衣更 (栃木県日光市)

2024年08月08日 | 旅と文学(奥の細道)

曾良は本名を河合惣五郎という侍だったが、
出立の朝、髪を剃った。
旧暦では4月1日が衣替えの日で、
芭蕉と曾良が日光を訪れたのは旧4月1日だった。

 

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旅の場所・栃木県日光市
旅の日・2004年6月26日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

剃り捨てて黒髪山に衣更  曽良

黒髪山は男体山である。
古木が多くて黒々としているので、この名があるということだが、
山をふり仰いでみると、霞がかかってそろそろ夏の季節に入るというのに、ところどころに雪が残っている。

曽良は黒髪山という山の名から、剃り捨てた黒髪を思い起した。
黒髪を落し墨染の衣に着換えて、旅に出たのであるが、黒髪山の麓まで来たら、
ちょうど四月朔日で、夏物に衣更えすることになった。 
いまさらのように、俗衣を僧衣にかえた日の思い出がよみがえったというのである。
曽良は河合氏、名は惣五郎、芭蕉庵の近くに住んでいて、芭蕉のために薪水の労をとっていたが、 
今度の旅に同行を希望して、髪を剃り墨染に姿をかえ、名も宗悟と改めた。

その夜は日光上鉢石町の五左衛門という者の家に泊った。
鉢石は神橋に近く、宿屋や土産物店の多いところである。大へんむさくるしい宿であったが、
宿の亭主の五左衛門は親切な人で、夕飯でも風呂でも自分でなにくれと面倒をみてくれた。
そしていうことには、
「わたしのあだ名を仏五左衛門と申します。部屋は汚のうございますが、どうぞ安心してお泊りください」
芭蕉はいかにも正直そうな亭主の顔をながめながらうなずいた。

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かつて「奥日光パークマラソン」という人気のマラソン大会があった。
その大会に初出場で日光を訪れた。
コースは戦場ヶ原から小田代原、中禅寺湖の湖畔と日本を代表するハイキングコースを20km走る。
マラソン風景がきれいで嬉しくなるほど気持ちのいいマラソン大会だった。
それから3ヶ月ほどして「マラソン大会は今回で中止となりました」という知らせが届いた。

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「奥の細道」あらたうと青葉若葉の日の光 (栃木県日光市)

2024年08月08日 | 旅と文学(奥の細道)

高校の修学旅行は「東京」と「九州」の二つのコースがあり、自由選択だった。
東京は「東京・日光」が恒例だったが、どういう訳か自分の年は「東京・信州」で日光に行けなかった。
当時は、関西以西に住む人にとって、日光は旅行地として北限だった。
当時は、「日光見ずにけっこーゆうな」と言われていた。
自分も、はやく一度日光を見て、一人前に「けっこうじゃなあ」と言う事を言ってみたかった。

それから数十年を経て、やっと日光に行く機会があった。
日光は、感激するほどきれいな「けっこー」なところだったが、
腰を抜かすほど見物料が高かった。

 

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旅の場所・栃木県日光市二荒山神社・日光東照宮  
旅の日・2004年6月26日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

・・・

「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行


あらたうと青葉若葉の日の光

『おくのほそ道』に出てくる一句であるが、これを作るにも苦労があった。
「日の光」は日光という場所を指すとともに、現実の太陽光ともとれる二重表現である。
これは日光東照宮への挨拶句でもある。
新緑の森を、青葉の新鮮な緑と若葉の黄金色に分かち書きにして、
天の与えた美景を十全に表現した俳句になった。
日本語の表現の美にうっとりとさせられる。

 

・・・

 

・・・

「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


あらたうと青葉若葉の日の光

四月一日東照宮に「詣拝」した時の吟である。
季語は「若葉」で初夏四月。 
ああ、まことに尊く感じられることよ。
この青葉若葉が降りそそぐ日の光に輝いている様子は、の意。
「日の光」は、初夏の太陽光線であるとともに、地名の日光を詠みこんだものであるが、
東照権現・徳川幕府の威徳に対する賛嘆の気持ちもこめられている。


・・・


・・・

「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

あらたふと青葉若葉の日の光


この句には東照宮を讃美する気持がふくまれている。
徳川家の御威光が八荒にあふれ輝いている。 
尊いことだ有難いことだと、偉人の恩沢を讃美しているのである。
それから東照宮の荘厳な建物を讃美する気持も含まれている。
青葉若葉につつまれた東照宮が金碧燦爛と輝き、その上に初夏の日がまぶしく降りそそいでいる。
りっぱなことだ、尊いことだといっているのである。

・・・

 

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